「思想」を誰のものとするのか

今日は「石田梅岩」と「石門心学」が題材でした。とはいえ、石田梅岩の「思想」がテーマではなく「伝え方」がテーマでした。
そもそも儒教というか朱子学というか、そういうのって「読む」ことからはじまります。はじめは意味がわからなくてもとにかく読む。そして、言葉を身体化させて、思考の言葉を身につけていく。で、そうやって身につけた儒教の話をやりとりできる相手は、同じ言語を身につけた人なわけです。であるからこそ「素読」からはじまる儒教の習得の仕方が決められていた。
ところが、石田梅岩は、メインストリー厶の儒学の勉強をしていないんですね。でも、「体得」してしまった。体得してしまったけど、メインストリームの儒者からはぜんぜん相手にされない。でも、体得した限りは「伝えたい」と思う。で、「一番伝えなくてはならないのは?」って考えた時、それは儒者ではなく一般大衆であると考えます。一般大衆とは、例えば「第一次産業ではないがゆえに差別されていた商人」であり、あるいは「女性」であるわけです。そういう人たちに伝えるためには「文字」ではなく「講話」のほうが伝えやすいわけです。
そこから、「いかに伝えるか」という試行錯誤がはじまり、やがてそれは「道話」という石門心学の「伝え方」へと結実していきます。
それまでの儒教との一番大きな違いは、「Mass・rogue」であること。それまでは「Dialog」、すなわち一対一で「思想」を師匠から弟子へと伝えていたのを、大人数を相手にした伝え方へと変わっていくわけです。
そこで例えば、「高座」みたいなものを用いることで劇場的要素を取り入れる。あるいは日常の言葉を使う。普通に起こる出来事を取り入れる。オノマトペを取り入れる。そうすることで、梅岩の思想は大衆に広がっていきました。
で、従来の思想史の考え方としては、梅岩はまぁいいとして、弟子たちは梅岩の思想をどんどん薄めていったと捉えられていたんだけど、そうではなくて、そういう「伝え方」をとったことそのものを評価すべきではないかという問題提起でした。

で、これを読んだわたしは大爆笑です。
まさにわたしが「お座敷」でやっていることそのままです。わたしの「お座敷」は劇場的でありパフォーマティブであると、わたし自身は思っています。そしてそれは、わたしの数学の授業にもあてはまります。

でも、ふと考えます。それは前回のテーマとも重なりますが、「批判的であることを身に着けていない人に「わかりやすく」伝えた時、学問としては死ぬ」ってことです。
「上手な伝え方」は、そのまま下手すると「洗脳」あるいはそこまではいかないまでも「だまし」につながってしまう。
じゃあ、そうではなく「自ら深めよう」とする伝え方との差はなにかというと、やはり「批判の芽をつまない」というところかなと思いました。そのためにはどうするか。そこで、「学びへの参加」が大切になるんじゃないかなと思うのです。
「参加」というと、つい「アクティビティ」と捉えられがちだけど、身体は止まっていても、心や頭が活動する「参加」ってある気がします。
つまり「正しいことをうまく教えるために伝える」のではなく「学びへの誘い」としての「伝える」です。たぶん、そういうことが必要だし、そういう「伝え方」を広げていくことが、社会全体が「洗脳」「だまし」に向かいつつある今、そういう流れに抗う一つの方法なんじゃないかな。そんなことを考えました。