一周まわる

ある分野のマイノリティとされる人をどう呼ぶかというのは、「呼ぶ人(当事者自身を含む)」の立ち位置でずいぶんと変わるような気がします。
例えば、トランス女性ひとつとっても「オカマ」「ヲカマ」「ニューハーフ」「女装者」「女装家」「GID」「性同一性障害者」「トランスジェンダー」などなど、さまざまな呼び方があります。で、知れば知るほど選択肢が増えるし、さらに「存在そのもの」を知ることで新たな選択肢をつくることができるようになる。また、当事者ではない人にとっては、知識の獲得によってポリティカルコレクトってヤツが出てきて、逆に選択肢に制限がかかる。でも、時としてその制限をあえてはずす人も出てくる。
なんでこんなことを考えたかというと、facebookで見たこの記事なんですね。
この記事そのものは「外国にルーツを持つ子どもたち」という呼称の是非を問うものです。
わたしは個人的には「よりフィットする言葉をどんどんつくればいい」と思ってます。例えば、在日にしても「在日韓国人」「在日韓国・朝鮮人」「在日韓国朝鮮人」「在日朝鮮人」「在日コリアン」「在日」のそれぞれに、その呼称がつくられた歴史や経緯、こめられた意味があります。で、それぞれの時代にフィットした言葉が、おそらくは「もっとも敏感な人」によってつくられ使われ、それを広めていこうという運動があったりする。で、さらにその言葉への当事者からの反応があったりして、言葉についての論議が起こる。そうしてその言葉への意味が深まっていく。わたしはそのことを、特に悪いとは思いません。
で、記事の中にあるこのマトリックスについて、なんか、とても興味深いものを感じました。

ここで「一般の人」と「当事者」が同じところに位置づいています。この「当事者」って誰のことだろうってことです。
たぶんこの記事の中の「当事者」は「一般の当事者(笑)」なんだろなと推測されます。というのは、記事の中で「現場にいる外国にルーツを持つ子どもたち」って書いてあるからです。
最初にも書いたように、たとえ当事者であっても、その人の立ち位置で呼称は変わる。その時に大切なのは「選択肢」なんですよね。で、何が問題かというと、実は「当事者」の中には「一般の当事者」と「一周まわってきた当事者」がいる。もう少し簡単に言うなら、「選択肢の少ない当事者」と「選択肢の多い当事者」がいる。で、このマトリックスの「当事者」はその両者が軸上の同じところにあるんです。で、これがおもしろい。
なぜなら、おそらくは「関係者が使用する呼び方」は、そこにポリティカルコレクトが含意されている。てことは、「当事者/一般の人」にはポリティカルコレクトがないってことなんですよね。しかも、「当事者」の中にはポリティカルコレクトがない人と、ポリティカルコレクトを知ったうえでアイデンティティポリティクスとして、あえてその言葉を選択している人間が混在している。
ちなみに、「当事者」の中にも「関係者」がいて、きっとその人は「当事者枠」には入らない。というか、人によっては「ポリティカルコレクトの番人」になる人もいたりする。でも、「脱ポリティカルコレクト」になった時、再び「当事者」になる(笑)。
おもしろい。

変化する

昨日のお座敷の記事がとある新聞に載ったことをfacebookで知ったのですが…。なんか、複雑な気持ちになりました。その記事はこれです。

もちろん記事にしてもらえるのはありがたいです。でも、わたしが一番伝えたかったことが、この記事では伝わらない。
わたしは「理解」なんて求めてないです。また「一番の話し相手」とは言ってないです。「一番最初の話し相手」とは言いましたけどね。
タイトルだけでも違います。
中身も、もちろんしんどい状況におかれている子どもの姿は伝えました。でも、それは交流会の必要性や、そもそもこういう学習会をするのはなぜかという前提としてでしかありません。で、それをどう分析するかって話なんです。で、わたしが一番伝えたかったのは「社会の枠組みが子どもたちをしんどくさせている。だから、社会の枠組みを変えなきゃならない」だったのです。でも、そこのところが見事に抜けている。
これ、何が困るかというと、ひとつはこの記事を読んだ人が「ああ、理解してあげなきゃならないかわいそうな子どもたちなんだ」っていうふうになってしまうこと。そしてもうひとつは、「いつきの主張はそういうことなんだ」って誤解されてしまうこと。
それからもうひとつ。記事の中に「性別転換手術を受けた経験を踏まえて」って書いてあるけど、わたしは自分のことはまったく話してない。それは、当事者性に依拠しないことが必要だと思っているからです。しかも、用語も間違ってるし。で、これを書かれてしまうと、まるでわたしがGID的な立ち位置で話したように思われてしまう。
とにかく、これほどまでに話の内容が変化するんだなと。なんか、伝言ゲームみたいだな…。

話のまわしかた

今日は夕方から元おべんきょ仲間と呑み。「どこか…」っ言われたので「うーん」と考えて、地球屋に行くことにしました。
てのはいいんですけど…。なんか、気になったのは、話題のまわし方でした。
例えば…。
「○○さんはどんな人が好きなの?」って話があるとします。それに対して、いろんな話題のまわし方があると思います。
パターンA「前につきあってた人はホニャララさんだったから、きっとホゲホゲな人かな?」
パターンB「例えば、ホゲホゲな人とホニャララな人だとどっちが好き?」
パターンC「あなたの感じを見ているときっとホゲホゲな人でしょう」
もちろん他にもいろんなパターンがあるだろうと思います。
で、わたしは基本的にはパターンBでいきたいなと思っています。なぜなら、相手にしゃべらせたい。たぶんパターンBのあとは「なぜそうなの?」って続きます。でも、教員にそういう人は少ないんじゃないかなぁ。教員に多いのはたぶんパターンC?
で、これ、対人関係とか教え方とか、あるいは「おべんきょ」の仕方とか、いろんなところに通じると思うんですよね。
まぁ、パターンBはめんどくさいです。だから、途中で終わってしまうかもしれない。でも、いろんな話が聞ける可能性があるから、やっぱりパターンBがいいなぁ…。

なんなんだ、これは!

夜、いつものように報道ステーションにチャンネルをあわせましたが…。
いったいなんなんだ、これは。ほんとにこの国の政治はどうなってるんだ。
「ちゃんと質問に答えてください」
「だから答えてるでしょう」
「答えてください」
「答えられないって答えてるでしょう」
みたいなやりとり。
子どものケンカというか、子どものケンカよりもひどいというか。
かと思うと、不倫報道。
「「倫」は「仲間」という意味なんですよ」
と、かつてFぁよんが教えてくれたけど、まさに「仲間にあらず」という「扱い」なんですね。ちなみに「倫理」は「仲間の理」かぁ。厳しいですね。
ベッキーの時も感じたけど、別にどーでもええやん。ゴシップやん。しかも、背景にあるのはモノガミー規範やん。まぁ、ノンモノガミーなのかどうか、そういうパートナーシップをとっていたのかどうかはわからないけどね。
なんかもう…(;_;)。

間隙をいかに縫うか

去年、ほんとに「あー、もっとやればよかった」と思うことがありました。それはひとことで言うなら「連携」ってヤツです。
実は、ここ10年、ほんとうに「連携」ってヤツがとてもしにくくなっています。原因のうちのひとつは「個人情報保護」ってヤツです。でも、この「保護」の範囲をどこで設定するかっていう「運用」の問題が、実はほんとうの原因なんじゃないかと思います。
例えば、Aという子どもがいる。この子をサポートしようと思ったら、学校だけでは限界があるとする。必要な資源としてなにが考えられるか。メンタル的なことであればカウンセラー?あるいは社会資源的なことであればSSW*1とか、その先には養対協。GIDだと医療関係者(笑)?で、たぶんこのあたりまでは「個人情報」の共有先になるかな。
でも、このあたりはある種「表の連携先」だったりします。もちろん「専門家」ですから有効な連携先ではあるだろうけど、逆に言えばAという生徒に特化したオーダーメイドではない。
では、オーダーメイドの連携先はというと、もちろんオーダーメイドだから一概には言えないんだけど、例えば昔からAを世話してた隣のおばさんとか、Aが小学校の時に所属してたクラブの指導者とか。あるいは、そんな人たちを有機的につなぐ町内会の役員さんとか。はたまた、子ども会をやってる指導者とか。「専門性」ではなく「地域性」でつながる人たちだったりすることがあります。ところが、「専門性」や「立場性」で「個人情報」の共有範囲を決められてしまうと、こうした人たちはそこから除外されてしまう。すると、そこに連携をお願いしようとしても個人情報を出せなくなったり、仮に出したとしても「なぜあんたが知ってるの?」と言われるのをおそれて結局動けないということが起こってしまう。そうすると、有効な手段が打てないままに時が過ぎていくなんていうことが起こってしまう。
実はかつてはこのあたりを突破することができたケースがあったんですよね。その方策は、「あそこなら連携先だよね」とみんなが黙認する人/グループの存在が共有されるようにしておくってことでした。で、その人/グループのおかげで、どれほどのAが助かってきたか。
「個人情報保護」はもちろん大切です。でも、その言葉がひとり歩きしはじめるなかで、人や地域のつながりが分断されてしまっているんじゃないか。そしてそれは、「つながり」がなくても生きられる人にとってはどうでもいいことかもしれないけど、「つながり」をほんとは必要としている人にとっては死活問題ですらある。ついでに言うなら、「つながり」を必要とする人ほど個人情報を「恥」と感じ隠したがるという問題があるんですよね。
じゃあ、どうすればいいのか。
たぶん、再び「個人情報あるけど、まぁあの人(ら)ならしゃーないな」という「黙認」の人/グループをつくること。そして「助かったわ」という実績をつくること。そんなものをゲリラ的につくるしかないかな。

*1:「スクール・ソーシャル・ワーカー」ね。「最後の・スター・ウォーズ」でも「スーパー・セックス・ワーカー」でもないからね。

脳みそ疲れた→先達への敬意

今日はさっくりと職場をあとにして、滝井へ。久しぶりの心理検査です。12月の「まんまるの会」での会話。
Y野さん「心理検査だけでいいですよね?」
いつき「いや、知能検査も(笑)」
Y野さん「(笑)」
みたいな。
てことで、久しぶりにこんなことをやりました。にしても、途中で脳みそが疲れはじめて、しかもやめられない。で、たまにルールを誤解してて脳みそがフリーズしたりして、なかなか脳みそがさびついてる感じがしました。ま、Y野さん
「いえいえ、なかなかですよ」
となぐさめてくださいましたけどね^^;;。
時間があるので宿題は待合室でさっくりすませました。この宿題も「おまえ、性に関する質問、好きやな」と思わずツッコミたくなる設問がたくさんあるのですが、まぁ、変態であることを引き受けていたら、それなりにOKってもんです。

で、O田さんの勧めにしたがって、バスで大阪駅まで移動。ネットカフェに1時間ほどこもって仕事です。まぁ、サテンでもいいんですけど、靴が脱げないというか寝転べないというか。なので、やはりネカフェで仕事なんですね。

で、頃合いよしと福島へ。今日は『にじ色の本棚』の打ち上げです。
とりあえず編集担当のS村さんと合流。やがて原ミナ汰さんと大江さん@LOUDが登場。大江さんがわたしのことを知っておられて、ビビると同時に、かなりうれしかったです。
はじめは本のことについてあーだこーだと話していたのですが、やがて「ぶっこむ質問」が出てきたりして、そのあたりからディープゾーンに突入です。互いが「なぜこういう生き方をしているのか」なんていう交流はなかなかできるもんじゃないです。それを互いにブッコミあい、それをガチで受ける、とても濃いぃ時間を過ごしました。ちなみに、ブッコむ相手は、別にLGBTじゃなくてもいいんですよね。人がつながるのは「属性じゃなくて葛藤の量」って言葉がかの名作(笑)に出てきますが*1、まさにそんな感じの夜でした。

にしても、先達の歩んでみた道は、とてつもなく険しく自由ですね。それをあらためて感じました。そのあとに続くわたしの世代は、やはりそこを知りながら、自分の道を歩まなきゃならんなぁと。

*1:ちなみに、これはRささんの発言です。

ちょいとグチをば

今日はとある新聞社の記者のH房さんという方から取材を受けました。
なんでもH房さんは2007年くらいから「家族」というシリーズでわたしのことは知っておられたとか。恐縮だなぁ。
で、教員の立場からいろいろ聞きたいと言われたので、まぁいろいろと話をしました。
「教職員向けのLGBTのハンドブックを各地がつくっているんですが、どう思われますか?」
みたいな質問。H房さん、よくわかっておられて「マニュアルはいけない」っておっしゃってました。その通りです。最低限踏まえなくちゃならないことを提示してもらえばいい。
でも、一方で各地のハンドブックの意義なぁ…。

例えば、「○○は教育の課題だ。だから学校で」っていう言説がある。そりゃ当たり前です。子どもたちは原則的にはみんな学校に通っている。だから、子どもに関する課題は「学校教育の課題」です。ちなみに「○○」にはトレンドがあります。かつては部落問題。その後、例えば自死者が出たらイジメ問題。スマホの登場でネットリテラシー。そして、特別支援教育の導入で発達障害。障害者差別解消法に伴って合理的配慮。そしてLGBT。最近では主権者教育。
それらの間を縫うようにして、本来の仕事である不登校の子どもの対策や、進路保障や、低学力の子どもの学力保障や、さまざまな生徒指導がある。
学校はパンク寸前で疲弊しています。
そして、カバーする範囲が増えれば増えるほどミスが出る可能性が高くなる。ミスをしたら叩かれる。叩かれると、本能的にガードします。すると、そのガードを理由に「教育委員会制度があかん」とか言って管理強化を進めようとする。
北風政策ですね(笑)。
さらに、LGBTを例にして言うなら、100人の教員がいたとして、その中の一人だけが当事者が傷つく発言をしたとする。他の99人はしていない。でもらその当事者にとっては「教員に傷つけられた」という記憶だけが残る。そしてそれは記憶なんですよね。例えば30歳の当事者であれば12年前。時は2004年。そんなころの「ある教員」の話を持ってきて「今」の「学校」を批判する。
これは割の合わない話です。
じゃ、どうすればいいのか?
ひとつは「教育の課題」という言葉の理解が違うってことです。教育には2種類ある。ひとつは「学校教育」ですが、ほんとは「学校以外で行われるすべてを網羅するもの」としての「社会教育」がある。こちらをあまりにも軽視している。つまり、「子ども」の「教育の課題」を学校に丸投げしないってことです。
それから、現状を正しく認識するということです。過去のある地点での経験を普遍化しない。
さらに、個々の教員がカバーできる範囲には限界があるということも知る必要があると思います。例えばAという教員は在日外国人については詳しいけどBという教員は発達障害について詳しい。その時、Aに発達障害をやらせてBに在日外国人をやらせるのはキツイです。それは、会社組織を考えればすぐわかる。だから、それぞれの教員の得意分野がカバーしあえるような仕組みをつくる。そのためには「できないことを批判しない」という姿勢があらゆるところに必要となる。
きっと、他にもいっぱいあるだろな。

ま、結論を言うなら、学校はいま疲れてるってことです。そして、疲れさせてるのは誰かってことです。
あー、グチったグチった(笑)。

孤独感

なんか、土日はめっちゃ飲んでたけど、どこか孤独感が漂っていました。なんなんだろう、これ。
そうか…。
たぶん、まわりと「目」があってない。世界の見え方が違う。
いや、もちろん、誰だって他の人とは見え方が違うんだろうとは思います。が、その違いに気づくかどうかは、もしかしたら人による。
世界の見え方が「違う」の思った瞬間に、会話がとてもしんどくなります。言葉が伝わらない感がハンパなくなる。それは孤独感につながっていきます。そしてそれが耐えられないほど大きくなることがたまにある。
たぶん、どうしようもないですね。
とにかく、これが過ぎるのを待つしかないかな…。

なるほどなぁ

家に帰って新聞を見たら、こんな記事が…。
(世界発2016)体と心の性不一致、米で高まる関心 「トランスジェンダー」著名人ら公表
なるほどなぁ。かの国では、そういう感じなんだ…。翻って、日本は…。どうも同じような感じってのがない。なんでだろ…。
歴史に求めるのもひとつの解でしょう。あるいは、「病理化することによって」というのも、またひとつの解かな。人権教育の広まり?あるいはマスコミの影響?
でも、「フツーの人」にとっては、もしかして「関係ない」からなのかも…。つまり、トランスジェンダーの存在によって、どの程度自分の日常がおびやかされるか。
それが端的にあらわれるのが、もしかしたら更衣室・トイレ・公衆浴場問題なのかな。日常がおびやかされると感じる。
逆におびやかされない範囲であれば「どうぞ、お好きに。みんな違ってみんないい」となる。冷たい優しさ?

人のことは言えないけど

今日は散々な一日でした。なんか、いろんなところから「あれはまだか」「これはどうした」「これやって」「あれやって」とせっつかれまくり。しかも、別にそれ、わたしの本来の仕事とちゃうし。わたしも、日によってはほとんど限界のところで生活してるから、そこにほんの小さなものでも積み重なった時、あっけなくひっくり返ってしまいます。

なんか、たぶん、人にものを頼むって、簡単なんです。例えば「これ、調べて」「これ、翻訳して」「こんなの、できない?」。すべてワンセンテンスです。でも、それにこたえるためには「考え」「調べ」「整理し」「返す」といった、いくつものステップを踏まねばなりません。考えたり整理したりするためには脳みそのリソースを使います。調べたり返したりするためには時間のリソースを使います。つまり、それなりの労力を使います。そして、それがいくつか集まると、それなりに大きなリソースを必要とします。
ところが、「気軽に頼む人」は、たぶんそれを簡単なことと思っている。まぁ「できるだろう」と思っているんでしょうね。そして、たぶんさらに、その人にものを頼んでいるのは「自分だけ」と思ってる。だから「これくらいできるだろう」と思っている。だから、気軽に頼める。
ところが、そんな依頼がいくつか集まると、「なんなんだ!これは!」となってしまう。わたしにはわたしのやらなきゃならないことがあって、そのリソースを割いてそれをしなきゃならないのに、そこへの「申し訳なさ」がないと、ほんとうにイヤになってきます。

ちなみに、頼まれてもイヤな気持ちにならないこともあります。それはどんな時かというと、人にものを頼んだ時、相手がそれに対してどれほどのリソースを使っているかがわかっている人からの依頼です。
たぶんそういう人は、ものを頼む前にずいぶんと考え、調べ、整理をしている。つまり、リソースを使っている。そのうえで、やはりどうしようもないから頼む。すると、こちらのリソースの使い方はずいぶんと軽減されます。そしてなにより、「頼まれる側」のリソースを使わせることへの申し訳なさがにじみ出ています。例えばそれは言葉の選択であったり、文章の構成であったり、その他さまざまなところに出てきます。そういうものを受けとると「あー、こたえよう」という気になる。

もちろん、わたしもずいぶんと人にものを頼む人です。なぜなら、わたしひとりでできることはたかが知れているからです。人に頼まないと動かない。そんなことをたくさんしているからです。
せめて、頼まれた人が「いいよ」と快く引き受けてくれる頼み方をしなきゃなと、あらためて思います。