大きな宿題

今日の午後は釜ヶ崎のフィールドワークと講演です。こんなことやってて仕事って、少し気がひけるといえばひけるのですが、「行くこと」「見ること」「聞くこと」「感じること」はとても大切なことだし、なによりそれを「伝える」ことへとつなげることで、フィールドワークは生きると思います。なので、喜び勇んで釜ヶ崎へ。
わたしは記録担当なので、ビデオカメラと三脚とテーブルタップを持っていかなきゃなりません。もう、リュックはパンパン。お弁当が入りません。てことで、お昼ごはんは現地で食べることにしました。
さて、どこに行こうかな…。
と、ダメダメ先輩から天の声。
「西成行くならココルーム。!」
てことで、ココルームへ。

なかなかおしゃれでぁゃιぃ感じです。サイトには「ランチ」なるメニューがあったので、
「すみません、ランチありますか?」
と聞くと
「みんなで食べますか?みんなで食べるのがうちの名物なんです。もう少しなんですけど…」
と、なんか難解なことを言われてしまいました。まぁ、ちょい早めに着いたので
「じゃぁ「みんな」で」
ということで、しばし上田假奈代さんと話。というか、
「ダメダメ先輩に行けって言われまして。わたしいつきっていいます」
と自己紹介したら
「こないだいつきさんの話をしてたところで」
とか、これまた難解なことを言われてしまいました。
まぁ、そんなこんなで自己紹介をしているうちに
「そろそろ食べましょうか」
と声がかかったので、奥の座敷コーナーへ。
なるほど。これが「みんな」の意味ですか。簡単に言うならスタッフの昼ごはん時に一緒に食べるということなんですね。
てことで、机の上にはおかずがいっぱい!

たぶん、「みんなで食べる」ことに意味を見出しておられるんでしょうね。みんなで話をしながら食べると、なんともいえずおいしいし、なんとなく気が緩むのか、ふだんなかなか聞けそうにないこぼれ話を聞かせてもらったり。わたしも初対面なのに「居候気分」でごはんをパクついてしまいました。

で、昼ごはんを食べたところでココルームをあとにして、集合場所へ。
今日の案内は「野宿者ネットワーク」の生田武志さんです。
まずは、フィールドワークをするにあたっての注意事項から。そりゃそうです。生活の場によそ者が踏み込むことをフィールドワークというのですから、それなりの礼儀は必要です。
で、街を歩きはじめます。
わたしは大学時代に何度かカマには来たことがあるし、3年ほど前にも一度来させてもらっています。なので「新鮮」って感じではないのですが、やっぱり「来る」って違います。テレビなんかでは絶対に伝わってこない暑さとにおい。そして、きっとカメラでは捉え切れないであろう細かなところ。というか、カメラの場合も細かなところを捉えられるんでしょうが、それはあくまでもカメラさんやカントクさんの感性であって、わたしの感性ではない。あとは「ノイズ」の出す空気感ですか。
約一時間のフィールドワークで、カマの空気をたっぷり吸って、「喜望の家」へ。ん?ここ…。大学時代の夜回りの時に泊めてもらった家でした。そっかぁ、ここだったんだ。

生田さんの話は…。
おそらくは今の日本が抱えている「軋み」みたいなものがすべて詰まった話でした。
現在、野宿者の数は20000人。かつてと比較して激増していること。そして、広域化していること。これを生田さんは「釜ヶ崎化」と呼んでいました。そして、現在の特徴として、若者と女性の野宿者の増加がある。その背景にはさまざまなものがありますが、虐待とDVも無視できない要因である。
そしてもうひとつ、なにが一番困っているかというと、「襲撃」があげられる。数々の襲撃事件を紹介してもらいましたが、「襲撃」ではなく「殺人」ですね。そしてやっているのは10代の男性。つまり、中・高生であるということ。この子らは「人を傷つけないと生きていけない」状況に追い込まれている。「ハウスはあってもホームがない」という言葉が印象的でした。
ちなみに、「傷つけなきゃ生きていけないのは男性だけではない。女性はどうしてると思いますか?」との質問。自分を傷つけている。つまり、リストカットや拒食。たぶんODも入るんでしょうね。
つまり、襲撃をなくすためには「人に優しくしましょう」などという「道徳心」が必要なのではなく、こうした子どもたちの抱える状況をなんとかしなくてはならない。
わずか一時間と少しではあったけど、そんなこんなを聞き、考えさせられる話でした。

にしても…。
この話から、わたしは学校の中で、更に言うならば、人権学習の中で何ができるんだろうか。あるいは労働の学習を通して何ができるんだろうか。「野宿者にならずにすむ学習」?違いますよね。「野宿者に優しくする学習」?これも違いますよね。ふたつとも大切ではあるけど、それを目的にするのは間違っている気がするのです。貧困問題。それはそうなんですが、教材に落とし込むのはあまりにも漠然としすぎてます。たぶん、この間つくった教材は、そこのブレや迷いがあったんでしょうね。ま、ブレや迷いがあることが悪いとは思いませんが…。
いずれにしろ、すごく大きな宿題をもらえた半日でした。

これこそが(^^)

今日は今年度初のトランスジェンダー生徒交流会です。
今回は事前申し込みもけっこうあって、にぎやかな交流会になりそうな予感です。
とりあえず、いつもの通りアキさんと合流して買い出し。アキさん、さすがに慣れてきたのか、大きなスーツケースを持参です。助かった(笑)。
で、荷物を会場において集合場所に到着。
と…。
笑いました。なんぼ人がたくさんいるねん。てか、子ども多いし(笑)!
なんか、子ども会のキャンプの集合場所みたいです。
「交流会の人、行きまーす。わたし、いつきです!」
と大きな声をだして、集団の移動開始。
会場についたら食事づくりです。
「子どもたち、がんばってつくってね!大人の人たち、子どもをサポートしてあげてください!」
とだけ言って、わたしは餃子の皮づくりです。
それにしても、子どもたちがすごく積極的です。一生懸命包丁を持って切ってます。よしよし(^^)
で、焼きそば・焼きうどん・お好み・水ぎょうざの完成。
あとは子どもたちと大人たち…。というか、○ールなしとビー○ありって感じですか、ふたつにわかれてごはんごはん。
食事のあとは話し合いをしようかと思ったけど、無理ですね。子どもたちはかくれんぼをして遊んでます。若い養護教諭の方がずっと一緒に遊んでくれてます。もう、学童です。
そのうち、なんとなく高校生の輪ができ、保護者の輪ができ、教員の輪ができ、カウンセラーの輪ができ、輪からはずれてる人には誰かが話しに行き。それぞれがそれぞれの話し込みをはじめました。そんな人たちの姿を見て、
「うん、これでいいや。これがいいや」
という気になりました。
結局、交流会なんて一人でできるものではないです。たくさんのサポートしてくれる人と、なにより参加する人の「出会いたい」「話したい」「楽しみたい」という気持ちがなくては成立しないんだなぁと思いました。わたしができることは、「場を設定することぐらい」なんですよね。
でも、それでいいんでしょうね。そこより出過ぎてしまうと、たぶんこの空気は壊れてしまいます。
でも、せっかくです。やはりどんな人が来ているのか、お互いに知りたいんじゃないかな。なので、最後に大きな輪になって、全員の自己紹介。
メッチャ疲れたけど、それを越える元気をもらえた交流会でした。

うん。この子らが大きくなるまではこの交流会、続けようo(^^)o

長くて短い、短くて長い

去年の今頃、なにを考え、なにをしてたかなぁと、ふと考えました。
一日一日がとても長くて、次の日が来ないと思うほどしんどかったなぁ。でも、気がつくと、もう一年前なんだ…。
で、今も鮮明に覚えているし、まだ傷もあります。でも、その傷があるからこそ今の自分があるし、そんなこんなのすべてを大切だと思えます。てか、傷ばかりじゃなくて、もっと大切なもの/ことをもらったもんね。
季節は流れ、ゆき、またここに来る。
季節よめぐれ。

山の向こうに山はある

子どもたちは数学の問題を目の前に提示された時、どうそれを見て、どう考えるのだろう…。
例えば、3次式の因数分解の問題を見た時
「うわ、なにこれ」
とひるんで、そこで終わるのだろうか…。
そう考えた時、わたし(たち)との間にある圧倒的な「違い」に気づきます。というより、その「違い」を明確化し、言葉に翻訳しなおして伝えることが、教員の仕事かなと、最近ますます考えるようになりました。
例えば、3次式の因数分解の問題を見た時、わたし(たち)なら、まず先頭を見て3次式であることを確認して
「ふむ」
と思う。そして、定数項を見て約数を考えて代入する。その時、先頭にあるax^3なんてものはなんの関心も引きません。
つまり「ややこしそうに見えること」には関心を持たず、簡単なことを繰り返すことでややこしいことをこなしていく。

これ、もしかしたら山を登ることに似ているのかもしれません。
はるかな遠方にあるいただきを見た瞬間、
「無理や…」
と立ちすくむのが山をしていない人だとしたら、そこに至るルートを目でおい、とっかかり口を見て、そこに集中する。そして、一歩一歩歩いていくのが山をやってる人かな。わたしは山をやらないからわからないけど…^^;;。

つまり、難しいことを難しいと考えるのではなく、簡単なことの集積であると考える。

なんてことを思いながら仕事をしていたのですが
「終わったぁo(^^)o」
と思った向うに、まだまだ仕事があるのを思い出してげんなりした一日でした。

山頂だと思ったら、まだ向こうに山があったって感じ(T_T)。

憎悪は強盗

「一般名詞」に向けられた憎悪に、その一般名詞に含まれる人はどう対処するのか。例えばそれがわたしなら…。
方法はいくつかあるように思います。
まずは「一般名詞だから」と流す。つまり、「一般名詞への憎悪は、実は空虚であり、現実には誰にも向けられていない」と考える。
あるいは、「一般名詞に含まれる自分以外の人を思い浮かべ、それぞれの差異を考えて、あの一般名詞はあの集団を指している」と考える。
それから、「一般名詞は一般を指すのではなく、自分を指している」と考える。

最初のやり方は、でももしかしたら、「一般名詞」に回収させることで、主体としての自分を失うのかもしれないなと、ふと思います。
二番目のやり方は、「自分は違う」と考えるわけで、それって結局「なかま」を失うこと、そしてそれは「自分への名づけ」が歪んでしまうこと、つまり最初のと同じように主体としての自分を失うことにつながるのかなと、これまたふと思います。
じゃぁ、それをしない方法は…。それが三番目です。でも、きつい。あまりにもきつい。三番目は主体と引き換えになにを失うのか。それはユーモアであり、笑顔であり、柔らかさであり…。そんなこんなを持っているからこそ「自分のこと」と引き受けられるわけなんですが、それを奪われてしまう。いや、究極的には命を奪われてしまうこともある。

人から何かを奪うもののことを「強盗」というならば、憎悪=ヘイトは強盗である。

新しい動き

昨日参加した、いわゆる「カウンター」ってヤツ。脱原発の運動もそうなんですけど、明らかに従来の運動とは異質です。特に「カウンター」はそれが顕著です。
ひとつは「最小公倍数的な集まり」ってことです。カウンターに参加している人たちは「ヘイトスピーチは許せない」という一点で集まっています。で、集まるにあたって「ヘイトスピーチとはなんぞや」とか「みんなの考えを集約して」とか「基調は」とかいうことはない。それぞれのよって立つ場所は「不問」ということです。
もうひとつは「主催者がない」ってことです。関西の場合は「友だち守る団」というあやしげなグループがありましたが、「より広汎に、(やりたい人は(笑))より先鋭的に」ってことで、発展的に解散されました。
主催者がないってことは、そこでの主導権争いなんていうことは起こりません。というか、もともとが「主義主張は不問」で集まってきているので、たとえ主導権争いやって誰かが勝っても、誰もついていきません。好き勝手やってますから。でも、そんな中で「互いを守る」は、なんとなくあるんですよね。
ちなみに、もちろん主導的な人がいないわけじゃない。それは、その人がそうなろうと思ったのではなく、その人が最も身を粉にして動き、それを見ているまわりの人が勝手にそう思っているだけのこと。で、本人はそこから脱出するべく逃げまわっている。そんな印象を受けます。
でも、まぁ、こんな「行動」、必要なくなればいいんだけどなぁってのは、参加してる人がみんな思っているでしょうねぇ…。

ナンバでいこうよ

毎朝感じるんですけど…。
階段を駆け上がる人の手がこわいです(T_T)。今朝は「空手チョップ(死語)」されるかと思いました。
なんか、最近、大きく腕を振って歩いている人が…。増えたのかどうなのかは知りませんが、気になるようになりました。
これ、階段だけじゃないです。混雑している駅の構内や繁華街の道でもよくおられますねぇ。
「いや、車間距離、もとい人間距離をとればいい」
というご意見もあるかと思います。ごもっとも。
でも、そんな人に限って歩くのが遅いんです。遅いから、腕を振ってスピードを出そうとしている。で、わたしは決して歩く速度は早くないんですが、それでも追いついちゃうんですよね。で、腕や手がぶつかりそうになる。
んー
混んでる時は、腕を振らずに階段登ってくれませんかねぇ…。
あ!ナンバだ!

クールダウンの先

7時半に寝たおかげで、朝はそんなに悪い体調ではありません。まぁ、少し睡いくらいですか。いつもの朝がやって来ました。

にしても、テンションの高さがほんの少し残りながらも、緩やかに日常に向かいつつあります。こんな時、いろいろ考えてしまいます。いや、ずっと考え、違和感を持ち続けてきたことを反芻してしまうというほうが正確でしょうか。

一昨日〜昨日もそうですが、一体何がどうなってるんだろうということです。

わたしは、京都の南部にある小さな町で働く、単なる一高校教員です。なのに、通常教員をしていたのでは決して出会うことがないであろう人たちと、なぜか会ってしまう。一緒に飲んで、いっぱい話をしてしまう。人によっては
「会えてよかった」
と、過分な声をかけてもらえる。
「あなたの近くの学校にいる教員と、わたしはさほど変わらない」
と、いつも思っています。なぜなら、それぞれの人は、それぞれのライフヒストリーの主人公として生きていて、もしかしたらそのライフヒストリーはとても退屈なものです。そして、そこにさほどの差はないと、わたしは考えているからです。例え波瀾万丈に見えるライフヒストリーであっても、平凡な日常はある。そのことを見逃してはならないと思っています。
でも、外から見るとき、つい、ある区切られた「波瀾万丈」に、気をとられてしまう。そして、そういう評価をまわりからされてしまう。一番こわいのは、その評価に自分がからめとられることです。そのことによって、自分のすべてを「波瀾万丈」と勘違いしてしまい、平凡な日常を軽視してしまう。
そして、そのクレバスはいつも足元にあります。

とても大きな「しでかし」をしてしまい、そしてそれがたくさんの友だちの支えでこなせた時、そのクレバスは静かに蒼くその口を開いています。

今日はそんなことを意識し、また、意識しなきゃならない日です。

でも、こんなことを書いてくださる方がおられる。ついうれしくて、そのリンクをここに貼ってしまう。
うーん、ダメですね。

誰が困るのか

まぁ、いつでも↑のようにいくわけじゃなくて、やはり子どもが寝てしまったり、おしゃべりしたり、遠い世界に行ってしまうこともあるわけです。
で、やっぱりおしゃべりは困るわけです。なので怒る。すると、子どもたちの中には逆に、授業への不服従という形で、より行動がエスカレートしていく場合があります。そうするとやっかいです。教員は困ってしまう。まぁそういう時に教員は子どもたちを何とかしようと思うのですが…。
そんなことを同僚と話をしていたのですが、わたし、なんとなく
「でも、教員ってほんとは困ってないんじゃないんですかねぇ」
って問いかけてみました。するとその教員、
「うん、ほんとに困ってるのは生徒だよね」
って返してきました。
そうなんですよね…。困ってるのは生徒なんです。
てことがわかるには、それなりの場数が必要かなぁ…。

守る・破る・崩す

通勤途中、マナーとかルールとかについていろいろ考えていたんですが…。

例えば、ここにルールがある。
これを守るのは、それなりに意思の力が必要なんだと思うのです。もちろん「体制に従うのだから意志は必要ない」という考えもあるでしょうが、ルールを守り続けようとすると、そのことに敏感でなくちゃならないし、習慣化する意志が必要な気がします。
で、これに従わない、守らない、破るってのは、もっと意思の力が必要な気がします。まぁ、「出る杭は打たれない」で、一定のところを越すと楽になるという話もないわけではないですが、あくまでも抗い続けるのは、やはりとてもしんどい。
でも、ルールを守らないって、それだけなのかなと、ふと思ったのです。すると
「あ!めんどくさいってのがある…」
と思いました。

この「めんどくさい」ってなんだろう…。これ、「なし崩し」ってことですか。
「なし崩し」には、意思の力は必要ない。楽なんですね。
「ま、これくらい、いいか」
みたいな。そして、意思の力を使わずに、どんどんルールを崩していく。
ところが、そうやって崩されたルールやマナーを「立て直す」のはとてもたいへんです。なぜなら、「守る」ためにはパワーが必要だからです。では逆に、ルールやマナーを「変えていく」のは?これもまたたいへんです。なぜなら、現行のルールやマナーを「破る」のもパワーが必要となるからです。

別に何がどうという話ではないです^^;;。
でも、例えば、生徒に
「なぜ校則を守らないのか?」
と聞いた時、わたしたちは
「なぜ破るのか?」
と聞いているわけです。つまり、意志の力を聞いている。ところが、生徒は「なし崩し」にしている。意思の力はない。
このすれ違いを意識化することって、あんがい突破口にならないかなと、ふと思っただけです。

ちなみに、同僚にこのことを話したら
「そもそも、いつきさんはルールやマナーを知らないでしょ」
って笑われましたけどね^^;;。