かつて、京都府立高校でもっとも早く「習熟度授業」を導入したのは、Y田高校でした。そこで習熟度授業を導入した教員がうちのガッコに転勤してきて、うちのガッコでも導入したので、うちのガッコはその次くらいかな。
当時、習熟度授業は「差別選別の授業」と批判されていました。それに対して、「反差別」を旗印にしている人たち(わたしたち(笑))は「そもそも学校制度が差別的で、そこで差別されてる子に力をつける」と主張して、習熟度授業を導入していきました。
ところが、習熟度授業が効果?をあげるにつれ、高校現場に習熟度授業が受け入れられるようになり、いまや教育委員会も積極的に習熟度授業を推進するようになっています。というよりも、京都府全体で習熟度授業をやってる(笑)。つまり、入試制度を変え、学校間格差をつくってるってことです。
それだけじゃなくて、「習熟度神話」は学校間格差によって輪切りされたそれぞれの学校でも習熟度を導入するところまで来ています。
で、わたしはというと、20年くらい前から「習熟度に反対」の立場をとってます。習熟度を導入したわたしがです。「習熟度をしろ」という管理職に対して「イヤ!」といい、「少人数ならいいけどね」と言い続けてきました。
なぜそう考えるのか。
それは簡単です。「差別選別の授業」だからです(笑)。
かつてわたしたちが導入した習熟度は「差別選別の学校」の中で置いてきぼりにされた子どもたちに焦点化していました。でも、今はまったく違います。
「個々の力にあった指導をするのが子どものため」
ってなってます。でも、それはほんとうに子どものためか。たぶん違います。ほんとうは
「個々の力にあった指導をするためには学力で子どもをわけるほうが効率的である」
という理屈です。だから同質集団をつくろうとする。
で、この発想はどこから来ているのかというと、競技スポーツから来ているように思われてしかたない。つまり「勝つ」ためです。では、なにに勝つのか。それは他の高校です。その時の指標は大学進学率と国公立大学への進学者数です。
でも、高校で必要なのはそれなのか?わたしたちは試合やコンクールのあるクラブ指導をしているんじゃないです。授業をしています。そこで必要なのは、「生涯スポーツ」の観点だと思ってます。学ぶことの楽しさを知り、生涯にわたって学ぶことを楽しむ、そのきっかけづくりです。そのために必要なのが、今の時流にならっていうなら
「主体的で対話的な深い学び」
です。そこにあるのは「学び」であって「指導」ではない。
つまり
「個々の力にあった指導をするのが子どものため」
は、授業のあり方や学校のあり方、さらには学校制度のあり方として根本的に間違ってるってことです。
同質集団の中には「対話」なんてない。だって「対話しなくてもわかりあえる」のが同質集団だからです。多様な人間がいるからこそ、そしてそこに「暴力による支配」を許さないからこそ、対話が生まれると思ってます。
だから、習熟度に反対しているんです。
が、どうやら、習熟度神話は学校の隅々まで浸透しているようです。そんな中、かつてわたしたちが導入した習熟度授業を知らずに習熟度神話に触れた若い世代の教員は、「それでいい」と思ってしまうでしょうね。
「多様な学校」をつくって「その子のニーズにあった選択」が叫ばれる昨今です。普通科高校を変えていこうという論議もなされています。それは「同質集団」をつくることに他ならない。そこには「主体的で対話的な深い学び」はない。そこにあるのは「効率的な指導」です。
なぜそんなこともわからんのかと思います。なぜわからんのかさっぱりわからない。
でもまぁ、たぶんこういう考え方は、ほんとに少数なんだろうな。
それにしても「差別選別の学校」に抗して「習熟度授業」を導入したわたしが、「習熟度学校体制」を「差別選別の学校体制」と批判する日が来るとはなぁ。