「枠組み」を拒否する

この間「ある言葉」を探し続けています。『社会学事典』なんていうのにも手を出したのですが、でも見つかりません。
で、昨日はとうとう「パラムの会」の文章に手を出してしまいました。とある特殊業務の予行中、安田直人さん、くらしげうひさん、片田孫朝日さんの文章を読みました。やはりおもしろかったです。もっとも、今探している「言葉」に変わる「言葉」を探すためには「あ、方向、間違った」と思いました。そりゃそうです。わたしが探している「言葉」とパラムの会が目指す方向は真逆でした。
パラムの会の方向は「既存の枠組みに自分をあてはめない」でした。
しかし、たぶんその前に「在日朝鮮人」「日本人」「日本籍朝鮮人」という枠組みがあって、それに「あてはまらない」という実感が、「パラムの会」のいう「叙述的自己表現」の原動力なんだと思います。
逆に言うと「日本籍朝鮮人」という「既存の枠組み」がまだ存在していなかった時に、たぶんその枠組みをつくりだしてきた人たちーー具体的には「民族名をとりもどす会」かなーーは、既存の「朝鮮人」「日本人」という枠組みに自分の居場所のないという実感があった。それを原動力として「日本籍朝鮮人」という新たな「枠組み」をつくりだしたんだと思います。そういう意味では「居場所のなさの実感」は、新たな「枠組み」をつくりだす原動力となる。で、その「枠組み」そのものを拒否したところに「パラムの会」のラディカルさがあったということなのかもしれません。でも、「あの時代」を考えると、むしろそのラディカルさが必然だった気もします。

んー
でも、いつも思うんですけど、「枠組み」があるから「拒否」できる。「枠組み」のないところには「拒否」はない。
つまり「拒否」は先行事例への批判であるということです。
問題は、継承するにしても、その「枠組み」を批判的に継承するのか、「批判なき継承」なのか。あるいは、新たな枠組みをつくるにしろ、枠組みを拒否するにしろ、先行事例へのリスペクトと批判が、正当になされているか。
なんかこのあたりが大切なのかなぁ。
難しい…(;_;)。

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