杵築藩浅黄半襟逃散一揆

朝、リハビリ診察へ。それにしても、何が悲しくて7時半に出なくちゃならんのかとは思いますが、新幹線の時間があるのでやむを得ません。てことで、診察受付開始15分前に到着。それでもすでに5人並んでおられました。すごいな。
診察前にレントゲン。そして1番の診察です。ちなみにレントゲンはこんな感じ。


完全にくっついています。次は抜釘ですね。ブロック注射でやるか全麻でやるか、考えどころです。リハビリは今月いっぱい続けるということで、診察終了。その後、リハビリの予約に行って、病院を後にしました。
車を置いて、そのまま京都駅へ。しばし待って、新幹線の中の人になりました。少し仕事しようかと思ったけど、猛烈な睡魔が襲ってきたので、そのまま昼寝。新幹線は小倉で乗り換えて、ソニックの中の人になって、降りたのが杵築駅。ここにH本さんが来てくださっています。向かうは山香の教育庁舎です。今日は杵築藩浅黄半襟逃散一揆についてのレクチャーを受けます。
被差別民の一揆といえば、真っ先に出て来るのが「渋染一揆」です。が、それよりも50年ほど前に、杵築藩で「浅黄の半襟」を強制されそうになった被差別民による一揆があったってことを、初めて知りました。
ちなみに、この一揆がおもしろい。「逃散」とあるように、隣の島原藩豊州領に逃げるんですね。それが一揆になる。でもまぁ、藩主としては、支配下の人が逃げたら「支配能力なし」ってなるから、十分に一揆なんでしょうね。
で、なぜ「浅黄の半襟の強制」となったかというと、もちろん身分の引き締めです。で、なぜ身分の引き締めをしなくちゃならなくなったかというと、村人と「穢多」の間に日常的な交流があったからです。でも、日常的な交流があるのは、当たり前ですね。だって、生活をしていたら、交流は必然的に起こります。そこで「交流するな」と。それに対して「逃げる」と。
ただ、この一揆の前に、村人が助合米を求めて島原藩豊州領に逃散をして、成功しているんですね。どうやら、その成功を知っているから「やるぞ」となった。ただ、何せ被差別民ですから、果たして自分たちが同じパターンで成功できるかどうかはわからない。でも、5ヶ月ほどかけて入念に検討して実行したとのことです。
で、この一揆、何がすごいかというと、バラバラに住んでいる人たちが、同時に移動をする。どうやって連絡を取り合ったのかわかりません。でも、それだけの組織力があったんだろうなということは、何となく想像できます。そしてもうひとつ、島原藩豊州領が100人以上の被差別民を受け入れた。そして、島原藩と杵築藩でネゴシエーションして、最終的に「お咎めなし」になったという。
こういう話を聞くと、近世って、今のわたしたちが考えているというか、習ってきたというか、そういう姿よりも、はるかに流動的というか、そういう世界だったんだろうなあと思います。
ちなみに、その後、もう一回「おふれ」が出たけど、おそらく「形だけ」だったんじゃないかという話です。てか、実は島原藩でも同じことをしようとしたけど、庄屋たちが「無理なんじゃない?」って意見具申をして、おふれを出すのを断念したんだとか。
なんか、いろいろすごい一揆でした。
あっという間の1時間半のレクチャーが終わって、H本さんの車に乗せてもらって大分市へ移動。ホテルにチェックインして、すぐに出発。もちろん「呑み」です。
どん!


関あじ&刺身盛り合わせです。
めっちゃおいしい。調子に乗ってお酒を飲んで、めっちゃしゃべって。あっという間に10時です。さらにコンビニで酎ハイを買って、部屋飲み。
いかんいかん。寝なくちゃ。明日と明後日が本番です。