前回欠席した子にテストを返そうとしたら、メッチャ不機嫌そうに
「点数知ってるし、いらん」
とか言います。かなりムッとしたので、テストは押しつけて、不機嫌に授業をしていたのですが…。30分ほどして
「さっきの態度にムッとしている。なぜあんな態度をとった?」
と聞いたら
「寝起きで機嫌が悪かった」
とのこと。
あのね…。
てことで、みなさんに注意。
「「寝起きで機嫌が悪かった」で通用するのはここだけやしな。地下鉄で乗り越しそうになって、誰かが起こしてくれたとして、その人に「なにんするねん!」とか言って「寝起きで機嫌が悪かった」は通用せんよ。ケンカになるよ」
世間では当たり前のことでも、ここでは通用しないことがあって、そんな中で日々生きてるんだなぁと…。
カテゴリー: 考え
能動的な学習
昨日の楽しかった夜のせいか、朝はメチャメチャ眠いです。というか、ここ一週間の自分の行動を考えたら、眠いのはあたりまえです。自業自得というか自暴自棄というか(笑)。
てことで、ゆるゆるペースで一日スタート。
とりあえず、最初のタスク、祭典をサクリとこなして、授業だのなんだの。
午後からは研究授業とやらで、若手の授業の見学です。
実は、わたしは昔から授業研究ってのがあまり好きではない。いや、人の授業をのぞき見するのは好きですけどね(笑)。そのあたりはこの人がよく書いておられることと共通しています。
だけど、なんしか今日のは義務っぽいので行ってみました。ちなみにこういう時のわたしは「いかに数学を教えるか」とか「黒板をどう使ったか」とかいうあたりには関心がまったくありません(笑)。てか、そんな個別的な観点で授業研究をしても、マニアックなつつきあいにしかなりませんからねぇ。
で、今回のテーマは「能動的な学習」らしいです。
…。
能動的な学習?
意味がわかりません。もちろんわかるのですが、中身がわからない。というか、それってひとコマの授業で実現できることなのか?
と思いながら授業を見に行ったら、グループ学習させていました。そうですか。これが「能動的な学習」ですか…。そう思ったので、近くのえらいひと*1に
「これ、能動的な学習なんですか?」
と聞くと
「うん。能動的な学習」
って答えられちゃいました。そうなんか…。なんか、教師の考えることはよくわかりません(笑)。
てか、そもそも「授業」そのものが「受動的な学習」じゃんか。それをどう取り繕っても、しょせんは「ちょっとだけ受動的ではない学習」くらいにしかならないじゃん。てな発想はないのかなぁ。
孤独感が増します(笑)。
いや、若手の人、がんばってます。いい授業をされています。でも、「枠」の中なんです。ドラスティックに発想を変えるところにはない。経験がないからしかたない?じゃあ「若い人の発想で」とかいうのもやめたらいい。
発想の転換ということ、あるいは新しい発想というのは、ゼロから生まれるものじゃなくて、すでにあるけど、「まさかそれがつながるか」と誰もが思うような、一見関係ないことをつなげるところからスタートする。少なくとも、わたしたちの世界でいう「新しい発想」「発想の転換」は、たぶんその程度のものです。その「一見関係ないもの」を見つけつなげるということをするのに必要なのは、若さではなく経験だとわたしは思ってるんですけど、どうやらみなさんそうは思わないらしい。孤独感が増します(笑)。
ま、いいけどね…。
*1:≠管理職
腹立つ
例の法律の運用基準を閣議決定したそうな。「説明する」って言ってるらしいけど、また、形だけでなし崩しにするんだろ。
ろくでもないな。
人権の専門家
よく職場で「人権の専門家」とか言われます。たぶん、ものすごくいろんな意味が込められてるんだろうと思います。まぁ「鬱陶しい」とか「めんどくさい」とか「好きもの」とか、その他諸々(笑)。
でも、ずっとわたしは「人権の専門家なんていないよ」と思ってきたのですが…。
あえて「人権の専門家って存在する」って言ってもいいような気がしてきました。
例えば…。
野球の専門家がいるとします。豊富な知識もあり、豊かな実践を重ねている。そこには、もしかしたらいろんな他のことよりもそれを優先し、それにかけ続けた結果として得られる膨大な経験と理論がある。
じゃ、人権の専門家がいるとします。豊富な知識もあり、豊かな実践を重ねている。そこには、もしかしたらいろんな他のことよりもそれを優先し、それにかけ続けた結果として得られる膨大な経験と理論がある。
たぶん同じです。でも、前者は専門家として自他ともに認めることは可能かもしれないけど、後者はどこかに「?」が入り込む。
ま、野球は普遍ではなくて人権は普遍ってことはあるかもしれない。でも、そこでいう普遍さと専門性の有無は少し違う。
で…。
おそらくは専門家同士の間には、いろんなことはあるだろうけど、やはり謙虚さと尊敬がある。例えば、人権を専門的に追求している人たちの間にもそれはたぶん(笑)あります。
逆に言うなら、専門家と非専門家の間には専門家同士の間にある「それ」はなかなかない。なぜなら、「わからない」からです。
そして、イーブンに論議をしようとする。でも、それはきついと思うのです。
これ、教育を語るときにも同じようなことがある気がします。
なんか、「教育」も「人権」も、いまや居酒屋談義で語れてしまうレベルって意味で、同じなのかもしれない。
あとからジワジワくる
ふいに出会ったフォビアは、その瞬間は「キョトン」なんですけど、あとからジワジワきます。そしてそれはなかなかひかない。もしかしたら、一生ひかないかもしれませんね。仮にひくとしたら、そのフォビアを打ち消す「なにか」があった時、それに相殺される感じで消される。
「ひく」という受動ではなく「消す」という能動。そこには打ち消してくれる「他者」と、消そうとする「わたし」の両者の意志が働く。
いや、「消す」は消えるからなくなることになる。そうではなくて、そこに存在し続けるけれども、「つ」になるということ。「無化」かな。
とりあえず、まだ「つ」にはなってないけど、「やる」ことが「つ」へとつながる行為。そこに「他者」はいるはず。そしてすでにいる。
問題の所在がわからないところにわたしの問題がある
今年、職場で新たなとりくみをいろいろやっているのですが、どうもうまくいきません。いや、なんとかかんとか前へ進めてはいるのですが、うまく動かない。まぁ、わたしの準備不足とかいろいろあるのはわかっているのですが…。ただ、それだけでもないような。
基本的にはわたしは「先がわからないところ」へ突っ込んでいくのがさほど苦にならないタイプです。てか、スキーなんかだとそっちのほうが好きなくらいです。で、もちろんスキーだけじゃなくて、ものの考え方や自分の行動全般にそれはあります。ま、
「やってみなきゃわからんやろ」
「やってから考えたらいい」
って感じですか。
もちろんそうじゃない人がいることはわかっているんですが、にしてもなぁ…。みなさん、慎重です。石橋を叩かれます。なんでなんだろ…。
まぁ、いろいろ考えられます。例えば、未知のものへの不安。自信がない。あるいは、生徒の反応や動きが読めない。
その気持ちはわからんわけでもないのですが…。そのリスクを回避したいみたいで、それもわからんわけでもないのですが、収束する方向が、なんとなく
「事前に正しい知識を教えて」
ってなるんじゃないかという、漠然とした予感がするんですね。
仮に自分が話をするとして、基本、事前学習はいりません。というか、もっと言うなら「誰が来るか」もいりません。「どんな人か」もいりません。なぜなら、事前の知識によるバイアスこそが、わたしがもっとも対峙したいものだからです。あるいは、出会いと驚き、そこから生まれる気づき。そういうものこそが「学習」だろうと思っているからなんです。「事前の正しい知識」は、そういうものを根こそぎ奪ってしまう。
ある友だちがこんなメールをくれました。
「人権が予定調和として伝わることから、人権教育の形骸化や生徒たちから人権が奪われてくと思うんです。生きたものとして、人権にふれられたら、いいなぁ」
あぁ!予定調和!それです。
生徒だけでなく、教員も、予定されないところで生きるからこそ、学校はおもしろい。
なーんてことを言ってるわたしに、問題の所在はわかるわけないわなぁ(笑)。
「考える」について考える
かつて「考える病」という病名を教えてもらって、自分がどうやらその「病」にかかってるらしいことを知って、まぁ入院なんぞして…。
ふと、その「考える病」について考えることがあります(笑)。いや、いつもなにかを考えなきゃならなくて考え続けていて、そうやって考えている自分について考えるってことなんですが…。
前にも書いたかもしれません。「考える」ことと「〜について考える」ことの違い。わたしにとっては、後者は前者に含まれています。というか、一部分、あるいは結果といえるかもしれません。
昨日は「あること」について考えなきゃなりませんでした。なので考えていたのですが、やがて煮詰まってきました。これはヤバイなと。どうしようかと。とりあえず、元ネタになるものを目の前において、そこから「考え」のレンジを少しずつ広げていきます。焦点をぼやかしていく。考えをまとめない方向へ持っていく。
ぼんやりしていると、いろんな「もの」があちこちからやってきます。それを対象となるものにはめてははずし。そしてピントをはずす。
もちろんそれだけにかかわっているわけにはいかないので、別のこともするわけですが、その間も頭の中ではピントがずれたままの「考え」がゆっくりとまわっています。
と、「はまった!…かな…?」という瞬間がきました。そこからフォーカスを絞り込んでいきます。やがてくっきりと「像」が形を結びはじめます。
そんな感じ。
もしかしたら「考える」って、綿菓子をつくるようなものなのかもしれません。
綿菓子をつくる機械のスイッチを入れる。モーターがまわる。これが「考える」こと。そこにザラメが入る。「考える素材」かな。それに熱が入る。砂糖の雲ができる。「焦点をぼやかした」状態かな。でも、それだけでは形にはならない。そこに割り箸を入れてクルクル。「素材の芯」みたいなものでしょうか。そして綿菓子ができる。
綿菓子をつくることだけにとらわれると、つい「割り箸」にとらわれてしまう。でも、ほんとはザラメがあり、その前に熱があり、そしてモーターの回転がある。それなしでは、いくら考えようとしても考えられない。
わたしが「考える」と呼んでいるのは、この「モーターの回転」のことなのかもしれません。
ていうの。
子どもたちに伝わるだろうか…。
限界かな?
この間、ずっと考えをまとめなきゃならない状況が続いています。すると、自分の意識はどうしてもそちらにいってしまう。
もちろん、その考えは「社会」とのかかわり抜きにはありえない話ではあります。でも一方、歴史や積み重ねられてきた思想、あるいは手元にある素材を自分がどういうコース料理へと仕上げていくかという話なので、やはり自分の中へ深く潜っていく必要がある。
自分の中へ潜っている時は、耐えられないほどの苦しさはあるけど、同時に静寂に包まれていてとても心地よい。ところが、グッと潜って、息継ぎのために浮かび上がっていると、そこは、とにかくおそろしいまでの喧騒です。そして、あまりにも流れが早い。取り残され感もあるし、ギャップもあるし。そんな感覚にめまいがします。
でも…。と思います。
ほんとはその喧騒を少し俯瞰したところから眺める必要があるんじゃないか。流れの早さに惑わされずに、でも流れの早さを感じられる距離で、そしてそこに翻弄されるひとりの人間として、その喧騒をとらえたとき、少し違う風景が見えるんじゃないか。もしかしたらその場所は静的ではなく動的な距離の保ち方なのかもしれない。そのバランス。
深く潜りつつ、時に流れの近くに行き、あるいは流れに巻き込まれ、でもそこからほんの少し離れて俯瞰し、そして常に考え続ける。そんなことしなきゃと思うのですが、そのバランスをとるには、どうやら、今の自分の脳みそのキャパは限界のようです(笑)。
まったく、どうしたものやら…(;_;)。
仕事の流儀
いま、仕事が立て込んでいます。てか、ほんとは立て込んでないのかもしれないけど、なんか立て込んでます。てか、毎年放ったらかしにしていて、年度末に慌てふためくる仕事もあるし(;_;)。
ま、そんなことはあるのですが、当面、目の前にそびえ立つ「壁」をなんとかしなきゃなりません。
で、この「壁」が仮に2枚あるとして、これをどう砕いていくか。
今までのわたしはこれらをふたつ同時に砕いてきました。もう少し具体的に言うなら、片方を砕きながら、もう一方の砕き方を考える。で、反対を砕きながら、逆の砕き方を考える。まぁ、「考える」と「行為」をテレコにしていた。
でも、どうやら今回の壁はそんな生半可なものではなさそうです。「考える」時は、手を止める必要がある。「行為」の時は、「考える」ヒマなどない。というより、「考えながら行い、行いながら考える」必要があるようです。
実はこの壁、今年の4月くらいからずっと突き当たっているのですが、半年たった今日、このことにようやく気づきました。
てことで、片方には頭の3割くらいは残しますが、7割は今急ぐ方に投入することに決めました。で、出来る限り早くそいつをやっつけて、本格的にもう一方にとりくもう。
たぶんその方が、全体として早く、かつクォリティがあがる気がします。
ありのまま?
今日は大阪で呑み。で、いろいろ話しながら、ふと考えました。
「ありのままの自分で生きようと思った」
これ、まぁ、GIDギョーカイにおける常套句な気がします*1。あー、そう言えば
「本来の自分にもどる」
ってのもありました。某映画でも、某外科医が言ってました(笑)。
んー、なんでしょう。この違和感。
例えば、
「ありのままの自分で生きようとしてジェンダークリニックを受診した」
これ、成立するのかなぁ…。ジェンダークリニックって、ガイドライン上は「精神科領域の治療」であると同時に身体改造のゲートですよね。でも、まぁさきほどのようなことを言う人って、後者のために行くことが多いんじゃないかと。てことは
「ありのままの自分」=「身体改造」
てことになる。「身体改造した自分はありのままか?」って話です。
「ありのままの自分でいるために二重まぶたにする」
って話が出てきたら「それはありのままとちゃうやん」ってツッコミが入ると思うんだけどなぁ。
あ!そう言えば、
「男/女として生きようと思いジェンダークリニックに来た」
みたいな話もありがちでして。でも、これも変だなと。だって、さっきの話とくっつけると
「男/女として生きる」=「身体改造」
ってことになる?いや、「男/女として生きる」のって、別に病院に行かなくても、体を変えなくてもできるじゃん。
いや、もしかしたら「医療のお墨付きが必要/ほしい?」。んー。でも、性別って精神科医が「認める」もの?いや、あの人たちは、基本的に本人が言ってることを追認してるだけで、あの人たちが認めることは、本来ほとんど意味がないはずなんですよね。
まぁ、これらの言葉は、もしかしたら「はやりの常套句」なのかもしれません。だから、いろいろ深く考える必要なんかないのかもしれない。
でも、「はやりの常套句」を使うことは、すでに「ありのまま」からはずれている。あえて「はやりの常套句」とは逆のことを言う、あるいはあえてそれを使わないということが、実はとても大切なんじゃないかなぁ。