不合理か?

今日の「おべんきょ」は、わたしたちのグループの発表です。過去2回、他のグループに「優しい質問」をし続けたので、今日はやり返されるんじゃないかと、心臓バクバクです(笑)。ま、でも、相方さんがそうとうしっかりした方なので、安心といえば安心なんですけどね。というか、発表内容をつくってくれたの、ほとんど相方さんです(笑)。いやぁ、楽でした^^;;。
わたしたちの発表内容は「同性愛」。
「じゃ、次、同性愛グループ」
と言われて
「お、おぅ^^;;」
ってなったりはしたのはご愛嬌です。
ま、それぞれ担当の15分をパシっとやりきって、無事終了。その後の質疑応答も強気に押しまくって乗り切りました(笑)。

で、後半は部落問題。
教材はおもしろいし、展開もおもしろいんですが…。今回もひとことに引っかかってしまいました。
「差別が不合理であることに気づかせる」
なんか気になります。じゃ、「合理的な差異は差別ではなく区別」ってこと?
実は、「差別→不合理」ということは、対偶をとると「合理的→差別ではない」。言い換えると、「合理的な差異は差別ではなく区別」。でもそうかなぁ。その「合理性」って、不変のものなのかなぁ。解釈の余地は入らないのかなぁ。
「差別は不合理」という命題を真にすると、同時に対偶も真にしてしまい、「何が不合理か」という解釈を経て、差別に理由を与えるんじゃないかと思うのです。
例えば。
「国籍の違い」は「合理的な差」であるという解釈は成り立ちます。とするなら、そのことによる処遇の差は差別にはならない。
ということです。「いや、国籍の違いは合理的な差ではない」という主張をしたとしても、いずれも解釈の問題にしかならない。逆に、今行われている差別的な処遇は、「だって合理的な差があるんだもん」っていうところに担保されているように思うのです。
「肌の色の違い」や「性別の違い」が「合理的な差」として法的に処遇の差を与えられていた時代があります。その当時は、それを差別とは考えられていなかった。逆に、「処遇の違いは合理的」とすら考えられていたのではないかと思うのです。
であるなら、「差別は合理的におこなわれる」というふうに考え、「その合理性を問う」としたほうが、より現実に近いんじゃないかと思ったりするわけです。

日常生活で「NO!」

「差別しちゃいけない」ということが「規範意識」にまでいった今、逆に「そうはいっても」と心の奥底で感じる人がそれを「足かせ」と認識する。その根底にあるのは「自分はマジョリティ」なんたけど、その「マジョリティ」の中身は「ふつう」という言葉に置き換えられて表現されている。そんな中で「人権」は、ごく一部の過激な人がやってることになってしまう。そして、善意の人からは「すごいね」「えらいね」って言われることで「ふつう」からさらに差別化されてしまう。
だからこそ、「人権」を「ふつう」の中に入れなきゃなって思うのです。

なんか、朝鮮高級学校への襲撃事件というヘイトクライムについて、一晩たって、再びそのことを考えた時、「一市民がカウンターしてます」から「カウンターやってる市民がここにいます」へとステージを変えなきゃならんのじゃないか。そうやって、生活の場で存在を顕在化させることが必要なんじゃないかと思うのです。
心の中で思っているだけでは、自分の思いは表明できない。とするなら、缶バッチとか、バンダナとか、マフラーとか。とにかく「NO!」の徴をみにつけること。「NO!」があふれる街をつくっていくこと。
そしてそれは、まずは、わたしから。
てことで、缶バッチつけたリュックにバンダナくくりつけて、マフラーして出勤しよう(^^)。
これでフラッグまとえば完璧やな^^;;。

時代はあきらかに逆行している

今日のつぶやき

神戸の朝鮮学校に金属棒持つ男侵入 – 47NEWS(よんななニュース) http://t.co/Pf8YeY8aYC

1月17日に「阪神淡路大震災の時は、朝鮮学校に日本人も避難していた。関東大震災から70年あまり、たくさんの人の力で社会を変えてきたんだ」って話したのに…

1923→?→1995→?→2011。
「?」にはなにが入るんだろう。

今年もやってきた

今の子どもたちにとって「生まれる前」の話。
でも、だからといって風化させてはいけないと思います。それは、例えば戦争体験がないわたしにとって、でも、「戦争」は風化させてはならないということと同じです。
てことで、話しはじめたのですが…。
今年は調子乗りが茶化した。
久しぶりに腹が立ちました。で、思わず
「お前にとって、歴史とはなんだ!」
と、およそ数学教員とは思えない問いかけをしてしまったりして。

しかし、1923年から1995年、そして2011年へ。時代が逆行しているような気がするのは、わたしだけでしょうかねぇ。

わたしの基準点の置き方

今日のおべんきょは、先週に引き続き、人権学習の教案の発表会です。
ま、それぞれに対してそれぞれに考えたことは多々あったのですが、なにより大きかったのは、わたしのものの考え方を「言葉化」できたということでした。
例えば、在日外国人問題の教材における「我が国」「我々」「彼ら」という言葉、あるいは、障害者理解教育における「配慮」という言葉に、わたしは反応してしまったんです。前者については「我は誰を指すのか」「彼は誰を指すのか」ということ、後者については「配慮は誰が誰にするのか」ということでした。
まぁ、前者についてはよく言われることなんでいいとして、後者ですね。実はこの質問をしたら、発表者の方はよく考えておられる方みたいで「相互の配慮」という形で返されてきました。で、かつてわたしは障害者から配慮された経験があるので、瞬間「うーんやられた」となったんですが、でも言葉化できないまま「違う」とだけ返しました。

わたしが受けた「配慮の経験」というのは…。
とある、自立生活をはじめる人のための「ピアスクール」というところにおじゃました時のことなんですが。そこにCPの人がおられて、やたら話しかけてくる。正直わからないから「困ったな」と思いながらも、「わからん」と返してたんです。そしたら、向こうの方「しゃーないな」って感じで50音表を出して、話しかけてくれました。それでようやく会話ができるようになりました。
ただこれだけの経験なんですが…。
でもその時「ごめん、わからへんで」と思ったんですね。「いらん労力かけさせて」って。つまり、わたしがその人の言葉を理解する能力を持っていればそんなことさせなくても会話できたのに、わたしの能力不足のために相手に「配慮」させてしまった。もっと言えば「こいつ、わからんやっちゃな」って、わたしを見捨てることもできたのに、たまたま喫煙所で出会った見知らぬわたしのために、そういう配慮をしてくれた。立場を変えるなら、わたしが配慮を強いたとも言えるわけです。
で、これ。街角で英語で道をたずねられて困ったら「英語ができない自分のせい」って考えるのに、CPの人だったら「自分にわからないことを言っている」って相手のせいにしていた自分に気がついたんです。それ以来、CPの人の言葉がわからなかったら「わからないわたしの能力不足でごめん」と思うようになったんです。
ま、そういう気づきの経験でもあるわけです。

で、その時のその人とわたしの関係がどうだったからわかりませんが、わたしの側からすると、ま、アウェイな空間でもあったので、そのおかげで比較的フラットな関係に近かったからこそ、わたしを「変える」ことができたのかなと思いました。これが、わたしがふだんいる空間であればそれができだろうか。
そう考えた時、「マイノリティがマジョリティに対しておこなう「配慮」とは「遠慮」じゃないか」と、ふと思いました。
たぶん、わたしがひっかかったのは、そこだったのかな。

「配慮」という言葉にしろ「我々」という言葉にしろ、それらは、歴史や社会をどこから見るのかということと直結しているしているように思います。
ふたつの発表が、ともに用語解説や歴史を公的機関をソースとしていたのも象徴的でした。当事者の姿が希薄、あるいは見えない。もちろん「おべんきょ」の世界で生きてきた人に「当事者の視点」をいきなり求めるのは酷かもしれません。でも、それ抜きで「人権教育」はできないと、わたしは考えます。というか、わたしはそう考えていたんだということに、あらためて気づかされました。

「当事者にもいろいろいる」「特定の当事者の観点から物事をとらえるのは偏ったものの見方」という意見はあるでしょう。でも、「公的機関からとらえる」こともバイアスのひとつです。というより「バイアスがないふりをする」という意味で、「もっともバイアスがかかった物事のとらえかた」ということもできるかもしれません。
であるならば、わたしは「当事者の歴史や現状」をマジョリティであるわたしが見るという幾重ものバイアスのうえに成り立ったところに基準をおきながらやりたいし、きっとそうしたいと今までも思ってきたんだなと、気づかされました。

てことで、来週の発表は、そんなことに留意をしながらやりたいな。

ここでの力ではなく

で、放課後、
「数学教えて」
という子が来まして…。なんでも、看護学校を受けるとか。なるほど…。
まぁ笑いました。ほんっとにいろんなことを忘れてるんですね。
ま、いちから全部教えるのもひとつの方法かもしれないけど、なーんか違う気がするのはいつものことです。なので、記憶を呼び覚まさせるためのヒントを提示しながら、とにかく
「思い出せ!」
と。
試験の時にはひとりで解かなきゃならんのです。今解くことが大切なんじゃなくて、その時に解けることが大切なんです。
あ、これって、交流会といっしょだな(^^)。

「本名を呼び名のる」

「本名を呼び名のる」という教育運動がある。よく「本名宣言をさせる」と誤解されるが、それは違う。「呼ぶ」が、なぜ先にあるのか。それは、「本名」とは、呼ぶ側、ここでは日本人の側の問題であるということ。「呼べない」自分とは?そういう社会をつくっている自分とは?そこからスタートする。

というのは、とある一連の「やりとり」(論争とか論議とかって言葉を使えるのかどうか^^;;)に刺激されてつぶやいた内容です。
で、更にこの前提として「本名って何?」っていう論議がありまして。
この論議、たぶん、いまだ結論が出ないまま、それでも論議を抱えながら、それぞれがそれぞれの「本名」「民族名」「名のりたい名前」を「表明」しながら生活をしています。そしてそれが「表明」できないとするなら、あるいは「表明という思考から疎外されている」とするなら、それは「表明を害する」「表明から疎外する」社会に問題の所在があると考える立場をわたしはとっています。
この考えは、もちろん「本名を呼び名のる」運動から教わったものだし、ここ数年の「障害の社会モデル」から教わったものです。
翻って、トランスにとっての名前は?
いまだ自分の中で結論はついていません。でも、わたしが主体的にかかわるコミュニティでは「呼ばれたい名前」「名のりたい名前」を教えてもらうことにしています。これが「本名を呼び名のる」とどうリンクするのか。リンクしないのか。リンクさせる必要はないのか。いまだ結論はついていません。
でも、名前にまつわることは、それなりにめんどうであるということ。でも、そのめんどうさこそが大切であることを、「パラムの会」は示しました。
そういう蓄積の上に、いまのわたしはいます。

また、日をあらためて、ゆっくりとどこかに書きたいけど、急ぎの大きい仕事があるからなぁ(;_;)。

「教えること」は誰のためか

クリスマスだというのに呼ばれる子らがいるわけで。赤点をとったヤツらです。で、40分ほどの勉強会をするわけですが…。
わたしはめんどくさいので、ダメダメ先輩から送られてきたペーパーを読みながら教えようかと。
いや、別に教えてもいいんですけど、それは勉強ではない。そう思うのです。
S「わからん」
T「ん?これはな、こうやってこうやって」
こんな風景はよくあることなんですけど、わたし、やりません。
S「わからん」
い「ん?問題読んだ?」
S「読んでへん」
い「アホか(笑)。これ、何を求めるの?」
S「x」
い「そやな、そのためになにをするんやったっけ」
こんな感じで、わたしは教えない。子どもの中にある答えに至るヒントを思い出させるのが、「勉強会」だと思っています。
とにかく子どもがその問題といかに向き合うのか。子どもの中にある小さな引っかかりに気づくのか。それが、自分の力で問題にチャレンジし、さらに次の問題にチャレンジするモチベーションにつながると考えているからです。

で、昨日もそんな感じでやっていたんですが、たぶん自分のクラスの子のめんどうを見に来てくれたんでしょうね。他教科の教員がそこに来て
「これはな、こうやってこうやってこうやったら解けるんやで」
ってやっちゃいました。あーあ。そしたらそっちに子どもが行くの当たり前やん。楽だもの。
でも、そういう「教え」はだれのためにやってるのかなぁ。ほんとに子どものためにやってるのかなぁ…。
教員って教えたがりなのかもしれません。だからこそ、そこを反省して「教えない」という意志を強く持つ必要があるんじゃないかなぁと、わたしは個人的には思ってるのですがねぇ…。

混乱とかとまどいとか

先日、ふと「あ、映画見せよう」って思いました。
なーんかうちの子どもたち、予告編は見てる子多いんですけど、本編は見てないんですよね。あたりまえですが…。なので、「私的に見るなら」ってわけてもらったDVDを見ようかなと思いました。
見終わっての感想、読みました。表面的なことしか書いてない作文もあります。でも、混乱しているさまが伝わってくるもの。一度自分の深いところに落とし込んで、自分の言葉を浮かび上がらせて書いてくれているもの。いろんなものがありました。たぶん「表面的」ってヤツも、そうしか書けなかったんでしょうね。きっと混乱しています。
人に混乱をもたらす「表現」。やはりすごいなぁ。力があるんだなぁって、あらためて思いました。で、そんな「表現」に触れるというか、かかわるというか、そんな日々が過ごせたことの幸せをあらためて感じるひとときでした。

因果関係と相関関係

今日は午前も午後も出張です。なので、まつまたく雑務ができません。その代わりといってはなんですが、ちょいとだけ朝寝坊ができます。ただ、ま、それは、雑務を先送りにしているだけって側面があるのは否めないわけですが(;_;)。
てことで、午前の出張で生活と学力について考えたりして。
この手の話って、いつも思うんですけど、相関関係と因果関係が混同されたり、話す本人は混同してなくても受け手が混同して聞いたり、まぁややこしいなぁと思います。で、そうならないためには、ある程度ややこしいことをややこしいままおいておくことと、わからないことはわからないと言うことかなと思ったり。
そうそう。あと、生活調査なんかのデータを拾っていくと、「ほう」って思うことがあります。例えば、テレビを見る時間・ゲームをする時間・勉強する時間・読書の時間と、さまざまな項目があるのですが、それらをつなぎあわせると、ある程度はどんな生活をしているかが見えてきたりします。
例えば、テレビが3時間でゲームが1時間、勉強が1時間で読書がなし。就寝が11時とします。
すると、5時に家に帰ってきて、お風呂入ってごはん食べて6時。6時から勉強して、「終わった!」とか言って、7時からゲームしてテレビ見て11時に寝るとか。
でも、じゃ、同じ生活のリズムでテレビが1時間の子はどんな生活してるんだろ…。2時間ぶん調査にあらわれない時間がある。この時間、なにをしてるのかなぁとぼーと考えます。例えば、宿題が終わったあと、お菓子食べながら家族で話をしてるかもしれない。あるいはLINEでダラダラしてるのかもしれない。わからないんですがら案外、この時間が学力に影響を与えるんじゃないかなぁ。
そんなことを考えるひとときでした。