新しい動き

昨日参加した、いわゆる「カウンター」ってヤツ。脱原発の運動もそうなんですけど、明らかに従来の運動とは異質です。特に「カウンター」はそれが顕著です。
ひとつは「最小公倍数的な集まり」ってことです。カウンターに参加している人たちは「ヘイトスピーチは許せない」という一点で集まっています。で、集まるにあたって「ヘイトスピーチとはなんぞや」とか「みんなの考えを集約して」とか「基調は」とかいうことはない。それぞれのよって立つ場所は「不問」ということです。
もうひとつは「主催者がない」ってことです。関西の場合は「友だち守る団」というあやしげなグループがありましたが、「より広汎に、(やりたい人は(笑))より先鋭的に」ってことで、発展的に解散されました。
主催者がないってことは、そこでの主導権争いなんていうことは起こりません。というか、もともとが「主義主張は不問」で集まってきているので、たとえ主導権争いやって誰かが勝っても、誰もついていきません。好き勝手やってますから。でも、そんな中で「互いを守る」は、なんとなくあるんですよね。
ちなみに、もちろん主導的な人がいないわけじゃない。それは、その人がそうなろうと思ったのではなく、その人が最も身を粉にして動き、それを見ているまわりの人が勝手にそう思っているだけのこと。で、本人はそこから脱出するべく逃げまわっている。そんな印象を受けます。
でも、まぁ、こんな「行動」、必要なくなればいいんだけどなぁってのは、参加してる人がみんな思っているでしょうねぇ…。

新しいメディアはなにをもたらすのか?

わたし、別にメディアについておべんきょしているわけではありません。てか、お友だちの中には専門家もいるから、恥ずかしいわけですが…。ま、おべんきょメモって感じですねφ(..)

とりあえず「教育」を「知の伝達」とする。で、メディアを「伝達のためのツール」と考える。そうすると、例えば「学校という制度そのもの」は、実はメディアととらえることができる。
従来の教育は学校中心で進んできたけど、今、それが大きく変わりつつある。
てなあたりが、おべんきょのネタの問題意識のようです。

なるほど…。
で、センセ曰く。
「(伝達の)道具の変化」は、単なる「ツールの変化」に留まらず、「中身」や「意図」までも変えていく。
それは例えば

・筆と墨…訂正不可→完全な模倣を目指す

・石筆と石板…訂正可能→計算・答えあわせ・一斉テストが可能

・鉛筆とノート…蓄積と持ち運び可能→記憶と定期テスト可能

みたいな。
で、さらなるメディア革命は何をもたらすのか。学校が教育の中心とならない今の社会って?みたいなあたりから論議がはじまったのですが…。

やはり、わたしからの問題提起は「格差の拡大」でした。
おそらく他の「おべんきょ仲間」は「新しいメディアの可能性」みたいなところに目が行くんじゃないかなぁ。というのは、みなさん、若い!だけじゃなくて、「おべんきょ仲間としての均質性」みたいなところがあって、その均質性とはことなる人々のことをあまり知らないんじゃないかと想像できるんですよね。
に対して、わたしは「その新しいメディアへのアプローチの機会」の不平等がおこってしまい、結果的に格差の拡大へとつながるのではないかというふうに考えてしまう。で、念頭にあったのは、その真逆の話としての「教書無償化の闘い」がもたらした格差の縮小だったんですよね。

あと、メディアを「伝達手段」と捉えるなら、結局一番大きな影響力を持つのは「生身の人間」ではないかということ。「均質性」は、結局「つきあう人の多様性のなさ」に一因があるかと。逆に言うなら、「つきあう人の多様性」が担保される集団では「その集団の均質性」は起こりにくい。
で、いかにメディアが多様化しても、結局それがその集団にとっての「タニンゴト」であるとしたら、メディアの多様性を「均質性の損失」として使える集団との格差は広がってしまう。

てことは…。
いかにして「均質性を打破するか」ってことが、格差の拡大に抗うひとつの小さな可能性となりうるかもしれない。その時に、メディアの多様性を無自覚に「よいもの」「便利なもの」「可能性のあるもの」としてしまうと、先にも書いたように、その多様性へのアプローチの機会の不平等により、格差は拡大されてしまう可能性がある。
だからこそ、とりあえず「みんながガッコに来る」という前提で考えるなら、やっぱりわたしは多様なツールを使うのではなく、口先三寸チョーク一本の「ライブとしての授業」にこだわるなぁ…。
てのがオチですか^^;;。