なんか、いつも、ほんの少しタイミングが遅いと感じるわたしです。あと少し早ければ、こんなにきつい思いをしなくてすんだんだろな。
でも、まだ追いつかれてない。
当事者特権は使わない。権力は使わない。そこから出てくる内容こそが普遍性を持つ。わたしはそういう場所で闘うと決めたんだ。だから、そこでやる。
しかし…。
なんか、ブルドーザーの前を必死で走ってる気がする。
まぁ、追いつかれたらキャタピラの隙間に潜り込んでやりすごして、必死で走って追い抜いて、おしりペンペンしてから、また逃げればいいってわかってるんだけどね。
カテゴリー: 考え
ボヤキ
いろんなところで、いろんな人が、いろんなことを発言し、論議が起こっています。
いろいろ考えることはあるし、それに反応しようかとふと思うことはあるのですが、あえて沈黙することもあるのです。
別に考えてないわけではない。いや、逆に、考えています。考えているからこそ、ネットではあえて沈黙する。
ま、わたしが言わずとも「正しい」ことは、論議の中ですでに出されている。だから、できるのはせいぜい「イイネ」です(笑)。
なんか、うらやましいですね^^;;。ネット上で活発に表現できるのが。
わたしが発言するのはネット上の言葉の届かない、リアルな世界においてです。同じ意見を持つ人が、そこにいるかどうかわからない。誰も「イイネ」ボタンを持っていないところ。そこでわたしが発言したとしても、それが瞬時に世界に広がるわけではないところ。そこがわたしの発言する場所なんだと思っています。
だから、わたしの発言なんて誰も知らない(笑)。
ま、ボヤキです(笑)。
「枠組み」を拒否する
この間「ある言葉」を探し続けています。『社会学事典』なんていうのにも手を出したのですが、でも見つかりません。
で、昨日はとうとう「パラムの会」の文章に手を出してしまいました。とある特殊業務の予行中、安田直人さん、くらしげうひさん、片田孫朝日さんの文章を読みました。やはりおもしろかったです。もっとも、今探している「言葉」に変わる「言葉」を探すためには「あ、方向、間違った」と思いました。そりゃそうです。わたしが探している「言葉」とパラムの会が目指す方向は真逆でした。
パラムの会の方向は「既存の枠組みに自分をあてはめない」でした。
しかし、たぶんその前に「在日朝鮮人」「日本人」「日本籍朝鮮人」という枠組みがあって、それに「あてはまらない」という実感が、「パラムの会」のいう「叙述的自己表現」の原動力なんだと思います。
逆に言うと「日本籍朝鮮人」という「既存の枠組み」がまだ存在していなかった時に、たぶんその枠組みをつくりだしてきた人たちーー具体的には「民族名をとりもどす会」かなーーは、既存の「朝鮮人」「日本人」という枠組みに自分の居場所のないという実感があった。それを原動力として「日本籍朝鮮人」という新たな「枠組み」をつくりだしたんだと思います。そういう意味では「居場所のなさの実感」は、新たな「枠組み」をつくりだす原動力となる。で、その「枠組み」そのものを拒否したところに「パラムの会」のラディカルさがあったということなのかもしれません。でも、「あの時代」を考えると、むしろそのラディカルさが必然だった気もします。
んー
でも、いつも思うんですけど、「枠組み」があるから「拒否」できる。「枠組み」のないところには「拒否」はない。
つまり「拒否」は先行事例への批判であるということです。
問題は、継承するにしても、その「枠組み」を批判的に継承するのか、「批判なき継承」なのか。あるいは、新たな枠組みをつくるにしろ、枠組みを拒否するにしろ、先行事例へのリスペクトと批判が、正当になされているか。
なんかこのあたりが大切なのかなぁ。
難しい…(;_;)。
伝統芸能
昨日、新採の人の「研究授業」がありました。例によって例のごとく、わたしは斜め30度くらいから見てたのですが…。
いや、「数学のその分野の教え方」なんてものをいちいちコメントしても意味ないじゃん。そんなのは「内輪」の話でしかない。もっと「授業のプロ」としての共通の話題があるはずだと思うのです。だから、いわゆる「研究授業」はムダだと思っているのです。
で、授業を見ながら、わたしたちは、なんのために授業をするんだろう。あるいは、毎回の、あるいは半学期の獲得目標をなにに置くんだろう。何のために発問し、何のために板書し、何のために問を解かせるのだろう。
そして、それらひとつひとつを自問自答しながら、毎回の授業をしているだろうか…。
そんなことをグルグル考えていました。
もしかしたら、板書って、高校時代の「せんせ」もやってたし、先輩の「せんせ」もやってるし「そんなもん」と思ってやってないだろうか?ひとつひとつの「問」の意味や位置づけ、そこから出てくる配置や順番を考えているだろうか?そもそも、「わかる」ってどういうことなんだろう。「わかる」ことと「解ける」ことは同じなのか違うのか。違うならどちらを目標とするのか。
そんなことを新採の人にぶつけてみたのですが(笑)。
で、いい迷惑だろうなと思ったけど、
「授業、一度見においで」
と誘いました。
「きちんとした授業」をしている人はたくさんいます。きっと、いままでたくさん見てこられたと思うのです。でも、「きちんとしていない授業」を見ることが、その人の幅を広げることにつながると思うからです。
で、今日、見に来られました。
最後に15分くらいあまることを想定して、プリントも用意してあったので、プリント配って、そのあと「解題」をしてたのですが…。
マジメな人なので、きっといろいろ考えられたとは思います。
でも…。
わたしはまちがってるのなぁ。あるいは、わたしのひとりよがりなのかなぁ。難しく考えずに、先輩の「せんせ」たちがやってきた「積み上げ(笑)」を尊重して、それをそのまま「(あたかも)伝統芸能」*1のようにやればいいのかなぁ。
おののく
夜中に一本の電話。要件を聞いても覚えがない。とりあえず「わかりません」と電話を切った。
でも、なんか腑に落ちない…。
ふと思いついたことがあってメールチェック。
あ!このことか!しまった!めっちゃ忙しい時で、ペンディングした次の瞬間に対応するのを忘れてしまってた。
一本のメールがものごとを左右する。
夕方、「なんとかなった」という電話。
よかった、ほんとうによかった。
もしもなんともなっていなかったら、たぶん一生後悔をしていた。自分がこんなところにまで足を踏み込んでいるということを、あらためて認識させられたできごと。こわい。でも、たぶんもどれない。
それにしても…。助かった。感謝。
あんたも昔やったやん
今日はうちのクラブの卒業生の結婚式です。この卒業生、ほんとにいい子なんですよね。卒業して、かれこれ10年近いんだけど、いまだにクラブを支えてくれています。そんな卒業生から「結婚式、来て」って言われたら、そりゃあ喜んで行かせていただくわけです。
てことで、12月に新調した服を着ようとしたのですが、きつい。2ヶ月で太った?
ま、しゃーないです。
で、結婚式がはじまったわけですが…。
うわ!家父長制!父親がエスコートして、夫に手渡す。もちろん前から知ってはいましたが、いまのおべんきょのツボがこのあたりなだけに、ツボに入りまくっています。
たぶん卒業生の子は、とても柔らかい感性をしています。家父長制ゴリゴリってわけじゃない。たぶん結婚式場の演出なんだと思います。
例えば、披露宴。とてもサービス精神にあふれている卒業生の子は、あちこちにサプライズをしかけて、わたしたちを楽しませてくれます。ほんとにいい子なんです。
でも、例えば「お色直し」。彼女さんは女性の友だちにエスコートされてお色直しに行かれます。で、卒業生の子も「お色直し」ということで、男性の友だちのエスコート…。というところで、笑いが出る。で、手をひかれるのではなく、肩を並べて歩く。卒業生の子は、たぶん躊躇なく手も握れるし腕も組める。そんな子です。でも、周囲はそんな感じじゃない。ふと「ホモソーシャル」なんて言葉が頭をよぎります。
とにかく、各所にある「演出」がことごとくツボに引っかかってきます。
これ、たぶん、よほど意識して、ひとつひとつの「演出」を拒否し続けないと、結婚式場の演出に乗っかってしまうことになりますね。
ほんとに、とっても和やかな楽しい結婚式でした。それだけに、ところどころのツボが…。
そんなことを考える半日でした。
で、家に帰って、パートナーにそんなことを報告したら「あんたも昔やったやん」とのお言葉。
あー^^;;
冒頭に
今日の冒頭のひとこと
なんかね。ここしばらくの動きで、A政権は「第三次世界大戦」の引き金を引いたかもしれない。
一連の動きは、明らかに「宣戦布告」に見える。で、それを受けて、「日本をテロの対象にする」って宣言されちゃったよね。「日本国内にいたら関係ない」ってわけじゃない。現に、フランスでは爆破事件があったよね。日本もその対象になったってことだよ。
とにかくね。
英語を勉強しなさい。日本のマスメディアは何も語らない。だから、海外のメディアから直接情報を仕入れるために、英語を勉強しなさい。自分の身を守るためにね。
じゃ、英語ほど大切ではない数学の試験を返すね。
日本に「第三次世界大戦」を起こすほどの力があるかどうかはわかりません。でも、そんなことではないんです。微妙なバランスの上で戦争は「世界」にまでは広がっていなかった。あるいは先進国(と呼ばれる国)はそこから逃れ続けてきた。そのバランスが崩れる。
バランスを崩すためには大きな力は必要ありません。ほんの小さなバランスのほころびが世界のバランスを崩しうる。
「積極的平和主義」とやらが「第三次世界大戦」の引き金となる可能性は十分にある。
切実さ・再び
今日は久しぶりに「4人」の呑み会です。やはり、せめて1年に1回くらいはこの呑み会をしたいです。
で、みんなで集まってお店に移動。
まずはこの1年、あるいはこの7年の変化について話をしたり。
でもそのうち、いろいろ最新の話題になるのは当然です。で、出てきた話題が…。
「学生アンケートで「あなたが出会ったマイノリティは?」というのをやったとき、「出会った」という回答が一番少ないのは部落の人」
これをどう考えるかでした。
昨日に引き続き、今日も「切実さ」です。
いや、まっとうというか、まっすぐというか、そういう答えは「部落差別はやっぱりきついから話せない→出会わない」なんですよね。
でも、昨日の考えでいくと、「リスクやめんどくささと切実さのバランス」が「カムアウトしない」に傾いている可能性がある。じゃそれってなんなんだろう…。
例えば、「説明のしにくさ」みたいな可能性はないかなぁ。
つまり
「わたし、部落やねん」
「部落って何?」
「いや、部落っていうところに生まれたらな」
「なんで?それがあなたとどう関係あるの?」
「…」
みたいな。
なんというか、カミングアウトって、実は「共通理解」が成り立っている上で成立するんじゃないか。あるいは、共通理解を得るところまでカミングアウトする側が説明しなくちゃならんのじゃないかと。それをしないと成り立たない。
となると、部落問題学習がどんどん減っている今「共通理解」がとても得にくい状況がある。で、その共通理解を得るための努力を「カミングアウトする側」が担わなきゃならない。カミングアウトする側はそこに「(結局理解を得られない)リスクや(理解を求めるために自分も努力しなくちゃならない)めんどくささ」がある。そして、その「リスクやめんどくささ」の質や量とカムアウトによって得られるもののバランスです。その「リスクやめんどくささ」を引き受けて、なおカミングアウトする切実さがあるかどうか。
それは、部落、レズビアン、ゲイ、あるいはトランス、外国人、ダブル、その他さまざま、それぞれの課題やその人の状況で異なるんでしょうね。
なんか、そんなことを考えたり話したりしてたら、おっと、閉店の時間です。
切実さ
今日は、お友だちのRささんに誘われて、K大学のセクマイの学生さんたちと呑み。
なんか、みんな元気です。いや、元気でまったくいいんですけどね(笑)。食べ放題飲み放題などという店があるのも驚きですが、みなさんガッツリと食べようとしておられます。ま、学生です。
にしても、ほとんどがトランス男性で、トランス女性はわたしひとり。レズビアン・ゲイの人も少数です。
なぜこうなるんだろう。
と、ある方からこんな話が。
「セクマイが集まるとトランスの話ばっかりになるんですよね」
なるほど…。でも、
「なぜそうなるか」
を考えなきゃならないんじゃないかなぁ。
トランスの声が大きい?トランスはしゃべりたがり?トランスはネタが多い?
「トランスって、例えば「名前を変えたい」とか、制度と直接触れるからカムしなくちゃならないことがあって、だから顕在化するんじゃないですかねぇ」
なるほど…。でも、レズビアン・ゲイの方がはるかに人数は多いはず。そんな人たちがドカンと来て恋話したら、トランスなんて片隅においやられちゃいますよ。
じゃ、なぜ集まらないのか?なぜ話題を出さないのか?
「切実さじゃない?」
って聞いてみました。
これ、カムの必要性と似てるけど、ちょっと違う。
なんというか…。集まらなくてもいい。「ここで」話をしなくてもいい。別のところにちゃんと世界がある。そんなことはないのかなぁ。わざわざ時間と場所をあわせて「ここに」来なくてもいい。
集まる、話をするためには、それなりのリスクやめんどくささがあります。それと集まる、話をすることの切実さを天秤にかけたとき、どちらに傾くのかって話です。これは「切実さ」の軽重じゃないです。すごく切実でも、それをうわまわるリスクやめんどくささがあれば、やはり来ない話さない。逆にとてもリスクやめんどくささが高くても、それをうわまわる切実さがあれば、来る話す。
なんかそんなことを考えたんですけどね…。あまりウケなかったかなぁ。
他にも、ある参加者から「普通はそうじゃないでしょ」発言があって
「せっかく変態に生まれたんだから「普通」はやめようよ」
と言ったら一部にしかウケなかったりとか、まぁ、学生さんは若いなと(笑)。
にしても、たぶんわたしが知ってる「若いトランス」よりも、さらに5歳くらい若い人になるのかな。ここの変化もすごいなぁという気がした、おもしろい呑み会でした。
また誘ってほしいけど、誘ってもらえるかなぁ^^;;
絶望的な状況の中で、希望は捨てない
選挙は終わりました。
あの選挙の結果を見てどう思う?
新聞でもテレビでも「自公、圧勝」という見出しが出ている。でも、中身を見たかい?
実は、自民党は議席を減らしている。公明が伸ばしたから合計でトントンになっているだけ。それに対して、民主党と共産党は議席を伸ばした。しかも、共産党は20議席を越えたね。
それから、小選挙区と比例代表の結果も見てみたかい?小選挙区では自公は圧倒的に強いけど、比例代表では自公はほんの少し勝っただけ。
沖縄では自公は全滅。
確かに数の上では圧勝になるんだけど、実際のところそう言えるかどうか。でね。何が言いたいかというと。
「見出し」には「意図」がこめられてる。だからね、見出しを見るだけじゃなくて、中身を読もう。「衆議院選挙」で検索かけたら、検索結果が出るよね。で、その結果のタイトルを見て「わかった」と思わず、その中身を読もう。そうすると、「見出しに込められた意図」や、そこで語られなかったことがわかってくる。格差社会に対して「ノー」という闘い、戦争に対して「ノー」という闘いは、これからも続く。そして、そう考えている人がいるということがわかった。今回はそういう選挙だった。だから、わたしはこの絶望的な状況の中で、それでも希望は捨ててない。
まだまだ語り続ける。じゃ、授業をはじめるよ。
こないだの宿題、あてるよ。