本当にここまで来た。あっという間だった。心の底から「怒り」がわきあがってくる。
「怒り」は国会の「中の人」に向かうだけじゃない。マスコミにも向かう。
この間のマスコミの教基法にかかわる報道は、国会内部の「与党と野党の攻防」にのみ矮小化されていた。でも、ほんとうに攻防をしていたのは、国会の外側にいる何万の人間と「中の人」の日常感覚の対立にあった。しかし、そのことは一切報道されなかった。おそらく、教基法は「ニュースとして無価値」という判断をしていたんだろう。そして、価値のある報道は松坂のことだったりしたんだろう。それが報道のあり方であるとするならば、日本のマスコミはその程度のことということだ。
もっとも小さい声を拾い上げることが「人権」だとわたしは考える。そのようなわたしの考えに基づくならば、いまのマスコミの報道は「人権」と真っ向から反する態度をとりつづけてきたと、わたしは考える。そして、それが今回の「改悪」を後押しする要因のうちのひとつになったと、わたしは考えている。
敗北感を抱きながら、渋谷に行った時、号外はまかれていなかった。スタンドに並ぶ新聞の一面は、いつもとかわらない内容でしかなかった。いじめの問題や教員の待遇の問題をはじめとして、これほどまでに「教育」に「関心」を持ちながら、その教育の基本にかかわる路線の変更にはまったく関心がない。これが、この国の教育に対する姿勢であるとするならば、すでに、この国の教育はその終焉を迎えているとしか、わたしには考えられない。
2006年12月15日は、日本の教育の「死への行進」がはじまった、その大きな一歩の日として、いつの日か記憶されることだと思う。いや、この日が「過去のこと」として記憶されるその日を、一日も早くとりもどすための闘いが、今日からはじまった。