神の法廷

今日は、ある人権関係の講演のテープおこしをしました。
テープおこしって、すごく勉強になります。なにしろ、一字一句漏らすことなく聞かないと、テープおこしってできませんからね(笑)。
で、今日はテープをおこしながら、思わずディスプレイが涙でかすむ瞬間が何度かありました。いや、もちろん「疲れ目」でかすんだわけじゃないですよ(笑)。
テープおこしをした人間の特権で、その箇所を少し長くなるけど引用しますね。

だからいつか私、3つのことを申しましたけれども、我々の、この人権を守るための、平和を求めるための闘いといいましょうか、運動といいましょうか、その土俵を割らないようにしよう。これがひとつ。どんなことがあっても土俵を割らない。
それからもうひとつは、対話をやめない。対話し続ける。断られても断られても、対話を続ける。聖書の中にもありますよね。「聞きたくなくっても、あんまりうるさいから、しかたなしに奥へ消えてやる」なんてのがね。イエス様、たとえ話をなさると思いますけれども、対話をやめない。
最後に、希望を捨てない。どんなことがあっても希望を捨てない。ということだと思います。
(中略)
この「フィリピ人への手紙」っていうのは、使徒パウロの最後の手紙で、遺言のようなものなんです。しかしこの手紙のキーノートは「喜び」なんです。「喜びの手紙」ってことで、このフィリピの手紙はいつも読まれていきます。
しかし読んでいただきましたように、彼は獄中に閉じこめられているんですよ。まさに彼こそが敗北の歴史を生きている。充分自由に伝道できない。獄中に閉じこめられてしまっている。負の歴史を、彼自身生きているわけです。ところが、負の歴史を生きている獄中から、「喜びなさい」「喜びなさい。あなた方がはじめられたことは、キリストの日までに、必ず神様が成就して下さる。キリストの日までに。キリストに、キリストに向かって行こうじゃないか」。希望にあふれる手紙が獄中から書かれているっていうことに注目していただきたい。
梶原先生の恩師でもあります鈴木正久という牧師、日本基督教団の戦争責任告白をはじめて公にした、あの鈴木正久牧師が、亡くなっていかれる病院の中で残された遺言のテープがあるんです。そのテープの題名は「キリストの日に向かって」。テープの題名です。ピリピのこの箇所からとられているんですね。
だから、負の歴史を、敗北の歴史を生きる時にこそ、希望の味わいがありありとわかってくるんです。平穏無事の時にはね、ほんとうの希望というのはわからない。どん底に追いつめられてこそ、希望の味わいっていうのがありありとわかってくるんですよ。
聖書の希望っていうのは、いっつも「にもかかわらず希望」じゃなかったですか?聖書の希望っていうのは、いつも「にもかかわらず望む」。これが聖書の希望なんです。だからこそ、負の歴史の中に生きる私たちの、だからこそね、希望が語られなきゃならない。希望の歌が歌われなきゃならない。そういうふうに思います。

フィリピの信徒のための祈り
 フィリピ1章3節〜11節
わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。
あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。
わたしは、こう祈ります。
知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。

なぜあれほどまでにクリスチャンってかたくなに、一途に、あきらめずに「闘い続ける」のか。それは、キリスト教そのものが、「イエスの敗北」から出発しているからなんでしょうね。そんなことを考えました。

でも、テープおこし、もうやりたくないなぁ(笑)。