現在、往復の電車の中で本を読む機会が増えてます。ここで困るのが、小説とかじゃないので、メモをしたかったりするのですが、メモをするためにはペンが必要です。が、そのペンがカバンの中に入っている。メモをとる紙もカバンの中に入っている。どーすんねんと。
で、前から考えていた方法を実行することにしました。たぶん、明日完成するな。
楽しみですo(^^)o
カテゴリー: 考え
萌キャラ考
ダメダメ先輩と話をしていて、なんとなく「萌キャラ」の話になりました。
ダ「大阪市営モノレールのポスター、アカンと思う」
なんのことかと思ったら豊川まどかさんのことでした。
ダ「こんな子、現実にいる?」
じつは、内心、「おるけどなぁ」とか思ってるわたしの感性は、どうやらかなり認知が歪んでるのかなと思ったのですが…。てか、かなりおとなしめです。京都の太秦萌さんに比べたらね。まぁ、太秦さんは女子高生(エスカレーターは使わない派)ですから、よほど豊川さんのほうが落ち着いています(笑)。
まぁ、そーゆー話じゃないですね。
なんか、最近は「関西鉄道むすめ」なるものもあったりして、しかも、スタンプラリーまであったりして、なんかもう^^;。ちなみに、こういうのの先鞭をつけたのが、おそらくは京都市営地下鉄の「地下鉄に乗るっ」なのかな。個人的にはかなりおもしろいと思ったりしているんですよね。まぁ、「女子高生」というキャッチーな記号を使うというgender biasは感じないわけでもないのですが、いちおうキャラ設定もあって、そこには女子高生以外もたくさんいたりします。そういや、「京セラのラジオCM/太陽光編」も主人公は女子高生だったな。京都は女子高生好きなのかな?
で、なぜ違和感を感じなかったか、あるいは内心「おるけどなぁ」と思ったかというと、たぶんここまでデフォルメされた身体ではないところなのかなと思ったからなのかもしれません。
なんてやってたら、環境省まで萌えキャラ使ってるとかいう話で、まぁ、自衛隊も萌えキャラ使ってるし、やはり、「記号としての女子高生」の消費はアカンよなぁと思ったりもするのでした。
「変わらない」ことと「変わる」ことと
今日はとりあえず午前は出勤です。昨日一日行かないだけで、なんとなく不安になるのですが、でも、土日からの月曜日を休んだだけなんですけどね。
で、職場に行くと、あれやこれやとあって、あっという間に時間が過ぎていきます。
で、昼過ぎに奈良へ。今日は2時間弱のお座敷と主催者がされるワークショップの参加です。
まずはミッション3の話開始。
うーん、固い。まぁ、職場の研修ですからみなさんマジメなのはわかりますが、固い。もちろんところどころで笑顔があるのはあるのですが、反応が薄くて、ウケてるのかどうかわかりません。なんか、最近こういうのが多すぎます。まぁ、こうなると、ぶっ飛ばしていくしかないわけで、ガンガン行くことにしました。時間も足りないしね。
ということで、ほぼほぼオンタイムで終了。
休憩のあとの後半戦では、法務省作成の映像を見たあと、感想を出しあうというものです。これ、むずかしいですよね。この手のものって、ある種「正解」がないようで、実は「正解らしきもの」はあるんですよね。だって、映像のそこここに「ヒント」が散りばめられていて、それを見つけることができるかどうかという話なんです。だから、化学調味料の味がしてしまうわけです。さらにいうと、わたしたちのように「お座敷をする側」は、さらに制作者があえてつくった「穴」を探すことが要求されます。いわば、バトルですね。つまり、「ヒント」を見つけたうえで、そこにさらにコメントをすることが求められる。
で、わたしが引っかかったのは、カミングアウトを受けた人の「これからも変らないよ」というひとことです。
まぁ、いつも言ってることですが、「変らない」わけがない。でも、まずは「変らないよ」と言わなきゃならない。そこなんですね。
つまり「何が変わらない」のか、そして「何が変わる」のか。そして、「変わる」というところをどう意識化するのか。
なので、コメントとして「「わからないことがあるの思うから教えてね。ダメなところがあったら言ってね」というひとことをつけ加えましょう」とだけ言っておきました。
だって、「新たな世界」に入って、自分の価値観が「変わる」ことの楽しさはハンパないです。例えば、手をつないでる男性ふたりを見たとき、「気持ち悪い」と思うか「幸せそうだなぁ」と思うか、どちらが自分がハッピーになれるかというと、当然後者だからです。
ま、そんなこんなで、今日のお座敷終了です。
「わたしは街の♪」じゃないけど…。スペシャリストとジェネラリスト?
今日は午後遅めの時間から小中高の連絡会議があります。迎え撃つ側の小中の人たちは、外国人教育のある種のスペシャリストです。で、迎え撃たれる(笑)側の高校の人たちは「ど」のつく素人です。まぁ、ある学校だけ長くかかわってはこられましたが…。
とりあえずは、いろいろ情報交換をするのですが…。小中、とくに中学校は、ほんとに子どもたちの情報をおもろくほど把握しておられます。ある種当たり前ではあるのですが、でもやっぱりすごいです。なので、高校側はひたすら相談を持ちかけ、話を聞くだけです。
で、もちろんわたしもその一員なのですが、それだけではアレなので、うちの職場の人権学習のフィードバック資料とか「子ども作文コンクール」とか「全外教大会」とか「ゼンコー」とかの情報を提示したりします。まぁ、そんなことはできるのですよ。
結局なにが違うかというと、小中の人たちは、きわめて実践的だし、深い知識も持っておられます。それは、たとえある程度の実践をしていたとしても、とうていかなうものではないし、そもそも対抗するつもりもありません。だって、なんだかんだ言って、高校は学力的なハードルを越えた子どもたちが来るわけで、そんな世界からは、まず小中の世界はわからない。なので、高校は、ひたすら聞くしかない。そんな時に、わたしはなにができるかを、やはり考えます。できることは、わたしの場所からアクセスできる情報を流すことかなと。だからこそ、さきほどの情報を流す。
で、今回はさらに、在留資格が「家族滞在」の高校生が就職時に「定住者」に切り替えられるかもしれない件についての情報をシェアすることにしました。
これは、小中の教員にはわからないし、かといって外国人教育にある程度以上かかわっていないと入ってこない情報です。でも、こういった情報がなぜ入ってくるかというと全外教のおかげなわけです。
ちなみに、在日朝鮮人教育→解放教育とフィールドを広げ、現在はトランスジェンダーの子どもたちがメインのわたしですが、別に在日の子どもや部落の子どもとのかかわりを捨てたわけじゃないです。ひとつひとつのかかわりは、たしかに浅くなります。その代わり、わたしのかかわりは広い。
と考えると、わたしにできることは、スペシャリストではなくジェネラリストであるということなのかな。いろんな世界と触れ合っているからこそ入ってくるさまざまな情報を相互にシェアしていくことかなとか、ふと思いました。
ちなみに、H上さんから
「人権の専門家ー」
ってメールが入ったので
「ちゃうちゃう。よろずやよろずや。萬屋錦之介ー」
って返したら、返事はありませんでした(笑)。
当事者主権
昨日、やっとすべてのクラスが試験範囲を終えたので、今日からは学び合い学習です。とはいえ、もちろん質問は大歓迎なので、「質問に来いよ」とは言います。ちなみに、わたしはあえて子どもたちのところには行かず、こちらに来るようにします。だって、そのほうがゆっくり対面できますからね。
「せんせい」
とか言いながらやってきた子に、まずはイスを出して
「まぁ、どうぞ」
からスタートです。
「これ、割り切れるはずなのに割り切れない」
んにはずは…。あー
「これねcareless mistakeやね。よく見て」
「えー?あ!」
「うん、問題の式の写し間違いね(笑)。でもよかったね。こういうミスがあるんだよね」
みたいなの。
でも、ほんとうに苦手な子は、実は来ないんですよね。なので、たまには出張です。すると、やはりあまり進んでない。
「ほんとに質問に来てね。君が何がわからないかは、わたしにはわからない。それは君にしかわからないことだからね」
と言った瞬間に「当事者主権」という言葉が頭をよぎりました。
そうなんだよな。「教える」って「わたしにはわからない」という「無力さ」から、「学びをサポートする」ことなんだろうな。
「教え込む」ことを目的とすることが「専門家主義」であるとしたら、「学びのサポート」は、その対極にある「当事者主権」なのかな。できれば、そうありたいな。
なにを伝えよう
わたしが人権教育の主担になってから長く、新任者・新採・教育実習生、いずれについても人権教育についてのレクチャーの声がかかりませんでした。まぁ、人権教育が独立したセクションではくなったので「統合した親セクションがすればいい」ということになったんでしょうけど、そしてなにもしなくてよければ楽ではあるのですが「それでいいのか?」と、かなり腹をたててました。
で、3年くらい前から「やらなくていいんやね?」「うちの職場としては人権ってその程度の扱いなんやね」と、ネチネチネチネチイヤミを言ってきました。そのかいあってか、その頃から新任研や新採研、教育実習生の研修でひとコマ割り当てられることになってしまいました。
いざ、やるとなったらなにをやるのか考えなきゃなりません。もちろん府教委が研修資料をつくっていてそれをなぞればそれなりのことはできますが、でもそれって退屈です(笑)。だって、読めばわかる。そうではない内容をやりたいと思うので、毎年悩んでいます。
で、今年も新採研の日がやってきました。対象となるのは3人です。しかも、人権教育について話をすればいいかと思いきや、+「言語活動の充実」とか書いてあります(笑)。まぁ、ギョーカイの考え方でいけば国語の教員やることなんでしょうけど、管理職+主任を見渡して国語がひとりもいないので、たぶんわたしにまわってきたのかな。
「まぁね。人権教育は生活綴り方とかの影響も受けてないわけではないからね。だれが無着成恭やねん」
とかボケながら研修の場所へ。
レジュメはこんな感じです。
1、「人権教育を推進するために」を読む」
2、「お題」に答えてくださいな
(1)お題1
(2)お題2
(3)お題3
3、「時には昔の話」(笑)
1、では、京都府は人権教育をどうとらえているのかというバクっとした話です。中でも、進路学力保障がなぜ入っているのかということ。そして、それは誰かがやるのではなく、学校全体でやらなきゃできないよってこと、そして人権担当はその中の「人権学習」と「地域との連携」を担当してるんだよってことを、実例を交えて話しました。
2、がメインです。3つのお題は「教員という仕事はどんな仕事?大切にしたいことは?」「なぜそう思うの?」「そのためにやらなきゃならないと思うことは?」です。
新採の3人それぞれがそれぞれの思いを語ってくれました。それに対して、わたしも自分の思いを語りました。こんなのに正解はないんです。でもだからと言って、新採とベテランがイーブンというわけではない。そこには実践や、それに基づいた思索があるからです。
わたしの答えは「つなぐこと」「教員は無力だから」「そのためには生徒の声を聞く」です。
つなぐっていうのは「子どもを子どもとつなぎ、子どもを知識とつなぎ、子どもを社会とつなぐ」ってことです。そんなこと、ひとりでできるわけがない。子どもの助けなしにはできません。だからこそ、子どもたちの声を聞かなきゃなりません。そのためのツールのうちのひとつが「作文」です。
ということで、3では学級通信の話をしました。つまり「言語活動の充実」です。
1997年の学級通信を、付録でどっさりつけました。自分の思いがあふれかえって、子どもたちの声があちこちにある、完全な内輪ウケの、でも暑い学級通信です。夏の全戸家庭訪問の予定表も載ってます。てことは、全戸家庭訪問をしてたということがわかります。
まぁ、わたしがクラスとどう向き合っていたかということを知ってほしいなと。そして、これから子どもたちといい出会いをしてほしいな。
そういう思いを伝えたかったんですよね。
伝わったかな…。
薄さ
昨日帰ったのが12時半くらい?寝たのが1時。そりゃ眠いです。それでもなんとか出勤。荷物が多いのとメッチャクチャな雨なので、車で出勤です。なので、少し早めに到着。ここからは、昨日の出張のデータ処理です。
午前は外部との連絡とり。夏の研修の講師さんとか、夏の研修の講師で行くところとか、あれやこれやです。なーんにもやってこなかったからなぁ。でも、打てば響くように反応があるSゃのうさんに勇気づけられました。
午後からは作文読みです。今年は4月から今日まで合計4回の人権学習があって、その作文が山のようにあります。もっとも、全部があるわけじゃなくて、なぜか読ませてくれない(作文を渡すのを忘れてるみたいです)人がおられて、まぁそれはしゃーないかと。でも、可能な範囲でフィードバックしなきゃなりませんからね。こないだの「話」のときの約束です。
それにしても、薄い。なんか、言葉をいじくってるだけです。中にあるのは「べき論」と「待望論(「差別がなくなる日が来てほしい」みたいな)」。ほとんどの子どもたちが、自分をとりまく現実に触れていない。
でもそれは仕方ないかもしれません。なぜなら、わたしたち教員が自分をとりまく現実からスタートする話をしていないからです。
「人権は大切」「差別はいけない」「考えないことは差別につながる」「無関係ではない」すべて正しい。でも、その一歩先のことを言わないと、伝わらない。なぜなら、そういった言葉が「非現実」だからです。だから、子どもたちも「非現実」の中で作文を書く。だから、現実が出てこない。
そんな中、宝石の原石のようにきらめく作文はあります。そんな作文の中に、その子が生きている現実を垣間見ます。その作文に救われます。そして、そんな作文をフィードバックしたいと思うのです。そのフィードバックは、きっと「次の作文」へとつながっていきます。
そんなふうにして、午後いっぱいを使って作文に付箋を貼りまくりました。
にしても疲れた…。
多様性を身につける日まで
朝起きて「通ったのかな」とネットを見たら、どうやら夜を徹しての攻防が続いているようです。でも、6時40分から本会議再開。ここで採決をするとか。
まぁ衆参の多数が違う状況を「ねじれ」と言い、論議を深めるよりも「決められる政治」を求めてきた先に今の状況があるわけで、ナチスの時代もこうだったんだろうなぁと思いながらの出勤です。そして、職場に着いたら「通ったよ」とのメールが…。
今朝、いわゆる「共謀罪」が成立しました。それも、法務委員会での採決をすっとばして、中間報告という形で本会議に出して採決するという方法です。討論の時間も採決の時間も制限するという方法です。
ここに至る歴史を振り返ってみます。
現在の安倍政権は第2次です。その前の第1次政権のときに「教育基本法」を変えました。「教育基本法」は、いわば教育における憲法のようなものです。もともとは戦前の教育への反省から生まれたもので、「教育は国家権力から独立したものである」ということを謳っていました。しかし、第1次安倍政権によって、「国家が教育をする」というふうに変えられました。
その後、第2次安倍政権になり、「特定秘密保護法」ができました。これはプライバシー保護ではなく、「国家にとって都合の悪い秘密」つまりこれが「特定秘密」です。それを隠すことができるという法律です。そして、いわゆる「戦争法」ができました。これに基づいて自衛隊は南スーダンに行きました。その後「日報問題」もありましたね。
そして、次にできたのが「共謀罪」です。
これはなにかというと、昨日までは「犯罪行為」に対して処罰するという考え方でした。ところが、今日からは「するかもしれない」ということで処罰することができるようになったのです。「するかもしれない」とは誰か。そんなのはわかるはずがない。つまり、わたしも君たちも「するかもしれない」わけです。だから、監視しなくちゃならない。
例えばね。わたしたち教員は君たちを信じてます。だから、例えば授業中にスマホを触らないと思っている。でも、もしも触ったら、それに対して「反省文+スマホ預かり」をする。でも、今日からは違います。君たちは「触るかもしれない」と扱われるということです。つまり、教員が板書するために黒板を向いている最中に触るかもしれない。だから、それを監視しなきゃならない。どうするか。例えば教室の前にカメラをつけます。いや、前じゃないですね。後ろです。常に後ろから監視されている。そんな状態になるということです。そしてもうひとつ、こちらのほうがこわい。例えば、とてもなかよしだったふたりがケンカしたとします。その時、片方の人が「あいつを陥れよう」と考える。そして、例えば授業が終わったあとに「先生、あいつ、授業中スマホ触ってたで」とチクる。昨日までは、でも触っているところを見ないと「反省文」とはならなった。でも、今日からはそれだけでしょっぴけることになりました。つまり、他の人から監視されるということです。
こういう時代は過去ありました。それは「治安維持法」の時代でした。その頃罪のない人がたくさん捕まりました。そして、今日から再びそういう時代になったということです。
じゃ、なぜそんな社会をつくるのか。それは、戦争をするためです。じゃ、なぜ戦争をするのか。それはお金が儲かるからです。なぜなら、例えば爆弾や銃弾は消費されるだけの存在だからです。爆弾一発でうん百万。一秒間に何十発撃てるマシンガンで10秒撃ったらうん十万が消費されます。すると儲る。だれが?それは軍需産業です。そして、それを売る人です。そして、そこに関与する国家です。私たちじゃない。だから、そういう人は戦争がしたい。
戦争なんて正義でもなんでもないです。金儲けです。現に、世界中の国々が不況になるたびに戦争をしてきました。そしていまの日本もそうだということです。
だからね。こんな沈みかかった国なんて、さっさと出てください。世界は広いです。そんな世界を見てください。
今の日本は多様性を排除しています。そんな国に未来はありません。例えば錦織選手。あの人は日本から出てアメリカに渡りました。なぜか。それは日本では強くなれないからです。単一な人ばかりのところでは強くなれない。さまざまな民族・国籍・価値観・人種がいるところで、互いに競い合い・学び合うなかで成長するのです。逆にそれがないところは滅びていきます。
今の日本は大学の研究費を出さない。じゃどうなるか。優秀な頭脳は出ていきます。こないだノーベル賞を受賞した科学者は、日本を出てアメリカで研究し、アメリカの市民権をとった人です。あの人がノーベル賞をとったとき「日本人が」って言ってたけどウソですね。
つまりそういうことです。みんな海外に行きます。だから、君たちも賢くなって海外に行って、君たちの能力を発揮してください。
わたしはこの国に残ります。そして、この社会をそれでもなんとかしたい。そして、もしもこの国が多様性を身につけたら、ぜひ帰ってきてください。そして、世界で身につけた能力をこの国で発揮してください。
あぁ、長くなってしまった。じゃ、こないだの宿題、あてますね…。
特番、やめぇ!
今日は明日の振替の授業を一発こなして、あとは今週と来週の人権学習の資料なんかをひたすら印刷です。
で、あっという間に昼になって、出張です。午後の出張では、かなり白熱した論議もあったり。てことで、電車に間に合うギリギリの時間だったので、あわてて出張先を飛び出して、電車に飛び乗って、うまく接骨医に間に合いました。接骨医では声にならない悲鳴を上げたり(笑)。
で、家に帰って、ビールを飲んで、テレビを見たのですが…。
「マツコの知らない世界」もない。「報道ステーション」もない。なんなんこれ。特番だのDXだの。レギュラー番組が少なすぎ。「報道ステーション」にいたっては、このものすごく大切なの時にサッカー優先とはさっぱりわからない。
レギュラー=日常を大切にしないことは、たぶん劣化を招く。いや、劣化してるからこそ、日常を軽視してるのか。
なんしか、ひどい。
無力感
共謀罪反対運動が安保法制のときよりも盛り上がっていないという話が、与党議員からあがってきてるとか。
「お前が言うな!」
って話なんですが、運動が国会内の反対運動を後押しするとかいう話でした。
まぁ、わからんではない。
が、野党もだけど、ここまで国会というものをコケにされて、それでも声を上げない、与党を含めた国会議員全員が情けない。民主主義の根幹を放棄している。てか、職務放棄ですよ。
それが反対運動やってる、手当なんて出ないひとりひとりの市民に無力感を与えていて、それが今の状況をつくっている。
でも、みんな見ている。
たぶん、無力感の中で、当たり前の主張をしてもまったく話を聞こうとしないなら、「もりとかけ」で刑事的に追い込むのが、現実的な方策だと思ってる。まぁそれすら「知らぬ存ぜぬ」なんだけどね。
すべての国会議員さん。反対運動に責任をなすりつけずに、自らの職務をまっとうし、「逃げ勝ち」みたいな低いモラルを許さない社会を、とりあえず国会内につくれよ。