今日は朝、出勤がてらパートナーを送らなくちゃなりません。てことで、一緒に車に乗っておでかけ。
道中のラジオを聞いていると、なにやら行政の広報コーナーがはじまりました。なんでも、人権啓発室かなにかの誰かが話をしているみたいです。そういえば、もうすぐ人権週間だよなぁ。
で、パーソナリティーが
「これを機会に人権について考えてみませんか?」
と、まぁ原稿を読まれたんですが…。
その瞬間、ものすごい違和感が…
「人権について考える?」
もしかしたら
「う〜ん、人権…」
とか言って、腕組みしながら考えるのか?
で、パートナーにそのことを言うと、
「まぁそんなもんちゃう?」
と大人の答が返ってきました(笑)。
でも、これって、T川さんなんかが聞いたら3秒で沸騰するんじゃないかと思うのです*1。
「考えてどうすんねん!行動するんとちゃうんか!いつから人権は道徳になったんや!」
みたいな。
まぁ、それはそれとして、パートナーが言うには、
「おそらく日常的に人権を意識して生きている人って少ないんじゃない?」
ってことなんですよね。よくわからないけど。でも、そんなものなのかなぁ…。
なんちゅうか。
生活すること*2って、わかれ道の選択の連続だと思うんですよね。で、どの道を選ぶのかということを、意識的であれ無意識であれ、常にやり続けているんだと、わたしは思っているんです。その時、なにを基準に選択するか。例えば、快楽であったり、お金であったり、楽さであったり、それは人それぞれだし、時と場合によっても違うし、ひとつのことだけじゃなくて、いくつかのことを判断基準にしたりもするんだと思うのです。
で、わたしの場合は、そこに「人権」というのが組み込まれている。で、その「人権」というヤツはいったいなにかというと、わたしにとっては「いろんな友達」の顔なんですよね。
「この選択をすることが、あいつにとってどうかな?あいつにとってどうかな?あいつを傷つけないかな?あいつは喜ぶかな?」
そうやって選択をしていく。で、新しい友達ができると、その分だけ選択の基準が豊かになるのでおもしろい。
だから、わたしにとっては「人権」というのは、どこかよそにあるものではなくて、自分が生きることと一体になったものなんですよね。だから、ぜんぜん難しくない。
なんてことを考えていたのですが…。
あ、そうか、これが「人権について考える」ことなのか(笑)。
身につまされます。そのパーソナリティの言葉は確かに無意味。「じゃ、何を言えばいい?」と問われる立場でもあるんですが、答えがみつかりません。”〜にはこんな権利がある”という情報を伝えても「建前」にしか聞こえないだろうし。公共の場で情報を流すなら、せいぜい各種相談電話(例:虐待や過労死の110番とか)を伝えるぐらいが現実的なのかな。でもそれじゃ「じんけん=すごく大変な人を助ける」みたいな図式でしかなく…。11〜12月は「人権週間ブルー」ですわ。この週末は某ヒューマン祭りで店番やし(溜息)
現実の生活の中で「人権」が、判断基準になっている人なんて、たぶん100人に1人もいないかもしれません。
itukiさんのそういう世間離れしたところ、少し危ぶみつつも、とても好きです。
私メは『そう!そう!』
って思いました。
オチもヒネリもありませんが
沢山の出会いの中で
いつしかそーゆー考え方になっていました
始まりがいつきさんやからかな( ̄▽ ̄)
あー、最初のコメはラジオだけに反応してしまってたと反省。
itukiさんの「何かを判断・選択する時にいろんな友達の顔が浮かぶ」という説明、めっちゃいいですね。自分だって、血肉化してるのはそういうもののはず。「いい出会い」ができる条件、環境づくりを考えたいと思いました。
> こちゅかる子さん
パーソナリティーの方(知りあい)は、おそらくそういう原稿を読んでいるんですよね。で、広報の内容は「某ヒューマンまつり」の宣伝だったりする可能性が大(笑)。
でも、どうやったら「いい出会い」がコーディネートできるんだろうなぁ…。
> 姐さん
ん〜。でも、たぶん自分としては「人権」とは思っていないのかもしれないです^^;;
> サンチョルさん
川口くんが「大分で変なヤツと会ったよ」とうれしそうにしゃべっていましたよ(笑)。まぁそうやって「つながり」が広がっていくんですよね。