伝統芸能

昨日、新採の人の「研究授業」がありました。例によって例のごとく、わたしは斜め30度くらいから見てたのですが…。
いや、「数学のその分野の教え方」なんてものをいちいちコメントしても意味ないじゃん。そんなのは「内輪」の話でしかない。もっと「授業のプロ」としての共通の話題があるはずだと思うのです。だから、いわゆる「研究授業」はムダだと思っているのです。
で、授業を見ながら、わたしたちは、なんのために授業をするんだろう。あるいは、毎回の、あるいは半学期の獲得目標をなにに置くんだろう。何のために発問し、何のために板書し、何のために問を解かせるのだろう。
そして、それらひとつひとつを自問自答しながら、毎回の授業をしているだろうか…。
そんなことをグルグル考えていました。
もしかしたら、板書って、高校時代の「せんせ」もやってたし、先輩の「せんせ」もやってるし「そんなもん」と思ってやってないだろうか?ひとつひとつの「問」の意味や位置づけ、そこから出てくる配置や順番を考えているだろうか?そもそも、「わかる」ってどういうことなんだろう。「わかる」ことと「解ける」ことは同じなのか違うのか。違うならどちらを目標とするのか。
そんなことを新採の人にぶつけてみたのですが(笑)。
で、いい迷惑だろうなと思ったけど、
「授業、一度見においで」
と誘いました。
「きちんとした授業」をしている人はたくさんいます。きっと、いままでたくさん見てこられたと思うのです。でも、「きちんとしていない授業」を見ることが、その人の幅を広げることにつながると思うからです。

で、今日、見に来られました。
最後に15分くらいあまることを想定して、プリントも用意してあったので、プリント配って、そのあと「解題」をしてたのですが…。
マジメな人なので、きっといろいろ考えられたとは思います。
でも…。
わたしはまちがってるのなぁ。あるいは、わたしのひとりよがりなのかなぁ。難しく考えずに、先輩の「せんせ」たちがやってきた「積み上げ(笑)」を尊重して、それをそのまま「(あたかも)伝統芸能*1のようにやればいいのかなぁ。

*1:実際は「伝統芸能」は日々進化してるんでしょうけどね