自分の言葉をとりもどす

ほんとに瑣末な日常を過ごしていると、特段ネタもないので何を書こうかと。で、たまにはこのエントリかなと。
まぁ、おおげさなタイトルですが、たいした話ではないです。

いままで、いろんなところでいろんな人と出会ってきました。で、そのたびにいろんな言葉を発してきました。もちろんそれらの言葉、すべてがオリジナルではない。誰かの言葉を借りてきたり、誰かの言葉にヒントを得たりしたものもあります。でも、基本的に「単なる借り物」ではなく、自分の中を一度くぐらせて、自分の経験や考えを経過させて、その上で出典を明らかにしながら発してきたつもりです。
何が言いたいかというと、「それらの言葉はわたしにとって血の通ったものであり、切実なものである」という、単にそれだけのことです。

問題はここからでして…。
それらは時として消費される。あるいは搾取される。そして、誰かの分析や解釈を加えられてしまう。その時の主体は誰か?それはわたしではなく、分析し解釈を加える「その人」です。
もちろんそんなことは織り込み済みですやってきたわけですが、なんかある時、ふと「ん?」と思ったんですよね。
で、そうなった時、とる道はいろいろあります。「口をつぐむ」「それでも語り続ける」「単著を出す(笑)」「分析する側にまわって、自らを分析する」etc
もちろんどれかが正解なわけでもなく、どれかひとつしか道がとれないわけでもない。
で、わたしはたぶん「おべんきょ」という道を、新たに選択した。それは、自分の言葉を自分の手のうちにとりもどすためらしいです。

ずっと、なぜ自分が「おべんきょ」をしたいと思ったのか、その心の奥底がわからなかったんです。でも、いろんな人といろんな言葉のやりとりをし、「言葉」について考え続ける中で、もしかしたら「こう」かもしれないと思った、その一里塚です。
でも、この一里塚は、忘れちゃいけない一里塚です。