憎悪は強盗

「一般名詞」に向けられた憎悪に、その一般名詞に含まれる人はどう対処するのか。例えばそれがわたしなら…。
方法はいくつかあるように思います。
まずは「一般名詞だから」と流す。つまり、「一般名詞への憎悪は、実は空虚であり、現実には誰にも向けられていない」と考える。
あるいは、「一般名詞に含まれる自分以外の人を思い浮かべ、それぞれの差異を考えて、あの一般名詞はあの集団を指している」と考える。
それから、「一般名詞は一般を指すのではなく、自分を指している」と考える。

最初のやり方は、でももしかしたら、「一般名詞」に回収させることで、主体としての自分を失うのかもしれないなと、ふと思います。
二番目のやり方は、「自分は違う」と考えるわけで、それって結局「なかま」を失うこと、そしてそれは「自分への名づけ」が歪んでしまうこと、つまり最初のと同じように主体としての自分を失うことにつながるのかなと、これまたふと思います。
じゃぁ、それをしない方法は…。それが三番目です。でも、きつい。あまりにもきつい。三番目は主体と引き換えになにを失うのか。それはユーモアであり、笑顔であり、柔らかさであり…。そんなこんなを持っているからこそ「自分のこと」と引き受けられるわけなんですが、それを奪われてしまう。いや、究極的には命を奪われてしまうこともある。

人から何かを奪うもののことを「強盗」というならば、憎悪=ヘイトは強盗である。

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