「考える」について考える

かつて「考える病」という病名を教えてもらって、自分がどうやらその「病」にかかってるらしいことを知って、まぁ入院なんぞして…。
ふと、その「考える病」について考えることがあります(笑)。いや、いつもなにかを考えなきゃならなくて考え続けていて、そうやって考えている自分について考えるってことなんですが…。

前にも書いたかもしれません。「考える」ことと「〜について考える」ことの違い。わたしにとっては、後者は前者に含まれています。というか、一部分、あるいは結果といえるかもしれません。

昨日は「あること」について考えなきゃなりませんでした。なので考えていたのですが、やがて煮詰まってきました。これはヤバイなと。どうしようかと。とりあえず、元ネタになるものを目の前において、そこから「考え」のレンジを少しずつ広げていきます。焦点をぼやかしていく。考えをまとめない方向へ持っていく。
ぼんやりしていると、いろんな「もの」があちこちからやってきます。それを対象となるものにはめてははずし。そしてピントをはずす。
もちろんそれだけにかかわっているわけにはいかないので、別のこともするわけですが、その間も頭の中ではピントがずれたままの「考え」がゆっくりとまわっています。
と、「はまった!…かな…?」という瞬間がきました。そこからフォーカスを絞り込んでいきます。やがてくっきりと「像」が形を結びはじめます。
そんな感じ。

もしかしたら「考える」って、綿菓子をつくるようなものなのかもしれません。
綿菓子をつくる機械のスイッチを入れる。モーターがまわる。これが「考える」こと。そこにザラメが入る。「考える素材」かな。それに熱が入る。砂糖の雲ができる。「焦点をぼやかした」状態かな。でも、それだけでは形にはならない。そこに割り箸を入れてクルクル。「素材の芯」みたいなものでしょうか。そして綿菓子ができる。
綿菓子をつくることだけにとらわれると、つい「割り箸」にとらわれてしまう。でも、ほんとはザラメがあり、その前に熱があり、そしてモーターの回転がある。それなしでは、いくら考えようとしても考えられない。
わたしが「考える」と呼んでいるのは、この「モーターの回転」のことなのかもしれません。

ていうの。
子どもたちに伝わるだろうか…。