中倉さんの講演を聞いたのは3年生です。で、1年生は来週の講演のための予備知識を入れる講義。2年生は沖縄研修旅行へ向けて、沖縄にかかわる学習です。ともに「学習」なので、当然のことながら子どもたちの食いつきは悪いです。たぶん担当されている担任の先生方はすごく苦労をされたし、もしかしたら徒労感すら持たれたかもしれません。
でも、放課後に生徒と話をしていると、ちゃんと話の内容を覚えている子もいます。
「あっ!」と思いました。もしもあの学習をしなければ、この子に知識は伝えられなかった。やったからこそ伝わったのです。だからこそ、やった意味があった。
そりゃ、誰もが楽しんで知識を吸収できる教材をつくれたら、それにこしたことはありません。でも、そんな「普遍的」なものってあるんだろうか。少なくとも、わたしの力量ではとても難しい。
その時に、「聞かないからやめる」なのか「ひとりでも聞く子がいるならやる」なのか。効率を求めるなら前者です。でも、わたしはそうはありたくない。
例え荒野に種を撒くが如き営みであっても、だからこそやる意味があるのかなと、ふと思いました。
カテゴリー: 考え
ぶっ飛ぶってこのことか…
今日は授業と体育祭準備に明け暮れて、デスクワークがほとんどできませんでした。レポート(T_T)。原稿(T_T)。おべんきょの準備(T_T)。
なのに、なぜか大阪で呑み。
だって、N成高校のH下ちゃんの誘いとあれば断るわけにはいきません。
てことで、待ち合わせの飲み屋に直行。こういう時のための電車通勤やなぁと、ちょっとうれしくなります。
しばらく待っているとK島高校のS々木さんが来られました。
「去年の全同教で喝入れてはりましたね」
「んなことしてませんってば。ちょっと質問しただけです」
みたいな会話をしていると、ボチボチと人が集まりはじめました。
やがて、本日のメインゲスト?のM田さん登場。地元ですごい活動をされている方とのことです。ちなみに、スイッチがはいるとたいへんとのことなので、今日の目標はスイッチを入れないことです(笑)。
M田さん、入ってくるなり言いたい放題です。あまりにも気持ちよすぎます。ついついこちらのスイッチが入ってしまいます。第二のふるさとでのことや、交流会のことなど、実践と言えるかどうかはわからないけど、やってきたことを紹介しながら話にからんでしまいたくなります。
向こうのスイッチを入れる前に、こっちが入ってしまいました^^;;。
それにしても、あまりにも考えていること、やっていることがすごいので、さらにからんでみました。
「M田さん、そんだけやりたい放題してたら、後継者いないでしょ。どないするんです?つくろうと思ってないんですか」
答えは
「そんなもん、考えてへん」
のひとこと。
「後継者をつくろうなんて思ったら、政治的になる。「お前、後継者な」とか指名したりするんやろ。お山の大将になる」
なるほど。と、S々木さん。
「そうですねん。で、こういう人に感化されて、僕ら「この人を生かさなあかん」と思って広げるんですよ」
すげえ!すごいよ!
好きだからやってる。やりたいことをやる。そして、それに執着しない。そんなM田さんだからこそ、人が集まってくるのか…。
すごい人と会わせてもらいました。
ありがと!H下ちゃん。今日は会えなかったけど、また呑みましょう。
時間と引換に失うもの
今日は所用があって、車で通勤。そのおかげで、ふだんよりほんの少しだけ寝坊ができます。
で、車で走りはじめると…。
なんもできない(T_T)。
帰りはあちこち寄って買い出ししたりします。すんごい便利。しかも、家に着いたの早い。
でも、なんもできない(T_T)。
時間をかけて動くことって、ぜいたくなんやなぁ。
氷の溶ける速度
氷って、いったん溶けはじめると、意外なほどの速度で溶けていくのかな。
ふと思った
通勤途中、歩きながら、ふと「生きよう」と思いました。まぁ、それだけです。
いろいろ考えるなぁ
今日は同僚の結婚式です。
パートナーからは
「結婚式は発展していくためにとてもいいからね」
と言われて送り出してもらいましたが、なんか複雑な気持ちです。
もちろん、同僚のことは精一杯祝いたいし、それはそれでいいのですが…。
基本的に結婚式っていろいろ考えてしまうんですよね。いや、ジェンダー的にどうかということももちろんあるんですが、それ以上に、やはり自分のこと、あるいはパートナーとわたしとの関係を考えてしまうんですよね。それが少ししんどくて、少々足どりが重いです。そうそう、靴が窮屈なのもありますけどね(笑)。
会場に到着したら、知りあいが誰もいません。まぁええです。ひとりは慣れています。持ってきたプリント*1を読みましょう。と、同僚たちがやってきました。
そうこうするうち、結婚式スタート。同僚は牧師の子どもなので、当然のことながらキリスト教式です。う〜ん、礼拝は久しぶりやなぁ。父親のお葬式以来かな。で、やってきました、お定まりの式文。
あなたはその健やかな時も、病む時も、この人を愛し、敬い、慰め、助け、そのいのちの限り、堅く節操を守ることを約束しますか。
あー、そう言えば、21年前にこれにたいして返事をしたっけなぁ。
これ、返事をするのは簡単ですけど、実践するのはとてもむずかしいです。上り調子の時はいいんですけど、下り基調になると、ついつい
「もーええわ」
となってしまう。あるいは、上りでも下りでもない、淡々とした日常において、それでも「愛し、敬い、慰め、助け」続けることって、実は常にそのことを意識し続けること、あるいは相手の存在を意識し続けることが必要になります。なかなかそのことがむずかしい。
はたして自分は、過去どうだったのか。今どうなのか。そしてこれからどうあろうとしているのか。
まぁ結婚式って、こういうことを考えさせるためにあるのかもしれませんが、個人的にはそこにまんまとはまってしまうあたりが情けないです^^;;。
そんなことを考えながら、パーティー開始。
いろいろはしゃいでいる人たちを見ていると、なんとなくアウェイ感がつのってきます。でもまぁそれでいいんでしょうね。たぶん、そういう年齢であり、そういう時期なんだと思います。考えることはやめたくありません。
そんなこんなで、無事パーティー終了。その後、京都に移動して、もう少し呑み。さらに夕方から呑みに行く猛者もいましたが、わたしはフィニッシュです。さぁお家に帰りましょう。
でも、ほんとうに「考える」という意味で、いい結婚式に出させてもらいました。感謝ですね!
*1:金曜日のおべんきょのネタ
ある試み
現在、1年生はわたしの授業を週6時間受けています。ということは、ある曜日は必然的に1日2時間あるわけです。こいつをどうするか。
今のクラス、すごくおとなしくて、それはそれでいいのですが、もう少し、いい意味での活気がほしい。そのためには子どもたちを「学び」を基盤にしてつなぐ仕掛けが必要かなと。
とうことで、ここしばらくプリントを渡して図書館に放り込んで「グループ学習」をさせています。で
「教えあえ」
と。さらに言えば
「教えてくれ」
と言えと。
この「教えてくれ」を、授業中に友だちに言うのはけっこうハードルが高いみたいです。いや、「活発な子(別名ヤンチャ)」はけっこう
「教えてくれや!」
って言うんですが、おとなし目の子はなかなか言いません。まぁ、言わない子を「おとなし目」と言うわけですが(笑)。
でも、それが言えるクラスは、過去の経験からすると、たぶん最低点があがります。
まぁ、グループによってはみんなが「教えてな子」だったりすることもあって、なかなかきついのですが、残り半年、ガマンして続けようかなと。
こころをばなににたとえん
かたくなな心も、実は凍った心なだけで、もっと大切なことの前では案外溶けちゃうのかもしれないと思った朝…。
大切なのはわかるけど…
今日の放課後は「ソーシャル・スキル・トレーニング」の研修会。というか、練習会。
子どもたちに「ソーシャルスキル」を身につけさせるための授業をやる、と。で、そのリハーサルをするらしいです。
まぁ、それはそれでいいんですがね…。
なにがいやって、ロールプレイです。あのウソくささ(TT)。「傾聴の練習」とかいうヤツですが、もう、赤面してしまいます。てか、ほんとうに聞かなきゃならない時は、いろいろやっているわけで、それを「練習せよ」と言われてもなぁ。さらに、話をした方に「どんな感じでした?」とか聞かなきゃならない。そんなん、答えられないですよね。
てことで、
「あー、いやだ」
と思いながらの練習会でした。
でも、それは表面的なことです。
ほんとうは、こういうことを「特設の授業」でやらなきゃならないところにあります。なぜなら、SSTって、普段の私たちの子どもたちとの会話の中から身につけさせていくことだと思うんですよね。一つのことを身につけさせようと思うと、「それ」を語るんじゃなくて、「他のこと」をしている最中に提示していくことが必要なんかないかと思うのです。
それは人権も同じ。
「人権」を伝えようと思ったら「人権の特設授業」では、ほんとうは伝わらない。たとえば授業の時、廊下での会話の時、掃除の時、あらゆる学校活動の中に織り込んでいかないと伝わらない。それと同じことを感じるわけです。
ふだん生徒と話をできない教員が、突然そのときだけ「傾聴」とか言っても、みえみえです。でも、特設の授業は、そういうのを要求してしまう。そのムズムズ感が、実は一番苦手なんですよね。
とか言いながら、我が身に跳ね返ってくるなぁ…。
大人になること
大人も子どもも、生きている限り、得るものがあり、失うものがある。でも、子どもの間は失うものよりも得るものの方が大きい。だから、あたかも「得ている」かのように感じてしまう。
それが大人になると、得たひとつひとつのものが少しずつ膨らんでいくし、数も増えていく。やがて、あたかも両の掌いっぱいのビー玉みたいになる。
そのまま立ち尽くしていればこぼすこともない。でも、やはり一歩踏み出してしまう。そして、バランスを崩した掌からビー玉はこぼれていく。
新しいビー玉もまた掌に乗ることもある。でも、こぼれていったビー玉の中には、掌で大切に膨らませていったものもあったりする。ふと、とても大切なビー玉をこぼしてしまったことに気づく。
それを拾うか諦めるか。
拾うためには両の掌いっぱいのビー玉を片方に移さなくちゃならない。当然乗りきらないからこぼれてしまう。それでも拾うのか、それとも諦めるのか。