朝方、すごい揺れでした。あーびっくりした…。
月: 2007年1月
交流学習会・2日目
朝、責任者は責任があるので早く起きられたみたいです。でも、年寄りのわたしは、ちょっと寝坊気味。すんません。
と、横を見ると、きのうの夜、飲み過ぎでふらふらだった子が、「しんどい〜」とか言ってます。「ふだん、あんまり飲まないの?」と聞くと「飲みます。吐くまで」と殊勝な答え。若いな…。
とりあえず、わたしはシャワーを浴びて、朝食。和食か_| ̄|◯。
今日のプログラムは、フィールドワーク。わたしの担当は「映画『パッチギ!』に見る東九条」。なかなか魅力的でしょう!で、案内をして下さるのは、東九条で生まれ育ち、いまも東九条マダンを中心的に担っておられる朴実さん。
いや、よかったです。ほんとうに。
いかに東九条というところが行政のみならず、「京都の人々」から放置されてきたところかということ。その背景にある朝鮮人差別の実態。そんなことが、街の中のあちこちにあるんだということがよくわかりました。でも、それって、ただ単に、東九条を散歩しただけではわからないんですよね。やはり、すぐれた案内人がいるからこそわかることなんです*1。これがフィールドワークというものなんだと思いました。ほんとうに勉強になりました。
街から帰ってきてからの話もすごかったです。「東九条マダン」という、民族文化運動をはじめる時の思い、はじめた時の苦労。いまもかわらない「同化と排外」の圧力と、それでもかわりつつある運動の成果。今、朴実さんが次の課題として考えられていること。そんなことが、やわらかい口調で語られました。でもね、その底流には、つねに「恨(ハン)」というのがあることも、ものすごく感じました。
そんな朴実さんと親しくつきあわせてもらっている自分*2を振り返るいい機会にもなりました。
そんなこんなで、あっという間に午前が終了。で、学習交流会は終了。
準備はいろいろあったけど、けっこう楽しかったし、あっという間にすんだなぁ。
で、一日半ほどあけた家に帰ると、そこには日常生活がありました。
昼ご飯は、東九条で「食べたい!」と思いながらガマンをしていたお好み焼き*3。ビールを飲んだら、ほろ酔い気分→ちょっと昼寝。
夕方から子どもの数学を見て、ちょっとテレビを見て、明日に備えて寝ることにしましょう。
学習交流会・1日目
今日から明日にかけて、組合青年部の近畿ブロックの交流学習会とやらがあります。で、なぜかわたしもその運営スタッフになってしまいました。
まぁ、普通の組合であれば、わたしみたいな年寄りはさっさと青年部から出ているのですが、高齢化が著しいうちの組合では、「年齢他認」が原則でして、まわりが「あなたは青年部」と言えば青年部になってしまうというおそろしい状況があります。なので、なぜかわたしもまだ青年部らしい。
今日のわたしの担当は、開会行事の司会*1とチャング教室のコーディネート。
司会の方は、まぁなんということもなく終了。適当にネタを振ったけど、さすがに「開会行事」などというマジメなセレモニーではみんな笑ってくれませんでした_| ̄|◯。
チャング教室はなかなかのものでした。もちろん、わたしは単にコーディネート役で、講師の方がおられるんですけどね。
なにしろみなさん、チャングを触るのがはじめて。そんな人たちに、チャングの基本的な知識からはじめて、基本的な打法、さらに立って叩くところまで、わずか3時間ほどでやってしまわれました。
はじめのうちはすごく緊張しておられた参加者も、3時間後には表情もほぐれてきて、チャングを楽しんでおられた感じだったが印象的でした。そうか、楽器にはそういう力があるんだ。
その後、夕食交流会。長〜いあいさつをするヤツもいるけど、この手の集まりではしゃーないです。たぶん、それでも短い方かな。交流会の最中に、チャング教室の発表会なんかもあって、けっこうもりあがった交流会でした。
その後、2次会。三条に繰り出して、しばし飲み。気がついたら閉店の時間です。
ここで他府県の参加者が「ラーメン!」と騒ぎはじめました。三条なんで、「長浜ラーメンかなぁ」と思ったのですが、えらい人混みで断念。で、ラーメン・ラーメン…。で、「そうだ!今出川に行こう!(笑)」タクシーで行きました。もちろん、みなさんかなりのカルチャーショックを受けておられたようです*2。
で、宿舎に帰って、しばし歓談。その後、爆睡です。
ま、負けた希ガス…
ぜったいにやりたくないと思っていました。でも、あまりの圧力に、とうとう耐えきれなくなってしまいました。なので、ついやってしまいました。
いえね、たしかに「時代の趨勢」に身をまかせた方が楽なんです。そして、圧力に抗するのではなく、圧力に屈するのでもなく、圧力を受け流すことが、いろんな人にとって、「その場限り」ではあるけど、逆に感謝もされるのかもしれません。
でも、ほんとうにそれが「正しい」のか。そう考えると、「流れに竿さす抗う」と言われても、頑として自分の主義主張のままに生きていかなくちゃならないとは思うのです。
一度流されてしまうと、もう元の流れにはもどれません。あとは、不本意な流れのままで、とりあえずやりすごしていくしかないのです。
そうはわかっていましたが、とうとうやってしまいました。
そうか、今日だったか…
家に帰って新聞を拡げて、テレビ欄を見ていると「安田講堂」も文字が…。そうか、今日だったなぁ。
出勤
6時起床。しばしここがどこかわからなかったけど、ホテルの中であることを確認。ふと横を見ると、トースターが飛んでいました(笑)。
あわててLOOXはスリープさせて、シャワーを浴びて、ホテルを脱出です。で、新幹線に乗って、一路京都へ。そのまま職場に直行です。
それにしても、普段と同じ時間に起きて、普段と同じくらいの時間に出勤を開始して、職場に到着したのがふだんより2時間ほどしか遅くない*1。って、どういうことよ。
*1:もちろん休暇を取っていますよ
もちろん、その後は総括会議
用事があったり早く帰ったりしなくちゃならない人もいたけど、数人で「ちょっと行きましょうか」ということになって、前にも行ったお店で一杯。ここで、収録ではできなかったさまざまな話が爆裂。そうか。世論を味方につけるためには、「ベターな選択」を提示することもまた必要なのか…。
で、ホテルに帰ったのが2時。ここでようやくメールチェックをして、でもそのまま爆睡…。
なんでここにいるんだろう…
で、向かったのは、渋谷。といっても、今回は(笑)飲み会じゃありません。
会場に着くと、すでに他の方々はそろっておられます。晩ご飯のお弁当を食べながら、しばし雑談。そして、スタジオへ。
今回のテーマは「就職」。
う〜ん。自分としては、「不完全フルタイムトランスジェンダー」なんで、はたして「きちんとした性別」で働いている人たちと話があうんだろうかという不安もあります。で、実際に今回とりあげられた人たちの話を聞くと、すごい!自分がちっぽけな存在だなぁとつくづく思わされました。
ただ、今回は今回で自分なりにはヒットがありました。
ひとつは、ソニンさんから在日の話がかなり聞けたこと。民族学校出身で、ダブルスクールに通っていたこととか、そういう「在日」としての自分へのこだわり。あと、いまのアイデンティティの持ちようなんかもおもしろかったです。「自分は、朝鮮人でも日本人でもない「在日」という存在」「わたしは、在日として自分を好きになってくれた人はそれでそれで大切な人だし、わたしという人間を見て好きになってくれた人は、それでそれで大切*1」「在日っていうことを抜き出わたしを好きになってくれた人に、いちいち在日っていうことについての知識は要求しない」。いいとか悪いとかじゃなくて、おもしろかったです。
もうひとつは、いつのまにか石田さんとか堀尾さんが「トランスジェンダー」という言葉を使いはじめたこと。さて、こちらの方は、放映時にどうなっているかなぁ…。
それにしても、いつも思うのですが、「なんで平日のこんな時間に、わたしはこんなところにいるんだろう」という、この違和感。時々、ふと恐ろしくなります。なんか間違っているよ…。
放り込まれたよ(涙)…
で、夕方新幹線に(笑)。
いや、車両に入った瞬間に「なんじゃ、こりゃぁ!」。ひたすら「黒い」です。なんともまぁ、oyajy(どうか「オヤジィ」と読んで下さい)な空間です。そりゃそうです。平日夕方の東京方面の新幹線なんて、そういう空間です。
問題は、「隣に座る人」(笑)。
わたしが席についてしばらくしたら、一人で移動しているらしい若いお姉ちゃんが座りました。まぁ、ホッとしましたね。おとなしく本を読んだり、ちょっと寝たり。
ところが、そのお姉ちゃん、名古屋で降りました。停車中、祈るような気持ちです。長い長い停車時間の最後に「すみません」と入ってきたのが、oyajyな人_| ̄|◯。
あとは地獄です。新聞を読みはじめる。本を読みはじめる。それはいいです。その間、ずっと中間にある「肘掛け」を占領しています。しかも、わたしがそこから身体をよければよけるほど、より占領地を増やしていきます。
なんでそうやって、自分の領土を増やそうとするのかなぁ。と思いながら隣をみると、3人掛けの通路側の人、肘掛けから肘をはずしています。う〜む。
というの、まさにライブで書きました。はぁ…。
でも、語る…
授業って、ある意味すごく自由な時間です。というのは、教室という空間の中で子どもたちと過ごす50分は、常にハプニングの連続だから、「予定通り」ということはあり得ないからです。逆に言うならば、そのハプニングを自分でつくることもできるわけです。
で、今日は1月17日。
もちろん、12年前の「あの日」のことを語らなくちゃなりません。
早朝、ものすごい揺れというか、衝撃を感じたこと。そこからはじまった一日。そして、地震のあとの最初の日曜日、パートナーの母親の反対を押し切って*1西宮まで毛布運びにいったこと。そこで見た風景。そこで聞いた音。自分にしか語れないことはたくさんあります。
やがて、地震による被害が「かたより」を持っていたことが明らかになります。その理由。その一方、かつて9月1日にあった「出来事」との大きな違い。
そんなことを、思いつくままに30分ほど語りました。
1年に1回だけ。生徒たちにとっては、もしかしたら一生に一回になるかもしれない。だからこそ、ていねいに、自分の経験と知ったことと思いとを語る必要があると思うのです。
*1:あの頃、余震が続いていたので、下手するとケガをしたり場合によっては死んでしまう可能性もあったんですよね。