教室に入ると、
「今日、9.11やなぁ」
と声がかかりました。ヤツら、わたしのツボを知ってます(笑)。
てことで、ほんの少し話。
でも、たしかにあの日を境に世界は変わりはじめました。それを、単なる「犯人探し」などではなく、冷静に見つめなくちゃならないなと、あらためて思いました。
カテゴリー: 考え
経験から学ぶこと
今日も一回生徒をどなりつけたけど、まぁそれでもなんとか終わりました。
終わってからのミーティング。ひとりひとりに
「できたこと・できなかったこと・気づいたこと」
を話させたのですが…。「できたこと・できなかったこと」は話せるのですが、「気づいたこと」が出てこない。これは深刻だなと。なので
「気づいたことを誰も言ってない。気づいたこと・学んだことはないのか?」
と提起。でも、なかなか出てきません。うーん。これはますます深刻だなと。
「何回か怒られたね。なにを怒られ、その時何を言われたのか言ってみて」
と話すと、ようやくポツポツと出てきました。
うーん。うちの子らに何が欠けているのか。もちろん山のように欠けているところはあります。でも、決定的なのは「経験から学ぶ」ことかな。じゃあ、どうすれば「体験」から「経験」へと変化できるんだろう。たぶんそれは「反芻する」ことかなぁ。それから「観察する」こと。まずはすべてを「意識」の管理下に置くこと。逆に言うなら、「なんとなく」を一切排除すること。
じゃ、それをするためには、具体的には何をすればそれができるようになるのか。
日誌かなぁ…。
放送部の活動日誌、ちゃんとやらそうかなぁ…。
「信用できへんやんかぃ!」
今日は文化祭0日目。開会式と準備の日です。とりあえず、メイン会場の放送セットをすべて組んで、ホッと一息。
放課後、軽音楽部のリハの時に「それ」が起こりました。
基本的に演劇をやっている時は特に何もないのですが、2日目の午前の最後、吹部→合唱→軽音と舞台でやる時は、ひたすら放送セットを組み替えなきゃなりません。こういう時が問題で、どのマイクがどこに行って、今使っているのは何番のマイクかってことを常に把握しておかなきゃなりません。
で、軽音のリハをやってる時、ボーカルが大きいので、ボーカルのマイクをいじっていたのですが、まったく音量が変わらない。おかしいなと思ってミキサーの入力をチェックしたら、マイクの番号とミキサーの番号が対応していません。
限られたリハの時間に致命的なミス、しかも超初歩的なミスです。ブチ切れました。
「お前らな!なんちゅうええ加減なことやってるねん!こんな初歩的なミスしてな!信用できへんやんか!ええ加減にせんかい!」
放送セットを組むってことは、誰かがそれを使うわけです。それを使う人は、そのセットを信じて使う。もしも信じられないなら、イチから自分で組んだほうがはるかに信頼できます。そのことがわかっていない。とにかく仕事がええ加減。
ひとつのミスが誰かに迷惑をかけている。そのミスが信用を失うという厳しさ。それを感じながら信頼を積み重ねるということ。そこから必然的に生まれるピリッとした空気。それを実現するために、具体的に、なにをどうすればいいんだろう…。
出会いをつくる人
今日はトランスジェンダー生徒交流会がらみで保護者の方のランチタイム。
おひとりはお酒が苦手ということで、ランチバイキングのお店に行くことになりました。とは言え、わたしは当然のことながらビール→ワインを注文するわけです(笑)。
ま、それはいいとして。
もちろんトランスの保護者にもいろいろおられるとは思うのですが、なんか、みなさんすごいなぁと思いました。
自分の子どもが「まさかトランス?!」みたいな、たぶんすごいショックなんでしょうね。で、拒否と受容の間を大きく振れながら日々を送られます。いや、あるいは「拒絶≒無視」かもしれない。ある時は証拠探しのために子どもの過去を振り返りながら「徴」を探したりする。なんか、そんなのをくぐり抜けて到達した場所で発せられる言葉にはすごい重みがあります。それは、当事者本人には到達できない地平なのかもしれません。
「あの子が今日の出会いをくれた」
「あの子がいなければわたしはもっと狭い世界で生きていた」
「あの子がわたしの世界を広げてくれた」
すごいなぁ。
うん。親にこんな思いを抱かせる子どもにぜひ会いたいなぁo(^^)o。
自分の言葉をとりもどす
ほんとに瑣末な日常を過ごしていると、特段ネタもないので何を書こうかと。で、たまにはこのエントリかなと。
まぁ、おおげさなタイトルですが、たいした話ではないです。
いままで、いろんなところでいろんな人と出会ってきました。で、そのたびにいろんな言葉を発してきました。もちろんそれらの言葉、すべてがオリジナルではない。誰かの言葉を借りてきたり、誰かの言葉にヒントを得たりしたものもあります。でも、基本的に「単なる借り物」ではなく、自分の中を一度くぐらせて、自分の経験や考えを経過させて、その上で出典を明らかにしながら発してきたつもりです。
何が言いたいかというと、「それらの言葉はわたしにとって血の通ったものであり、切実なものである」という、単にそれだけのことです。
問題はここからでして…。
それらは時として消費される。あるいは搾取される。そして、誰かの分析や解釈を加えられてしまう。その時の主体は誰か?それはわたしではなく、分析し解釈を加える「その人」です。
もちろんそんなことは織り込み済みですやってきたわけですが、なんかある時、ふと「ん?」と思ったんですよね。
で、そうなった時、とる道はいろいろあります。「口をつぐむ」「それでも語り続ける」「単著を出す(笑)」「分析する側にまわって、自らを分析する」etc
もちろんどれかが正解なわけでもなく、どれかひとつしか道がとれないわけでもない。
で、わたしはたぶん「おべんきょ」という道を、新たに選択した。それは、自分の言葉を自分の手のうちにとりもどすためらしいです。
ずっと、なぜ自分が「おべんきょ」をしたいと思ったのか、その心の奥底がわからなかったんです。でも、いろんな人といろんな言葉のやりとりをし、「言葉」について考え続ける中で、もしかしたら「こう」かもしれないと思った、その一里塚です。
でも、この一里塚は、忘れちゃいけない一里塚です。
なにをどうしても
なにをどうしても「いいほう」に転ぶわけもなく、それどころか「よりひどい方」にいく現在。ほんとに希望がない…。
そいつらの言うことはな!
さぁ、今日からは日常を過ごさなくちゃ。
とにかく、いつもの火曜日通り5時20分起きです。ほんとに骨粗鬆症の薬はめんどくさいです。ま、自業自得ですがね(笑)。
で、いつものように職場へ。
さてと。とにかく、夏のいろいろな事務仕事をやってしまいましょう。
と。なんか生徒がやってきて…。
「ウトロについて教えて」
と。ほう。で、相談にのりだしたのですが…。
生「いろいろ調べたで」
い「何で調べた?」
生「インターネット」
嫌な予感がしました。
い「キーワードは?」
生「ウトロ youtube」
い「あ、それ、全部ウソ(笑)」
ここから1時間ほどかけてレクチャー開始です。まぁ、完全に「それ」だけじゃなくて、他のところもあたったみたいで、少しはホッとしましたが…。
にしても、ウトロのすぐ近くに住んでいて、ウトロの中に住んでいる友だちもいて、なおかつyoutubeの画像をソースにするわけですから、ほんとにこわいです。これ、もしもわたしがいなければ、あるいはその生徒を連れてきたわたしの教えた子がいなければ、さらにいうならその「教えた子」のクラスでわたしがウトロのことを話してなければ、今回質問に来た生徒は、もしかしたらyoutubeの画像だけをソースにしたかもしれない。これはあまりにもヤバすぎます。
最後に「こんなんも調べとき」って、いくつか資料を渡して、とりあえずレクチャー終了です。
その後も、なんかゴチャゴチャ仕事があって、ようやく落ち着いて本を読めたのが昼過ぎ。昼過ぎかぁ…。ヤバイなぁ。
30分ばっか気を失いました^^;;。
てことで、センセにギブアップのメール(;_;)。
あーあ…。
日常化へのアプローチ
朝、とにかくしんどい…。けど、出勤しなくちゃなりません。てか、足の小指に水ぶくれあるわ、筋肉痛はあるわ^^;;。
ま、それでもなんとか一日勤務を終えて、向かうは「京都シネマ」です。19日から一週間「凍蝶図鑑」の上映です。せっかく監督さんから直接メールをもらっているので、これは行かなきゃならんでしょう。
さてと。いきなり感想です。
とにかく「変態賛歌」の映画です。登場されるみなさん、変態であることに誇りを持っておられます。いや、「誇り」という、ある種の主張というか押しつけがましさというか、「前へ出る」感じじゃなくて、それを「あたりまえの自分」として一体化させているというか、そんな感じがします。
ただ、自分の中に少しの違和感が…。それは、すんごい簡単に言うなら
「みんな、アーティストやなぁ」
ってことです。みなさん、尖っておられます。さりげなく理論的な主張もうちに秘めておられます。あるいは情熱的です。それがまぶしい。
「あそこまでいかないと「変態」とは言えないのかなぁ」
「「変態」って、アーティスティックでなきゃならないのかなぁ」
とても特殊な、あるいは非日常空間がほぼ全編を貫いています。うーん。わたしのような平凡な人間はとてもではないけど「変態」とは言えんな。そう考えると、「変態賛歌」は、特殊な人のものであるような気がしてきました。
と、ふと気づきました。
アプローチが逆なんだ…。徹底的に非日常にこだわって、その非日常を日常的に生きていくアプローチと、徹底的に日常にこだわって、その日常に非日常を組み込んでしまうアプローチ。
おそらくは「凍蝶図鑑」をごく普通に見れてしまう人には「coming out story」は退屈だろうし、「coming out story」がしっくりくる人には「凍蝶図鑑」は刺激が強いかもしれません。
まぁでも、それは見たから言えることかな。で、京都の隣にある大阪にあそこに登場している人が生活をしていることを知ることは、とても貴重な経験でした。
あ、たったひとりだけ、アーティスティックではあるけど、とてもしっくりきた人がいました。「めばさん」でしたo(^^)o。
にしても、知ってる人がふたり出てるってなぁ(笑)。
カミングアウトの壁
最近、考えが深く潜ってしまって、なかなか世間の話題についていけないのですが…。でも、いろいろ考えることはあるのです。
例えば「カミングアウト」について。
「カミングアウト」ってなんだろう。単なる告白?それとも、互いの関係を揺るがすもの?
「周囲の人にカミングアウトしたけど、みんな変わらず接してくれた」
とか
「周囲の人にカミングアウトしたけど、みんな受け入れてくれた」
みたいな話を聞くことがあります。
「ほんとかなぁ」と思う一方、そんな人には悪いけど「そういう周囲なんだろなぁ」とも思うのです。
ひとりの人間の性別が変わるってことは、その人を取り巻く人間関係が変化するってことだと思います。その影響って、そんなに小さくはないんじゃないかと思うのです。つまり、必然的に「変化」せざるを得ない。あるいは、受け入れにものすごく時間がかからざるを得ない。にもかかわらず「変わらず」とか「受け入れ」ってどういうことなんだろう。
まぁ、例えば10歳の周囲との関係と30歳の周囲との関係は厚みが違うにもかかわらず、それを同レベルで考えてるのかなぁ。
それとも…。
あの「カミングアウト」のくだり、時代とともに変化してきてるんじゃないかなぁ。だって、周囲との関係が希薄であればあるほど「受け入れ」は容易だと思うんですよね。
それとも…。
あ…。
もしかしたら「カミングアウトの成功」のテンプレが「変わらず接してくれた」なのかなぁ。うーん。
まぁなんしか、どうやら「カミングアウトの壁」は、すごく低くなってきているような感覚はあります。その低さは、社会の理解が進んだ結果なのか、人間関係が希薄になってきたことのあらわれなのか。
すらすらと出るって?
お酒を飲みながら、なんとなく「すらすらと言葉が出る」ことについて、TAのFよんさんと少し話をしてみました。
「すらすらと言葉が出る」のは、自分の中にある「もの」が言葉化されているということなんだろうか。それとも「言葉化されたものの中からチョイスする能力が高い」ということなんだろうか。はたまた、「言葉化されている「もの」を出すことによって、言葉化されていない「もの」を隠しているんだろうか」。まぁ、これだけではないだろうし、またどれかひとつしかないわけでもないとは思います。
でも、なにかひとつ、奥のものが出てこない自己紹介にしてしまったなぁと。
まぁ、たぶんそれは、わたしの話題の選び方とか、最初のわたしの「題材の提示のしかた」とかにも、かなり大きな問題があったんだろうなぁ…。