ぐるぐるの根源

朝、なんとなく昨日のぐるぐるが言葉をまとって浮かんできました。
たぶん、「共感」にかかわることなんです。
とても簡単に言うと、あるできごとに出会った時、それに共感することを選択する人と共感することを選択しない人がいる。わたしは後者です。
共感は難しい。なぜなら、共感するためには、共感するための共通のベースが必要かなと思うからです。そのための自分のベースをどうとらえるかなんですね。
わたしはトランスする前に、なぜ女性たちが女性というだけであれほどまでに簡単に共感するのかわからなかった。だって、女性であることはその人の属性のひとつでしかなく、他の属性まで含みこむと、ひとりひとりの女性は「ベース」がまったく違う。
もちろん、「違い」を乗り越えて、「女性であること」の共通の属性はあまりにも大きいだろうし、「そこで共感するんだろうな」とは、漠然と思っていました。
あるいは、フェミニズムを少しかじることでベル・フックスたちの存在によって、そうした違いを乗り越えてきたのかなとも思わないわけでもないです。でも、やはり違うでしょうね。フックスは、白人女性には見えなかった壁を可視化し、その上で「この壁を越えよう」と問いかけたんじゃないかと思います。よく知りませんが(笑)。
いずれにしろ、女性が女性に共感する姿を見た時、常にその「共感」から、わたしは自動的に排除されていました。
で、いま、トランスして、女性と共感できるかというと、できません。だって、女性としての経験値があまりにも違うから。そして、わたしの「トランス女性」以外の属性があまりにも大きいから。
そして、わたしが共感できる可能性を持つ「人」が果たしてどれくらいいるかというと、まぁほとんどゼロでしょうね。なぜなら、トランスという経験のわたしにとっての大きさと、その共通の経験をした人の少なさと、さらにトランスそのものへの考え方の共通項を持つ人の少なさと、さらに他の属性の違いを考えたら、「共通のベース」なんて望むべくもないからです。
これはトランスしてからの話ではないですが。「非当事者」として反差別の中にいる時に常に感じていたことです。部落であること、在日であることで共感する人を見た時、その共通のベースを持たないわたしは、そこにはいませんでした。
そう考えるから、わたしは安易に共感しないし、共感しそうになった時に、それをやめます。それがわたしの習い性にすらなっています。そしてそういう自分を「冷たい人間だなぁ」とも思います。
世の中にはエモーショナルに共感する人がいます。あるいは、ひとつの共通項を見つけ「共感することを選択する」人がいます。うらやましく感じます。
でも、「共感することを選択しない」という選択をしたのはわたしです。なぜなら、安易な共感は、同時にそこから排除される人をつくると思ったからです。なので、それでいい。

あくまでもこれはわたしの立ち位置です。誰かのことを批判するものでもないし、共感そのものを批判するものでもないです。
ではなくて、なぜ自分が共感しないのか、なぜ自分が怒りを共有しないのか、なぜ自分はこんなに冷たい人間なのかということをぐるぐると考えた中で、ほんの少し浮かんできたことを書いただけのことです。

ほぼほぼいけたか?

11月に入って何度かあったおべんきょも終盤です。自分の本来のフィールドではないところだけど、ここでおべんきょすることもおもしろいし、たぶん役に立つはずです。いや、「具体的ななにか」という形で役に立たなくても、なにかとつながるはずです。というか、すでにつながってるかな。
それにしても、お題をもらった時にはここまで来るとは思わなかったし、「おべんきょ」なんてものはひとりでやってきて、ひとりでやるもんだと思ってきたけど、何人かでやるのもまたおもしろいもんですね。
わたしの担当分野そのものは、実はわたしの本来のフィールドです。タイトルは、暫定的には「高校教員に見られるジェンダーにかかわる行為の様相」ですが、それをどれくらい掘ったかというとメッチャ浅いので、まぁたいしたことはないです。でも、そこのフィールドではなく、異種格闘技戦的なフィールドなので、それはそれでいいのかな。