家に帰ってダラダラと新聞を見ていたら…。
なんか、最近死亡事故のひき逃げ(ひき逃げで死亡事故にする)が多いということが書いてありました。
識者によると、「救助活動をしたら減刑すると効果的」とか。なるほど。で、遺族会としては「より厳罰化を」とのこと。なるほど。
まぁ、それはそれとして、気になった遺族?のコメントがひとつ。
「命を大切にする教育をもっとやらないと(みたいな)」
また教育か…。
命を大切にするなんてこと、教育の課題なんですかねぇ。まぁ、極めて広義の教育には入るのかもしれないけど、そこまで行くと「教育」という必要はなくなる気がするんですよね。ここで新たに「教育」とわざわざ言っているということは、「学校教育」とか「家庭教育」という限定した話だろうし、「家庭教育」にわざわざ「教育」という言葉を使うとも思えないので、おそらくは「学校」に限定した話なんだろうなと推測できるのですが…。
んじゃ、学校がない文化圏・地域では「命は大切にしていない」のかというと、おそらくは全然違うんじゃないかな。てか、もしかしたら学校教育が行き届いているところの方が命が大切にされていなかったりして^^;;。
いつも思うんですけど、学校って「タテマエ」の世界なんですよね。で、世間は「ホンネ」。だから、学校でいくらいろいろなことをやっても「そんなこと言ってもキレイゴト。世間では通用しない」とかいう話が出てくる。
でもね、わたしは「タテマエ」は大切だと思うのです。「タテマエ」と「ホンネ」が自分の中でぶつかる時、何の躊躇もなく「ホンネ」を選択するのではなく、そこに葛藤があればずいぶんと違うと思うんですよね。その程度の「タテマエ」の強さが必要だと、わたしは思っています。
でも、現実にはどうかなぁ…。「タテマエ」の社会*1への不信感と不満感が渦巻く中で、「タテマエ」の力がすごく弱まっているように思えてしかたがない。なんというか、バランスが崩壊しているんですよね。
で、その不信感と不満感は、実は「架空の」信頼感と満足感への渇望だったりする。しかもその渇望は、それぞれの要求に従ってのバラバラな内容だったりします。その渇望感が満たされない時、信頼感はふたたび不信感へと変化する。
なんちゅうか…。
まずは、「自分がしたいことは自分でする」。
それから、「自分ができることを他の人もできるとは思わない」。
そして、「自分にできないことを他人に頼む時は、それなりの遠慮を持とう」。
自戒の念を込めて…。
っちゅう「タテマエ」の社会の話でしたわ(笑)。
*1:まぁ言ってみると学校ですかね