この間、阿K◯さんから「23日、あいてる?焼肉するよ」というメールがありました。どういうわけか、今日はあいてました。てことで、昼前に新快速の中で待ち合わせ。近況報告をしながら向かったのはこの映画の主人公さんのおうちです。
到着したのは1時過ぎ。まずはごあいさつ。とは言え、わたしは初対面です。ちょっとドキドキしていましたが、北出さんは意に介することもなく、ものすごくフレンドリーな感じで接してくださいました。なんか、家の敷地内に工房があるみたいで、中に入ると大きな太鼓があります。
そうか、太鼓の工房でしたか。なーんにも知らないので、とても新鮮です。それにしても、工房の主である北出弟さんの太鼓にかける情熱と知識はすごいです。話の中に柏葉さんが出てこられて、あぁ皮つながりだなぁと。てか、北出弟さん、江戸時代の年号とかをガンガン西暦に変換していかれます。どんだけ知識があるねんと。歴史がさっぱりわからないわたしは、ひたすら聞くばかりです。
やがてフィールドワークです。北出さん、むちゃくちゃ詳しいです。
まずは北出精肉店の敷地の説明からです。今は家もお店も新しくなっていますが、もともとは牛小屋だったんだとか。てことは、ここから屠場まで牛を曳いていかれたってことですね。
続いて保育園の話。もともとは地域の人々が「民」の力で運営していたけど、法律ができて「公営」になります。が、やがて法切れの中で、再び「民営」にもどされたんだとか。実は多くのムラでは法切れの後も行政に「保障」をさせてきました。もちろん、その選択肢は「公にする」という意味で、とても大切です。が、「自分たちの力で」という選択肢もある。そちらを選択することで「自由」が手に入ります。もちろんたいへんですけどね。
そして、屠場跡。
獣魂碑です。
なんでも1910年から2012年まで、100年間、ここで牛を割ってこられたんだとか。まぁ、1910年と言われると、まず「韓国併合」が出てくるのは、わたしのパターンではありますが。ここで屠場の話だけじゃなくて、このあたりのムラの歴史についての話があったり。
このあたり、岸和田城からすぐのところにあります。が、お城からのさまざまな文書は直接ここに来ずに、隣村に行ったんだとか。そこからこことか、隣の市にあるムラに文書が渡ったんだとか。畏怖と排除の微妙な関係を、なんとなく感じますね。
お次は、在日コリアンの集住地域。ここでふと疑問がわきました。
い「あれ?在日の人って施策の対象にならなかったんですか?」
北「ならなかった」
い「えー、たしか、大阪って属地でやってるから、ムラ中に住んでる在日も施策の対象になるんじゃないんですか?」
北「ここ、地区外やねん」
なるほど。道一本隔てて地区外か。なんか、八条通の光景を思い出します。が、ここの格差はもっとすごいです。なんでも、日東紡の建築とか潜水艦づくりとかでこのあたりに住むことになったんだとか。それにしても、10数戸の小さな集住地域ですが、完全に朝鮮人の空間です。例えば、今は崩壊しちゃってますが、豚小屋があります。
そして畑があります。マッコリをつくるマダンもあります。おそらく1950年代~1960年代はエネルギーがあふれる地域だったんだろうなぁ。
で、集住地域を後にして、ムラの中心街へ。道が広いです。施策で広げたのかと思ったら、空襲で150軒ぐらい焼けたからなんだとか。なんと。その横にある住宅、1990年代に建て替えたときに地盤調査したら、大量の動物の骨が出てきたんだとか。さらに年代を調べると1400年代だったそうです。ということは、その頃からここで生き物をさばいていたってことですね。
そんな感じで、2時間弱のフィールドワークも終了。
続いて、炭をいこします。久しぶりにうちわを使っていこしました。最近は着火剤を使ってほったらかしですからね。でも、うまくいこったのでよかった。
炭火が安定するまではヤスムロコウイチさんのライブです。
声がいい。ハスキーボイスがブルースっぽいです。そして、ひとりで自分にツッコミを入れながら歌われるのは、明らかに関西です。A◯澤さんも、今回の仕掛け人のK崎さんも、ヤスムロさんの大ファンです。歌に集中しておられますが、わたしはなんとなくK本さん@青空財団とネギをアテにビールを飲みながら、しょーもない話。小一時間のライブの最後は警察官の乱入です。どうやらエレキの音が大きすぎたらしいです。カメラを向けたら制止されてしまいました。残念。
そして、お待ちかねの焼肉です。うまい。あまりにもうまい。柔らかくてジューシーです。と、すごい肉が!
ミスジだそうです。これはあきません。大切に育てましょう。レアでひとくち、ミディアムでひとくち。たれをつけてひとくち。幸せです。
あとは、ひたすら飲むだけです。いったい何の話をしていたか忘れるほどしょーもない話をしていたんでしょうね。ただ、気がつくと8時10分。やばい、24分の電車に乗らないと帰るのがめっちゃ遅くなります。N山さん@府立人研が駅まで送ってくださって、間一髪セーフ。あぁ、楽しい一日でした。
ヤバイ、明日は健康診断だ^^;;。
カテゴリー: フィールドワーク
岩倉精神医療散歩
今日は某人権教育研究会のフィールドワークです。このご時世なので、遠出はできず、できれば京都でということなので、どこに行こうかと。ウトロは来年度祈念資料館ができるから、その時ですね。朝鮮初級学校に行くのもいいかなとも思いましたが、前に中高級学校に行ったことがありますからね。思いっきりマニアックなところで「弓矢町フィールドワーク」というのもありますが、やはり心が惹かれるのが「岩倉」ですね。
発端は5年前の「洛北岩倉と精神医療」です。とにかくメチャクチャおもしろい講演でした。この講演を現地を歩きながら聞けたらすごいだろうなと。そしてもうひとつ、たぶん誰も知らない話でもあるだろうなと。
てことで、叡電岩倉駅に集合です。雨が降ってます。が、中村さん、歩く気でおられます。まずは駅の屋根の下で概論を話されます。そうこうするうちに雨もやんできたので出発。十王堂橋がスタート地点です。ちなみに、かつてはここが岩倉の入り口でした。そこから岩倉川に沿って「八丁街道」を北上していきます。
が、中村さん、あちらこちらと寄り道をされます。それをたしなめる「助手」の娘さん。おもしろいコンビです。ちなみにこのあたりは「高貴なお方」が里子にいたところなんだとか。
ひょいと駐車場の横にある小道で立ち止まって説明されたのが、「不審火」の現場です。フェンスのところに埋まってる踏み石がその名残なんだとか。おもしろい。
で、またまた狭い小道を縫いながら歩いて、石座神社へ。さらに北上してちょこちょこ歩くと、旧岩倉病院近くへ。現在は岩倉団地になってます。その手前に保養所がいくつかあります。ただ、今は「フツーの人」が住んでおられるので、あまり大きな声で案内ができないんだとか。なので、手前のところで解説されたあと、家を指さして、そのまま通過。
そうそう。このあたりに保養所で働いていた人の宿舎跡があります。ここ、実はランニングのコースで「この家、なんなんだろう」と思っていたところでした。疑問が解けますねぇ。
で、京都癲狂院跡へ。この公園がそうだったんだ。ちなみに毎年お正月に来ているところがそうだったんだ。そして奥にある「井戸」と「滝」の見学です。が、ここも病院の土地なので指さしだけ。
そんなこんなでフィールドワークが終わったのですが、3時間近くウロウロして、その間ずっとカメラをまわしてたので、さすがに疲れました。
とにかく帰ろう。
帰ったら、恒例のzoom会議。疲れた…。
島根のおさんぽ
朝、目が覚めると8時前。よく寝ました。が、8時半からzoomのテスト接続を頼まれてるので急がなきゃ。
リモートの普及具合って、地域差がすごいです。大阪はやはり進んでます。そりゃそうです。リモートやらなきゃならない事態が1年以上続いてますからね。それに対して、最近「やばい!」ってなったところはまだまだ普及していません。なので、お座敷が中止になったり、リモートになってもパタパタしたりします。
あと、いろいろバラバラなのもよくないですね。zoom・webex・teamsですか。学校現場はteamsが多い印象があります。たぶん安い。でも、あまり信用ならんかなぁ。やはりzoomがいい気がします。まぁ、他のはあまり使ってないからわかりませんがね。
てことで、8時半から短時間接続して「当日よろしくおねがいします」で終了。
で、太田明夫さんと合流。今日は島根中部のおさんぽです。
島根県のムラは少数点在型と言われます。そう言えば、かつて人権学習でつかっていた「ドキュメント99『架からぬ橋』~部落差別は今~」にも、山陰本線で隔絶された場所に一軒しかない家が出てきました。てことは、生業は皮革関係ではないんでしょうね。あと、運動団体も自民党系が強いとのこと。まぁただ、だからといって運動そのものが自民党ベッタリかというと、そういうものではないです。それは、立憲民主党系の運動団体が立憲民主党ベッタリかというと違うのと同じです。もうひとつのところはおいといて(笑)。
で、何が言いたいかというと、関西とはまったく違うということです。なので、とても興味があります。
ちなみに太田さん、ハンセン病の国賠訴訟にかかわっておられますが、それ以外にも部落差別の学習会を開催したり、在住外国人の識字教室をやったり、とにかくいろんなことをされています。そして、それぞれに詳しい。
てことで、まずはムラめぐり。島根の賤民はもともと警護役を担っていたとのことです。いわゆる鉢屋というのですね。そういや「忍たま乱太郎」にも鉢屋が出てきます。ただ、なかなか詳しいことはわかっていないとのことです。検索するとこんなのがありますね。
ちなみに、事業を受けているとのことですが、いわゆる改良住宅がなくて、関西とはまったく風景が違います。てか、道が狭いし。
そんなこんなで、あちこち行って、ここからは石見銀山がらみのおさんぽです。
鞆の浦。
鞆の浦といえば岡山にもありますね。朝鮮通信使で有名かな。こちらは石見銀山にいろんな物資を持っていくための荷揚げの港だったんだとか。それにしても、浜が切れてトンネルを出たところにこんなものがあるとは。
ここからいよいよ石見銀山です。が、銀山そのものにはあまり興味を示さないわたし。それでもとりあえず模型だけは確認しましょう。
なるほど。こうなってるのね。
てことで、少しさんぽ。あり?あれはなんなんだ?
太田さんもわからないとのことでした。坑道の入口なのか、はたまたなにかを祀ってあるのか。両方ともありえるからなぁ。
で、大森小学校まで歩いてみました。なんか、いいなぁ。
ここから三瓶の方に向かいます。途中「女性差別」のスポットへ。なんでもトンネル工事のときに近くの中学生が見学に行ったんだけど、女の子は立入禁止と言われたらしいです。なるほどね。鉱山も同じことでしょうね。
こちらは、途中で立ち寄ったお墓。
なんでも「合祀」してあるんだとか。もちろん無縁仏もあるんだけど、実は差別戒名も含まれてるらしいです。
ここで大田市を離脱して、出雲市へ。隣保館に寄ったら、昨日のお座敷に参加されてたとのことで、メッチャ驚かれました。いや、出雲から大田まで来られたって、こちらがビックリしますよ。ここで「きつね持ち」の話が出てきたり。そういや、どこかで聞いたことがあるな。で、しばし昨日のことにまつわって話をして、隣保館をおいとま。
昼ごはんは、せっかくなのでおそばが食べたいなと。ただ、時間が時間なのでほとんどあいてなくて、最後にたどりついたのは「かねや」です。
かまあげそば。
あったかいおそばが染み渡ります。おいしいわ。
割子そば。
うまい!このそば粉感がいいですね。何もつけなくてもおいしい。
最後にそば湯を頼んだけど、これもつゆを入れなくてもおいしい。壁に瀬古とか大迫とか大瀧秀治のサインがありました。
で、駅まで送ってもらってお土産買って、おさんぽ終了です。太田さん、ほんとにありがとうございました。
あとは「やくも」→「みずほ」→「ひかり」で帰ってきました。さすがに疲れたな。でも、充実したおさんぽでした。
まぁここには書ききれないこともいっぱいあるわけですが、それもまた島根。
アウティングとかリベンジとか
朝、職場に行くと、被曝日であることが判明。めんどくさいな。てか、13時って出張に出るつもりだった時間やん。ヤバイな。
とりま、今日行くつもりの朝田善之助記念館に電話。
「あの、この間そちらに電話したのですが、今日、理事の方が来られると聞いたのでうかがいたいのですが」
すると返事は
「まだ理事の方が来られてないので、のちほど電話させていただきます」
とのこと。とりま授業に行って帰ってきたところに電話です。
「はじめまして。いつきと申します」
と、返事は
「理事の竹口です」
「竹口さん!」
一気に緊張感がほどけました。
「あの、今日、行きたいんですけど」「おいでおいで」
ということで、残りの授業をこなして行くことになりました。なにせ、午後の授業を午前に振り替えたので、ここでダメだったらややこしいです。
で、出発前に被曝です。
受付に行くと、すでにひとりおられます。ウダウダ話をしながら待っていて、やがて受付開始。前の人を見ると、受付票の性別欄に○をされてません。と、受付の人、「○してください」とか言ってます。めんどくさいな。この歳でこういうめんどくささかよ。まぁでも、このめんどくささは、書類上の税別表記が変わっても変わらんだろうな(笑)。
で、わたしの番。
「えーと、ここに○を」
めんどくささがマックスになったところで
「あぁ」
と言われて、○が免除になりました。おかしいな。
で、受付名簿を見ると、わたしの名前の横に鉛筆でチェックがしてあります。なるほど、配慮対象なのね。でも、これはアウティングだな。で、性別欄が無印の受付票は放射線技師のところにも行くので、これまたバレるわけだな。
別の意味でめんどくささがマックスです。
てか、そもそもこの性別欄はいるのか?最近、メッチャ多いんですよね。だって、性別によって肺の数が違うとかないですやん。ちなみに、被曝前の着替えのために必要とかいうことがあったとしたら、互いが互いの性別を「知ってる」職場においては、それぞれが判断するから必要ないんですよね。
まぁ急ぐからこれは保留にして、出張です。
てことで、朝田善之助記念館に到着。せっかくなので記念写真です。
で、竹口さんと久しぶりにご対面。
前に講演を聞いたけど、あの内容は、竹口さんの膨大な知識や経験のほんの一端ってことがよくわかりました。ちなみに今回は研修会の講師のことで相談に行ったのですが、考えてみると、講演する人のところに相談に行くってすごく失礼です。でも、そんなことはおかまいなしです。
そういう人柄もさることながら、ほんとにすごいですね。理論はもちろんのこと、経験もすごい。その両者があることが、それぞれをパワーアップさせてます。
とにかくいろんな人のことを教えてもらって、すごい収穫がありました。
ついでに記念館の中を案内してもらいました。たぶん非公開の資料室なんかも見せてもらって、最後に再現された朝田善之助の部屋の前でしばし話。
「この風景、懐かしいですか?」
「そりゃ懐かしいよ!」
なんでも、オルグとか街宣とかやったら、みんなここに集まって勉強したんだとか。まさに「朝田学校」というヤツですね。
さまざまな評価はあるにせよ、とにかく知らなきゃならんなということをヒシヒシと感じたひとときでした。
最後に連絡先を交換。
「また「出てこいや」って誘ってくださいよ」
「そやな」
ということで、おいとま。
今日来てよかったな。
あっちに座りたかった
今日は午前は歯医者の日です。こないだ詰物がとれて、やっとです。
とれた詰物を歯医者さんに渡したんだけど
「あれ?おかしいな。どう見てもこうだよな」
ってやってはります。つまりうまく入らないと。
「虫歯もあるし、つくりなおしますね」
ということで、速やかに麻酔を打たれます。うまいわ。はじめにチクリとしただけです。でも、身体に力が入るのは条件反射ですね。
あとは削りまくって型をとって仮詰めして終了。来週もっかい来たらいいってことかな。
ここから移動開始です。目指すは京都府最南端の町。今日はここのガッコで某人権教育研究会の会議です。ただ、楽しみなのは、会議の途中でDARCの見学があることです。
てことで、30分ほど会議をやって、山の下にある木津川ダルクへ。何回か前を通ったことはあるけど、中に入るのはもちろんはじめてです。
中に入って、スタッフの方に
「あの、この間龍谷大学でえんたくに…」
と自己紹介したら
「あー」
とわかってもらえたのはうれしかったです。
部屋に入ると、参加者の皆さんがミーティングをすべく待ってくださっていました。
わたしたちは机から少し離れたところにあるソファで見学です。
やがてミーティングがはじまりました。まずはダルクのパンフレットみたいなのの読みあわせ。そして12ステップです。
そこからひとりひとりが語りはじめられます。まずは
「〇〇」
とアノニマスネームを言うと
「〇〇!」
と返されるのを見て、『アル中病棟』で見たこと、ほんとにやってるんだと再認識したり。
なんか、依存系の人の話を聞いていつも思うのは「さびしい人生でした」って、みなさん口をそろえて言われるんですよね。加藤さんも言っておられたな。
これ、逆に言うと、ダルクと出会って「さびしい人生から脱出した」ってことになるのかな。仲間と出会うって、そういうことなのかな。薬物をやることを通して人とのつながりがどこかで切れる。依存症の回復って、そういうつながりの回復でもあるんだろうな。そしてそれは、たぶん依存症の人だけじゃなくて、例えばトランスの子どもたちや在日外国人の子どもたちも同じなんだろな。もちろん違うところもいっぱいあるんだろうけどね。でも、例えばとーますの話とか読むと、やはり、つながりの回復なんだなって気がします。
ミーティングのあとは質問タイム。わたしもマーシーのことを聞いてみたり。そうか、マーシー、捕まる直前は日本ダルクに行かなくなってたんだ。しんどいな。
壁に貼ってある紙を、許可をとってパチリ。
拡大!
こちらも!
なんか、ココルームの天井を思い出しました。
帰る前に
「みなさんの話を聞きながら、実はわたしもこっちに座りたいなと思ってました」
とか言ってみたり。もちろん「言いっぱなし、聞きっぱなし」ではなく「ツッコミあり」ではあるけど、わたしが日常的にやってることでもあるし、依存症の回復者の友だちもいるしね。
てことで、木津川ダルクをおいとまして、学校に帰って会議再開。まずは感想の交流です。みなさん、「行ってよかった」と言っておられました。そうなんですよね。会わなきゃわからない。なんでも、木津川ダルクができた時に、学校の中に「心配」する声があったんだとか。たしかに幻聴さんとともに生きてる人もいるかもしれない。でも、そういう人がいないことになってるこの社会で、幻聴さんとともに生きる人と日常生活で出会えるこの学校の子らは、幸せなんですよ。
そんなことを話して、あとは会議をさっくりやって、5時前に終了。
ここからまたまた移動開始です。向かうは大阪駅。ここでKうさんと合流して燃料補給。
と、Hりさんも来られたり。
そんなこんなで、恒例の会議です。今日はけっこうあっさりめに終わって、恒例の飲み会。こちらもわたしはさっくりあがりましょう。
それでも帰ると0時前。さぁおべんと詰めて、さっさと寝なくちゃ。
サルベージしたら見つけた
今年は長田
今日~明日、日教組の近畿・中国・四国ブロックの女性部長会議があります。ちなみに、去年は「山登りの翌日」に山口に行き、おととしは京都で迎え撃ち、その前の年は小豆島に行きました。
この女性部長会議は必ずフィールドワークがセットであります。今年は鷹取に行くんだとか。ここ、かつてきたことがあります。サルベージした資料によると、1996年5月2日に来ていたみたいです。
てことで、とりあえず元町に行って昼ごはん。
八宝菜、とろみがないけどうまい!
で、集合場所へ。ところが1時間早く着いてしまいました。まぁええか。ゲンコでもやっつけましょう。
やがて集合時間が来たので受付をすませて、そこから鷹取へ移動開始です。降り立った鷹取駅、なんとなく25年ほど前に来た時の感じが残っています。なんでも、このあたり、全焼区域と全壊区域がテレコになっているみたいです。そんななか、ところどころに昔のままの建物があったりします。
これは、当時ボランティアの人が地元の人を元気づけようと書いたペイント。
このレンガはお墓の塀ですが、昔のものと新しいものが混在しています。
大国公園。
そう言えば、遠足の時ペーパードームに行くのを希望しなかった子らに「ここで遊んどけ」とか言ったよなぁ。ここに震災当時の電灯が残っています。
旧鷹取商店街。今はまったく変わっています。
そして、鷹取教会へ。あれ?礼拝堂、こんな感じだったけ…。
でも、やはり紙の芯を使って建物が建っています。
チョゴリを着たマリア像。
ベトナムの服を着たマリア像。
和服のマリア像。
あ!昔のペーパードームの写真が!これですこれです。
奇跡のキリスト像。
焼け残ったのが奇跡なわけではなく、ここに「人のつながり」ができたことが奇跡なんだとか。
あと、FMYYの中を見学して、金秋子さんの話がはじまります。
とにかくメッチャたくさんのことをしておられます。でも、元はというと、「ボー」とした大学生だったんだとか。それが、地域に住むさまざまな人と震災を通して出会って、そこから今の活動に入ってこられたんだとか。その経験から出てくる言葉はおもしろいです。
例えば、長田は元々ケミカルシューズをつくっていた街ですが、町全体がひとつの工場のようだったんだとか。なるほどな。そうやることによって、街の中をお金がまわる。すると、町全体が豊かになる。すると、街の中に人々が行き交うようになる。
あと、印象的だったのが、最初に話された「街の中にある多文化を発信する」ということかな。つまり、外から持ってくるんじゃなくて、もともとある声を発信する。そうなんですよね。それは学校も同じです。
とにかく、あまりにも盛りだくさんなので、覚えきれません。そうそう、「1.17KOBEに灯りをinながた-今、伝えたいこと-」は見なくちゃ。
そんな感じで話を聞き終えて、外に出るとすでに暗いです。なんでも予定よりも1時間くらいたくさん話してもらえたんだとか。でも、このあとのフィールドワークがキャンセルになってしまいました。
阪神高速。
なるほど、これはコケるわな。
そして、鉄人28号。
「よっるーのまっちーにがおー♪」
ということで、今年のフィールドワークはおしまいです。
消えゆく街
朝起きると8時前。よしよし。睡眠時間は7時間。もっとも、どうやら2階に上がって横になった瞬間に倒れたようで、4時に目が覚めたら電気がつきっぱなし、6時に目が覚めたらスマホの充電してなかった。そんな感じだったので、細切れの7時間ではありますが…。
朝ごはんは、もずくのスープと小さなチーズトースト。ひとつはゴーヤとじゃこ。もうひとつはニガナとじゃこ。おいしい…。
しばしゆんたくして、2階に上がってブログの更新でもしましょうか。
その後、いつも行く「大城ストアー」に行って、いつも買うスーチカをゲット。ついでに、「ゆしどうふ、送れますか?」と聞くと「送れるんじゃないかなぁ」ということだったので、ゲット。さらに、卵ポークもゲット。いい買い物ができました。
帰り道、ふと思いついて、あたりをグルグル。
実は、今回来て一番おどろいたのは、ブルドーザーが入って建物の取り壊しがはじまっていたことでした。なんでも、立ち退きが決まって、ここに公共施設ができるんだとか。まぁ、もちろん時代の流れもあるし、今住んでる人たちの気持ちやニーズもあるだろうし、しかたないっちゃしかたないんですが、やはりショックです。というか、「なくしてええんか?」「なかったことにするのか?」って気持ちも湧いてきます。
「あと2回来たい」と思った「ryuukyu.com」もなくなるんですね。そう思うと、つい写真を撮りたくなるってものです。
「PIN UP」もなくなるんですね。なので、やっぱり写真。
タクシー屋さんもなくなるんだろうなぁ。
そして、この街並みも。
かつてここに人が座ってたのかな。
組合の証。
講習ってあったんだ。
きっと来年来た時は、この街並みはないんだろうな…。
そんなことを思いながら野入さんのお家に帰って、しばらくしたらYーいちが来ました。
途中、「平敷兼七ギャラリー」に寄りました。ここなら「あの街並み」を見ることができます。Yーいちにもそのことを伝えたいな。と思ったんだけど、去年来たことを話したら、なぜか盛り上がって、記念写真をとってもらいました^^;。
そして、那覇の食堂へ。「フーチャンプルー」をふたりでわけわけ。
そして那覇空港へ。
さてと。しばしのお別れですね。
大宜味村への遠足
朝6時に目が覚めました。7時からスタンディングのはずですが、まったく動きがありません。どうしたもんだろ。いちおう「スタンディング→琉大まで送ってもらう」って話だったけど、これはあぶないな。
てことで、7時半くらいに置き手紙だけして、こっそりと「そいそいハウス」を脱出しました。
そこからバス→タクシーを使って琉大へ。いろいろ探して、教室に潜り込めました。
てことで、「基礎演習」です。去年も参加させでもらいましたが、ほんとにおもしろいです。学生の発表は、やはり未熟です。でも、野入さんの仕掛けのおかげで質問が出ます。時として「それ、質問と違ごて意見やろ」みたいなのも出ます。それへの返しがおもしろい。
そして、野入さんからの臓腑をえぐるような質問。「わかりません」と打ちひしがれる学生さん。こうやって鍛えてもらえることって、すごく幸せなんだよな。
最後にコメントを求められたので、わたしからはふたつ。
ひとつは「発表者としての皆さんが知っておられることを、聞いている人が知っているとは限らないので、基礎情報は伝えてね」。もうひとつは「調べ学習から研究に移行してね」。
まぁ1年生だからしかたないかもしれないけど、逆になまじ小中高で「調べ学習」をやってきた子らだから、そこから抜け出られないのかなぁ。
「基礎演習」が終わったところで、恒例のフィールドワークです。車を出してくださるのはT村さん。3人で楽しくドライブです。車中で
「プレゼンの雛形みたいなのは出されないのですか?」
と聞くと
「出しちゃうとみんな同じ型になってしまうから、あえて出さない」
とのことでした。つまり、自分で調べろってことですね。
で、車は一昨日いた名護を通って、愛楽園を通って、さらに北上します。到着したのは「笑味の店」です。
大宜味村は長寿の村として知られていて、その長寿を支える食をだしてくださるのがこのお店です。お店で出す食材は、ほとんどが自分の畑でとれた野菜です。そのためは、火・水・木が定休日。おそらく畑仕事をしたり、仕込みをしたりしておられるのかな。
お店の裏は、ひたすら山です。山原ですね。
わたしがお願いしたのは「くふぁあじゅぅしぃランチ」です。
野入さんとT村さんは「まかちぃくみそうれランチ」。
うーん、失敗したかな。でも、たぶん多すぎるな。と思ったら、野入さんがタケノコの料理を、T村さんがテビチをわけてくださいました。ほんとにすみません。
なんかもう、どこまでも身体に優しいんですが、あまりにもおいしいです。くふぁあじゅぅしぃ」にシークヮーサーをしぼると、これがまたおいしい。食べることで身体が元気づくってよくわかります。こうやって、少量の野菜を、その代わり多品種を食べることが身体にいいんですね。
食後は散歩です。てか、畑への案内の地図が笑えます。
「海」「笑味の店」「畑」「山」しかありません。これが大宜味村なんですね。つまり、耕作地がほとんどない。それが大宜味村をつくっていくんですね。
続いて向かったのは「塩屋」です。ここは、世界ではじめて牡蠣の養殖をおこなったところです。ちなみに、牡蠣の養殖がはじめての養殖なので、つまり世界ではじめて「海を使って育てる」ことをしたところです。
ここから石巻なんかに牡蠣の養殖が引き継がれていきました。
それにしても、現在のバラエティはひたすら「日本、すごい!」ってやってますが、それは当然批判すべきことなんですが、なぜか塩屋が紹介されることはないです。それはいったいなぜなんだろうと思います。
そんなことを考えていたのですが、ふと山の方からひたすら「カンカンカン」という鳴き声が聞こえてきます。「あれなんですか?」と野入さんに聞くと「セミです」とのこと。へー、そういう鳴き声なんだ。と同時にもうひとつ気がついたのが、「蝉の鳴き声が聞こえる」という事実です。それをかき消す騒音がない。つまり、ヘリが飛んでない。これが北部なんですね。
お次に向かったのが、「大宜味村役場旧庁舎」です。
これが沖縄初のコンクリ住宅です。メッチャおしゃれです。
これをつくったのが「大宜味大工」たちです。
大宜味村は、とにかく耕作地がない。そこでどうしたか。男性は学力の高い子は医者。そうでなければ大工。女性は芭蕉布です。大宜味大工はすごく高い技術を持っていて、例えば那覇に行って役場の建築関係の仕事なんかも奪っていったとか。那覇大工と争いになることはもちろんありますが、ボコボコにやられても
「あの病院の前でやってくれ。あそこには同郷の医者がいて、助けてもらえるから」
とか言って那覇大工をビビらしていたとか。でも、そのネットワーク力はすごいです。
で、この旧大宜味村役場は、その大宜味大工の総力を結集してつくったものらしいです。ほんとにおしゃれだし、かわいい。
役場の前には、「琉球政府」の溝蓋が!
ガジュマルの木にはブナガヤーが!若干こわい^^;;
隣には慰霊碑があります。
憲法九条をメッチャ押してます。建てられたのは2017年。大宜味村の人々の気合いを感じます。
役場前の碑。
「人材を以って資源と為す」とあります。これが大宜味村なんですね。そういや、かつて日本もこうだったよな。でも、今は人材を使い捨てにする国になってしまった気がします。もう終わってるな。
続いて向かったのは、道の駅。パイナップルは露地物がおいしいんだそうです。
てか、露地物のパイナップルとか考えられません。実は、大宜味村は石垣にたくさんの人が移民に行っていて、台湾から伝わったパイナップルが、その移民の人たちを経由して大宜味村に入ってきたと言うことです。なので、パイナップルは当たり前にそのへんにあるっていうことです。
お次は「田嘉里酒造」です。ここは沖縄最北端の酒造ということです。予約をすれば蔵を見学させていただけるとのことで、T村さんが予約を入れて下さっていました。
ここがおもしろい!案内してくださったのは、若い女性。メッチャ詳しい。
使うお米はこれ。
思わず「インディカ米!」と口走ってしまいました。泡盛はインディカ米を使うんですね。れを山原の水で洗って、黒糀の菌をつける。で、放置して発酵させます。で、蔵の壁や天井が真っ黒です。
これ、どう考えても黒糀の菌とか酵母が住んでます。『もやしもん』の世界です。
で、発酵しはじめたお米をタンクに移して加水します。ここでアルコール発酵がはじまります。
タンクのあたりに行くと、ものすごく香ばしい酵母の香りがぷんとしてきます。それにしても、この香り、しょっちゅう嗅いでるなと思ったのですが、うちの子どもがパンをつくったりする時の香りです。まぁそりゃそうだなと。
お次は蒸留工程です。
最初に出てくるアルコールは、70度くらいなんだとか。その後出てくる水で少しずつ度数を下げていくらしいです。これを寝かせます。
他の酒造メーカーは4ヶ月ほど寝かせて出荷するところもあるらしいですが、ここは最低1年は寝かせるんだとか。そして、奥には古酒のタンクがあります。
そして瓶詰め工程を経て、ラベルが貼られて製品になります。
ということで、試飲タイムo(^^)o
左から20度・25度・30度・30度の3年古酒・40度の5年古酒・44度の5年古酒・10年古酒・17年古酒です。左から順に呑んでいくと、ほんとうに「差」がよくわかります。なにより、30度から30度の3年古酒になったとたんに明らかに味が変わりました。ここからはどんどん味が濃くなり、舌触りがまろやかになっていきます。おもしろい!
と、野入さんが石垣島に行った時の話をしたとたん、社長さんが出てこられました。そこからは、延々と大宜味村の歴史と石垣への移民の話です。なんか、すごい。
野入さん曰く「石垣に移民した人が大宜味の何が恋しいかというと、「水」って答えたそうです」。
車長さん「あー、水はね。向こうからひいていたんだよ」
みたいな。さらに社長さん曰く「「水」っていうのはね、たぶん泡盛のことだ」
マジか(笑)。
さっき書いたパイナップル畑の話も出てきます。なんでも、海の際から山のてっぺんまでパイナップルが植わっていたとか。子どももパイナップルの入ったカゴを運ばなきゃならなくて、頭のてっぺんにカゴの跡がついたそうな。
ところが、そのうちパイナップルの相場が暴落したらさっさとパイナップル畑をやめてしまう。さらにキューバ危機で(笑)砂糖の価格が高騰すると、すぐにサトウキビの栽培をはじめて、またまた海の際から山のてっぺんまでサトウキビを植えたんだとか。
社「大宜味の人は飽きっぽいからねー」
いやいや^^;;。
ちょうどこのころ社長さんは高校生で
「高校が終わったら、サトウキビをトラックに積んだよ。懸垂みたいな感じで投げ上げて、トラックいっぱいで50セントかな」
セント!そりゃそうだ。キューバ危機は返還前です。にしても、こんな話がシームレスに出てくるのがすごいです。
そんなこんなで、結局30分ほど、すごく濃いぃ話を聞かせてもらって、社長さんは退社です。で、「今の方が社長さん?」という野入さんの質問に対して、説明してくださった方が
「はい、そうです。わたしの父です。ショートリリーフなんです」
てことは、この方が次期社長!すごい!
なんでも、ここの酒造、大宜味の人々が共同出資してつくったらしいです。で、お酒ができたらみんなで呑んだと。すると、売る分がなくなったと。これではダメじゃんということで、酒蔵の建て直しをはかって、今の社長さんになったとか。なんかもう、大宜味の人はフリーダムすぎます。そんなことで、ほんとうに地元の人から愛されている酒蔵なので、ここの泡盛は80%は大宜味で消費され、那覇や首里に行くのは20%くらい。県外にはほとんど出まわっていないんだとか。
なので、30度の3年古酒を買って、ついでに次期社長さんが着ておられたポロシャツも買ってしまいました。で、最後に記念写真をパチリ。
次に向かったのは「芭蕉布会館」。
芭蕉布はバナナに似た糸芭蕉の茎の繊維を糸にして織ったものです。原料となる糸芭蕉。
この糸をつくるのがものすごくたいへんなんだとか。今、この糸をつくれる人は大宜味でもひとりしかおられなくて、その方は人間国宝らしいです。
記念館に着いて、作業場の2階に向かう階段で、向こうから白い長靴をぶら下げて降りてこられた98歳のおばあは、なんと人間国宝!しばし作業を見て、下に降りて製品を見て、紹介ビデオを見て、外に出ると、人間国宝が水をまいておられました(笑)。どんだけカジュアルな人間国宝やねん。
ちなみに、大宜味のエイサーは、沖縄県内でも数少ない女性のエイサーだとか。今度の日曜日、2年に1回の「喜如嘉まつり」があって、その時に見られるんだとか。うーん、それを見たら帰れない。残念!
今日の遠足最後のポイントは「共同売店」です。沖縄北部には共同売店があって、一度のぞいてみたいと思っていました。
共同売店の歴史は、日本が沖縄を植民地化した当時、本土から商人がやってきて、山原の木でウチナーの人がつくった炭をメッチャ安く買いたたいて、舟で那覇へ持っていき、帰りは舟で生活品を持ってきて高値で売るという、あこぎな商売をしていたところからはじまります。でも、生活品は買わなきゃしかたないから、やむを得ず買う。
ところが、大宜味の人たちは、自分たちで舟をつくります。さすがは大宜味大工の地です。そして、自分たちで炭を運んで売り、地元の人々から必要な生活用品を聞いて、それを仕入れて売るための共同売店を、自分たちでつくったんだとか。しかも、その共同売店は、本土の人がつくった共同売店の隣につくる。そうやって、本土の人の共同売店を駆逐していった。ほとんど、共産制です。
現在は、栃木から移住してこられたヤチムンをつくっておられる芸術家の方が共同売店を運営しておられるとのことです。ここでなにかを買おうかと思ったけど、考えてみたら地元の人の要望で仕入れてきたものなので、あまり買わない方がいいですね。なので、炭酸水を買うことにしました。で、裏にあったベンチでしばしゆんたく。ひと息ついたところで、さぁ帰りましょう。
野入さんの家に帰って、おいしい手料理をいただきます。
いつもびっくりしますが、チャチャチャとつくられます。そしてヘルシーでおいしい!
と、間もなく、Hでぼん登場。久しぶりです。てことで、またまたゆんたくしていると、Hでぼんが突然「いつきさん、マッサージしなくていいですか?」と、ありがたいお言葉を言ってくださいました。
てことで、少し脚を揉んでもらうなど。で、12時くらいにHでぼんは帰って、野入さんと1時くらいまで話をして、長い長い一日が終わりました。
あぁ、刺激的な一日だった。
今回の研修・国立療養所沖縄愛楽園
朝、7時45分にスタートだとか。早い(;_;)。
で、とりあえず名桜大学へ。カフェでモーニングです。食べ過ぎた(;_;)。
しばしメールへのお返事をした後、1回生のポスター発表の見学です。LGBT関連がふたつあって、関心の高さを感じました。が、参考文献がネットなのがさびしいなぁ。まぁ、しかたないか。
それ以外に、名護市営市場の発表もありましたが、市場のはじまりが内地の人のお店だったというのを知ってモヤっとしたり。あと、ハンセン病のポスターがあって、「正しい知識を持つことが排除せずにすむことにつながる」みたいなことが書いてあったので、これまたモヤっとしたり。なので、思わず「隔離政策を支えたのは一般の人々の善意なんだよ」ってツッコミを入れてしまいました。
てことで、ポスターセッションが終わったら、せっかくなので「愛楽園」に行くことにしました。なんでも名桜大学にはハンセン病を専門にしてる伊波せんせいって方がおられるとか。その方に紹介してもらおうと思ったら
「突然行っても大丈夫ですよ」
とのこと。なので、Yーいちの車で愛楽園へ。
事務所で「あのー」というと、「交流館に展示資料がある」とのこと。交流館に行くと、すんごい展示がありました。数々の詳細な証言や、写真など。そして米軍が撮影した動画とか。頭がクラクラします。
で、伊波せんせいに「園内の案内ってしてもらえるんですかねぇ」と尋ねると、「自治会に行けばやってもらえますよ」と。
「そんなん、飛び込みで行っていいんですか?」
「いいんじゃないですか」
どんなんやねん。というとこで、自治会へ。
「あのー、ここに来れば案内してもらえるって聞いたんですけど」
かなり怪訝な顔で見られながらも
「ちょっと待ってくださいね」
と奥に行かれて、別の人を連れてこられました。
「どこの案内をしてほしいんですか?」
「えーと、あのー」
「時間はどれくらいありますか」
「別に特には。せっかく京都から来たので」
と、驚きの発言が!
「もしかしたら、京都で、同和教育をしておられて、在日外国人教育もされてる高校の…」
「はいそうです。いつきです」
「あー、やっぱり!わたし神奈川で教員やってた時に、京都の全国在日外国人生徒交流会に生徒を連れて行きました」
「あー!」
1993年のことですね。Sずきさんという方でした。
するとさっきまで怪訝な顔をされていた方が、満面の笑みになって
「よかったねー」
と(笑)。
てことで、Sずきさんが案内してくださることになりました。ちなみに、Sずきさんのことは、伊波せんせいが「ハンセン病回復者の戸籍のことで博論書いてる人がいる」って聞いてたんですが、まさかそのSずきさんが知り合いだとはわかりませんでした。
てことで、最初に向かったのは小中学校の跡地です。
なんでも、他の療養所内にも小中学校はあるけど、それらはすべてどこかの学校の分校なんだとか。ところが、愛楽園では屋我地の小中学校の分校にすると、本校の人間も「らい病」と間違われるということで反対運動が起きたんだとか。そこで、当時の琉球政府は「じゃ、分校じゃない学校をつくる」ってことで、政府立の学校をつくったんだとか。そしてその英断をくだしたのが、屋良朝苗であると。サブイボ立ちました。
さらに中学校を卒業したら高校に行きたい。でも、高校は本土にしかない。当時の米軍統治下では、沖縄の中学校を卒業しても受験資格がない。そんな中、本土の高校に連絡をとって、パスポートをとって。ハンセン病の人は船には乗れないけど、それをなんとか乗って、降りられないけどなんとか降りて、そうやって療養所に行って診察を受けて「ハンセン病認定」されることで高校に行く。「赤いマフラーしてる人に会え」という情報ひとつで、とにかく高校に行く。でも、愛楽園のカルテには「逃亡」としか書かれなかったとか。
ほんとにすざまじいなかを生きておられたんだなと。
次に行ったのは防空壕あと。
入り口は貝の堆積物があります。
これで手を切って、化膿して、指を落としてしまった人が多数だとか。さらに、奥には通路と無数の穴があいてます。この穴を掘るために、座った状態でツルハシを振るう。ツルハシの跡が生々しいです。
落ちたゴロタ石を手ですくって外へ放り出す。そういう作業の中で、脚を切断することになったり手を切断することになったりする。
防空壕のおかげで、空襲で死んだ人はひとりだけだったけど、防空壕のせいで手足を失った人がたくさんいたとのことです。
そして、出ました貞明皇后の石碑。
そして納骨堂です。
Sずきさんの話をよく聞くと、死者の話や死にゆく人の話がほとんどです。それが療養所の置かれた現実なんですね。
愛楽園のお墓は、療養所内部にふたつ、そとにふたつあるんだとか。ひとつはこの「平安之苑」で、もうひとつは聖公会の納骨堂です。
さらにカトリックの納骨堂が療養所にあります。カトリックの納骨堂ができた時「死んでまで療養所にいたくない」という人たちが、聖公会からカトリックに変わったとか。そこで聖公会も外に納骨堂をつくったんだとか。
愛楽園の納骨堂には子どものお骨もあります。ハンセン病の人たちへの断種や堕胎は知られてることですが、そういう処置を拒否して、あるいはかいくぐって子どもを産んだ方もおられたとか。でも、堕胎させられた方が圧倒的多数でした。小さな子どもを浜辺に埋めて、後でそのお骨を拾う。でも、お骨を見失うこともある。そんな時は骨の代わりに石を入れたりサンゴを入れたりしたんだとか。
納骨堂の隣には「名もなき子どもの碑」があります。
この碑をつくるにあたっても賛否両論あったんだとか。それを象徴するのが、除幕式での当事者の方の「複雑な思い」というスピーチです。ここに祀られた子は幸せだけど、断種・堕胎が強要されることで子どもが持てなかった人がたくさんいるんですよね。そういう歴史が「なかったことにされる」ことへの怒りみたいなものが、その根底にあります。
ちなみに、この納骨堂は3代目だとか。初代は空襲でやられ、2代目は粗悪な材料でつくったために老朽化が激しく、現在の3代目は入所者の皆さんがお金を出しあってつくられたんだとか。
そして、旧面会所。
かつてはこの面会所を境に、「有菌者」と「無菌者」の居住区がわかれてたとか。そしてその間には壁があったとか。その壁は、物理的には越えようと思えば越えられるんだけど、越えられない。そういうものだったらしいです。
ただ、愛楽園は「外部」に行きやすい。具体的には脱走しやすくて、案外脱走してる人が多かったみたいです。が、もちろん見つかったら、翌日は処罰される。だから、職員が怖かったとか。また、職員も愛楽園で働いていることは人に知られなくなかったんだとか。
なんかもう、幾重にも囲まれた社会なんだなと。
でも、現在はゲートボールの名護市長杯をやったり、外部との交流が進んでるとか。あるいは、どこの療養所でも課題になってる「最後のひとり」問題を、外部の人も入所できるようにすることで乗り越えていこうということも考えておられるとか。
なんか、崇仁みたいな感じですね。
ここから再び戦争の時の話です。
機銃掃射を受けた水タンク。
機銃掃射を受けて穴があいた塀。
沖縄って比謝川に米軍が上陸して、そこから南下していったから、読谷村以南で地上戦があって、それより北の被害はまた別種なのかなと思ってたけど、そういう世界じゃないですね。
ここに書ききれないことが、まだまだあるけど、約2時間のすんごいフィールドワークをしてもらいました。Sずきさん、ありがとうございます!って読んでないだろうけど(笑)。
帰りの車から見た橋。これが「こっち」と「向こう」をわけてたのかな。
で、そこから「水車そば」で遅めの昼ごはんを食べました。テビチ、うまい。
にんにく入りのコーレーグースうまい。
その後、今日お世話になるN入さんのお家へ。「おべんきょ成果」の報告をしたり、あれやこれやと話をしながら、手料理をごちそうになり、ぁゃιぃお酒を呑んでと。
さてと、今日は早めに寝ましょう。明日が本番だ。