「○○たちとは誰か」を決めるのは

朝の体調は昨日よりマシですか。眠くて倒れそうというわけではないです。なので、カントクも機嫌よく(笑)。
にしても、「どうげんぼうず(DGBZ)Tシャツ」を見たある生徒が「それ、ドラゴンボールZ?」って聞いてきたのにはひっくり返りそうになったな(笑)。
で、午後からは採点の祭典リターンズです。と、仲よしの同僚が遊びに来てくれて、採点ミスを教えてくれたり、集計を手伝ってくれたり。助かりました。
てことで、成績処理は平常点を残すのみ。でも、これがなかなか確定しないんですよね。確定したら10分ほどで終わるんですが…。
職場の帰りに、ちょいと放送関係の買い出しなんぞやって、無事帰宅。
夜はHがしさんと、しばしトランスをめぐるやりとりをやって。いや、刺激的で、楽しくて、勉強になります。楽しいo(^^)o。
「わたしを決めるのはわたし」
これはいい。ところが
「わたしたちを決めるのはわたしたち」
となると、話がややこしくなる。その「わたしたち」の範囲を決めるのは誰?ってことです。それを「わたしたち」ってくくっちゃうと
「わたしたちを決めるのはわたしたちなんだけど、その決めるわたしたちを決めるのはわたしたち」
となってしまって、これはトートロジーです。そうなると「はいはい、勝手にしてね」となる。
まぁこんな話は二元論を前提にする世界ではどこにでも転がってることで*1、それを例えば激突したり*2、乗り越えたり*3、巧みにずらしてきたり*4した歴史があるわけです。
で、ここで突きつけられるわけですね。「トランスとは誰か」です。もちろん、そんなもん原則的には「言ったもん勝ち」なわけですが、でも、感染力が強まっている昨今、「それでいいのか?」という気がしないわけでもない。
まぁ、そんなこんなな結論の出ない話で、でも、トートロジーは数学の証明だと、たぶん×ですから、避けなきゃなと。
まぁ、そんなこんなの話は、やはりおもしろい!

*1:「女/男」だけじゃなく、「外国人/日本人」とか、かつては「朝鮮人/日本人」とか「部落/部落外」とか「障害/健常」とか

*2:ex.『「同和はこわい」考』

*3:ex.『ジェンダー・トラブル』←まだ!読んでない^^;;

*4:「パラムの会」

流れに身を任せるな!

土曜日に、なにやら「相談したいことがある」との電話があって、「いつがいい?」と聞いたら「月曜日にRぽたんと会う」とか言うので、まぁつきあいやなと思って、わたしも合流することになって、仕事終わりに難波まで出るはめになってしまいました。
で、居酒屋に入ってダラダラ話をしていたのですが…。
その子、とってもいい子です。でも、あまりにもよすぎて、あまりにもまわりに感謝をしすぎて、我を通せない。だから、思うようにトランスできない。だから、まわりでトランスしてる子を見るとうらやましいけど、でも「トランスできないのはしかたない。自分のせい」って思っちゃう。で、そんな自分を支えてくれるまわりに感謝する。
そんな子。
そんな子に、わたし(たち)は何が言えるのか。
R「これ、ほしい?」
リアップレディスバージョンです。Xさん、黙り込みました。
R「どっち?」
X「ほしいです」
R「これを手にとったらどうするかわかってるね?」
目の前でリアップをチラつかせるRぽたん。悪いヤツです(笑)。たたみかける悪いわたし。
い「髪の毛切れって言われたらどうするの?」
X「前髪は…」
違う!説教がはじまります。
で、総括。
い「どうしたらいいと思う?」
X「もっと自分のことを考える」
い「考えるじゃねーよ!」
X「自分がやりたいことをやる」
い「それだよ!」
やりたいことをやってるRぽたんとわたしは、きっと悪いヤツらです。でも、トランスってほっといたのではできない。流れに身を任せると、自然とassigned genderへと流されていく。その流れに抗うことをトランスというんだと思うのです。
散々そそのかしておいて、悪いふたりは別のお店へ。あ、財布の中、38円しかない。ごめん、Rぽたん、貸して^^;;。

久しぶりに来たので・問題の解き方

今日の午前中は授業まみれです。とは言え、自習時間なので、いろいろ考えたり、簡単な作業をしたり、個人的には有意義な(笑)時間を過ごしてました。
午後からはアンケートのマークリード。これがまた、各々所定ではない用紙で回答させたものだから、えらいことでした。でもま、2時間ほどで終了。
その後は、法務省のサイトに行って、在日外国人の統計をダウンロード。そいつを打ち込んでいたのですが…。なんというか、おもしろいです。例えば、在留資格別の表。これ、多いもの順です。が、順番が入れ替わっているところがある。あるいは、分類項目を変えていたり、細目をつくっていたりします。なぜ項目を変えるんだろうとか、なぜ順番が入れ替わったのだろうとかいうのは、たぶん実情を反映してるんですよね。つまり、それを考えることを通して、実情がわかる。同様のことは、都道府県別の表にもあてはまります。これも、多い都道府県順です。上位8県くらいまでは安定なんですが、栃木と京都が競るんですよね。一昨年は京都が勝って、去年は栃木の勝ちでした。これも、どんな国籍の人がその順位に影響を与えているのか、あるいは例えば京都は人数は変わらず栃木の変動で順位が入れ替わっているのかみたいなことを考えることで、時代の状況がわかります。
なんか、こういう「結果から原因を読み解く」みたいなのって、とてもおもしろい。

で、6時前になったので、そろそろ帰ろうかと思ったら、生徒が扉をうすく開けてこちらを見ています。まさか?
「せんせい、教えて」
去年授業を担当していた子らでした。
わたしはめったと放課後の質問受付をしません。てか、来ないです。だって、明らかにイヤそうですからね(笑)。それは、やはり授業時間を大切にしてほしいということがひとつ。もうひとつは「来るなら考えてから」と思ってるからです。なにせ、「教えて」「なにを」「全部」とかいう会話をかつてしたことがあって、その時の答えは「却下!」でしたから。
でも、この子らは考えてわからなくて「この問題」ってくる子らです。だから、「いいよ」という答えが出てきます。
S「この問題がわからないんですよ」
垂直二等分線を求める問題です。
い「OK、じゃ、まず作図してみて」
S「え?えーと」
ここで5分ほど子どもたちが討論しています(笑)。そのうちに作図ができたので、次の質問。
い「OK、じゃ、答えはどんな形になるのかな?」
S「y=…?」
い「そうそう(^^)。じゃ、その式をつくるためには何と何が必要かな?」
S「えーと。なんだろ…」
そこかよ(笑)!
い「いいかい。直線の方程式ってのは、これが基本形。で、傾きを求めるバリエーションが「2点を通る」「平行」「垂直」ってあるのね。あと、通る点についても「中点」とか「内分点」とか「外分点」とかいろいろあるの。で、これの場合は、まずどこを通るの?」
S「中点?」
い「じゃ、出してみて」
S「これ」
い「じゃ、傾きは?」
みたいな感じで質問受付は進んでいきます。時間がかかります。でも、こういうのを通して「考え方」を身につけてほしいなと思っています。
子どもたちは、つい、問題から答えを出そうとする。でも、数学教員は答えが頭にあって、その答えのために必要なものを問題から求めようとする。そのアプローチの違いが、とても大きい。そして、それは言わなきゃわからない。まぁ、タネあかしです。でも、教員の仕事は「手品を見せたあとのタネあかし」だと思ってるので、それでいいんです。
てことで、その一問に30分ばっかかけて、それでもみんななんとなく満足げに帰っていきました。

まぁ、数学解くのも表を見るのも同じってことですね。

公正中立なんてものはな

とある人権教育担当の会議にて…。
わたしがつくった沖縄人権学習のビデオをめぐって、「基地問題なんかが入ってるから公正中立と言えない」みたいな意見があったんだけど。
腹が立ったので、思わず反論しました。「女性が虐殺されるような今、扱わないことが公正中立を欠く」。
もうすでに言い古されていることだけど、あるものごとを扱う/扱わないの判断をする時点で、すでに公正でも中立でもありません。そして、あるものごとを「公正中立を欠く」という態度をとることそのものが、すでに公正中立を欠いています。とても簡単に言うなら「公正中立なんてない」ってことです。
ところが、「公正中立」ということを言う人は、そんなことを考えずに、自分が公正中立を判断できると考えている。そして、そういう人が、仮に権力者であると、メッチャこわい。いや、教員はすでに権力者ですね。
大切なことは「自分はバイアスがかかっている」ということ、そして「選択し続けている」ってことを、常に自覚することだと、わたしは考えるんですけどね。

そのうち「人権人権なんていうことは、公正中立を欠く」って言われるようになる世界が来る気がします。なにせ、「人権」はすでにその含意に「反権力」がありますから。
いや、すでに言われてるか…。

反応さまざま

昨日のこれのメール本文を、とりあえず職場に持っていきました。で、4人ばっかの教員に見せたのですが、反応は…。
某管理職「…英語は読めん…」(説明後)「…わからん…」(さらに説明後)「ま、とにかくおめでとう」
某広報部長「なになに、ふんふん
これ、どういう意味?」(説明後)「で、どうしろと」
某英語教員「すっごーい!えー、すごーい!」
某家庭科教員「うわ、読めない」
なんかなぁ…。
例えば、国体レベルのスポーツ選手がいたとして、その人がそれなりの成績をあげたら、それなりの評価をされると思うんですよね。あるいは、そういう教員がいたら、広報でも使うと思うんですよね。「うちの学校にはこんな先生がいます!」みたいな。たとえその人が、その次の年には転勤するかもしれないとしてもね。でも、「おべんきょ」の世界の話は広報には使われない。「うちの学校には、人権の全国大会で何度もレポートしーの、仕事の傍ら「おべんきょ」しーの、本も出しーの、学会誌にも載りーの、世界レベルの賞もとりーの」みたいな話は広報には使わない。まぁ、使ってほしいわけではないし、どうでもいいっちゃどうでもいいんだけどね。でも、わたしとて、それなりの専門性は持っています。そういうわたしに対して、例えば昨日の研修も含めて、その専門性に対するリスペクトがあまりにもなさすぎると思うわけですよ。ま、リスペクトなんて自分から求めるものじゃないからいいんだけどね。
ちなみに、反応の続きです。
某生徒たち「(話を聞いて)え?え?世界レベル?すごーい!(パチパチパチ)」
たぶん、生徒たちはなーんもわかってないです。でも「どうやらすごいらしい」と思った時に「とりあえず拍手や!」って反応してくれる。たぶん、これなんですよね。
わからない時に「なにかよくわからないけど、自分にはわからない世界があって、どうやらそれってすごいことで、それをこの人はしてるんだから、きっとすごいことなんだろう」という気持ちのことを「リスペクト」っていうんだと思うのです。
少なくともわたしは、そういう気持ちを持ち続けていたいなと思います。

怒りのツイート

今日は保健部研修です。内容は「合理的配慮」だとか。
まぁ、大切なことではあるけど、法律が通ったからやらなきゃならんという、「何をいまさら感」が満載です。しかも、人権でやるのではなく保健でやるという、その発想がすでにうさんくさいです。そもそも、障害者差別解消法や、障害者権利条約の理念と反してます。
いちおう、昨年度末に「人権教育の分野ではそれなりに学習を積んでますよ」と言っておいて、講演集も渡しておいたけど、どれくらいわかってるだろうか…。
ついでに言うと、ここ「LGBTの子どもたち 〜「特別な配慮」から「合理的配慮」へ〜」なんていう文章を書いているヤツが同じ職場にいるんだけどね(笑)。
でも、仕事のうちなので行くことにしました。

講師はカイワイでは聞いたことのない人です。どうやら、センターの出張講座だとか。ふーん…。
レジュメを見ると「研究協議」とかあります。横を見ると、模造紙とかマジックがあります。ワークショップかよ!キライなんですよね。
講師の方は、なんでもこの4月からセンターに来られたんだとか。それまでは支援学校におられたとか。まぁ、「障害児教育」の専門家ということですか。それが吉と出るか凶と出るか(笑)。

スライド見ると、いきなり「あいすぶれーく」とか書いてあります。ひらがなですよ、ひらがな(笑)。いやな予感が頭をよぎります。てか、この職場に「あいすぶれーく」はいらんやろ…。

で、話がはじまったのですが、ブチ切れました。そのあたりはつぶやきましたので、コピペ(笑)。

今日の研修なぁ。
怒りのツイート開始!

タイトルは「合理的配慮を踏まえた指導・支援」。
合理的配慮について話をするのに、「医療モデル(個人モデル)」から「社会モデル」への転換という、わたしの理解としては一番大切な概念が、レジュメにも話にも出てこない。これだけで「なんじゃそりゃ」

[不当な差別的扱いの禁止」にかかわって、「正当な理由があればやむを得ず」と。そして、その判断の時に、学校という限界はあるにしろ「保護者は医者と相談して」という話。Nothing about us without usという言葉を知らないのか?

「先行研究を見ると」のスライドが「「みんな違ってたいへんだ」じゃなくて「みんな違ってみんないい」」って、どうよ。

結論が「障害のある人もない人も全員が活躍できる社会の実現」。
まるで「一億総活躍」だな。
そもそも「活躍」の中身は?
その「活躍の中身」を問い、価値観の変革を通して社会の変革を求めることこそが必要なんだろ?それをスルーして、こんな結論はあかんやろ。

ふぅ…。
まだまだあるけど、とりあえずおわり…。
あ、収穫。
いままで聞いてきた講演(牧口一二さんからはじまり、M井孝夫さんとか黄色いくまさんとかM永さんとか)が、いかにいい講演だったかということがわかったことは収穫だ。

でも、怒りがおさまりません(笑)。

結局、障害者差別解消法や合理的配慮の「歴史」や「思想」をすっ飛ばして、ノウハウだけの話。そしてそれは、学校現場のニーズとマッチしているということとつながる。
てことは、「当事者」を抜くとそういう読まれ方をされるってことなんだな。
たぶん、なんであってもね。
勉強になるわ…。

落ち着いて考えると、今日の講演って、結局「配慮することを通して「活躍する人」として取り込む」って話なんだよね。これは、障害者に対する同化なのかもしれない。
と考えると、メッチャこわい。
にもかかわらず、そんな話が職場で語られて「わかりやすかった」と。
善意による同化の加担。

そだ
一番大切なこと、一番腹が立ったことを思い出した。
結論で「心が大切」って言ったんだ。
こんなに障害者権利条約からの流れをねじ曲げる言葉はない。というか、流れの真反対にある言葉だよ!

という、怒りのおさまらない、障害者差別についての素人のツイートでございます。

その後、facebookでもいろいろやりとりがあったりしたけど…。
とにかく、障害者が、それこそ命をかけて闘いとった「権利」が、「配慮/ケア」へと矮小化され変質していくさまに直接触れた気がしました。
そして、これは同時に先のツイートでも書いたけど「なんであっても」起こりうること、であるということです。

禁断の話題

かつて、松村智広(まつむらさとひろ)という人が雑誌『解放教育』で「だまってられへん」という連載をしておられました。その中で「禁断の話題」をされて、大笑いしながら深くうなづいたことを、今日、ふと思い出しました。
「禁断の話題」とは「講師謝礼」のことです。
世間では「お金をもらうのはきたない」みたいな価値観がある一方「人権は大切だからお金とはそぐわない」みたいな価値観もあるような気がします。その結果「お金を出したら悪いんじゃないか」とか、逆に「お金なんてなくてもしゃべります」なんていう話が出てきます。
人権以外、例えばスポーツ選手の「ありがたい話」あたりになると「大切なことだからお金をつぎ込む」とか「大切なことだからこそ正当な対価としてお金をもらう」となる。
いったいなんなんだ?と思いますね。

わたしが誰かに講師依頼をするときは、原則的には依頼時点で謝礼の金額を明示します。「もうしわけありませんが、これだけしか出せません。来ていただけますか?」です。そして、相手に判断してもらう。だって、講演の依頼は契約なんですよね。だから、引き受けるかどうかの最初の時点でこれを言わないといかんと思うのです。引き受けるかどうかの大切な要素のうちのひとつですから。
でも、これを言わない人が圧倒的に多い。
その時、考えるわけです。「それなりの金額を出せる自信があるから言わないのか?それともお金がなくて、それを言おうかどうしようか迷っているから言わないのか?」。これは、精神衛生上悪いです。
たぶん講演をする人って、お金もだけど、講演依頼をしてきた人の真剣さとか、そんなのも含めて依頼を受けるかどうするか考えてると思います。逆に言うなら謝礼の確保も真剣さの中に入っています。でも、いかんともしがたいところもある。それはよくわかります。
そんなこんなをトータルして引き受けるかどうかを決めてるんだと思います。

あとですね。
「安い謝礼で講演する」って行為は、講師謝礼の相場を下げてしまうんですよね。現在、公費で出せる謝礼の金額はある程度の相場があります。「それでいいですよ」ってなると、それが相場になってしまう。これはデフレを招きます。これ、よくないと思うんですけどね。

まぁ、そんなこんなを、ふと考えた夜でした。
まぁ、松村さんとは違い、こんなところを読んでる人はほとんどいないから書けるヘタレなんですけどね(笑)。

先行研究をふまえること

なんかもう、さみしくなってくることが多々あります。
まぁ、わたしはチキンですから、ここみたいな寂れたところにしか書かないのですが…。

この歳になると、ふと「昔のこと」を思い出したりするのです。で、「昔のこと」を思い出したりすると、その延長線上に「わたしの昔」よりもさらに過去の人々のことも考えたりするのです。
なんでこんな話が出てくるかというと…。
年寄りの繰り言なんですが、最近の若い人(笑)は「発信」がうまいなと。ちなみに、この「若い人」の定義は年齢というよりも、運動歴とか発言歴とか、ま、そんな感じでしょうか。

例えば、わたしなんかは、生まれてはじめて実践レポートを書いたのは1989年くらいなので、もうかれこれ30年近く前のことなんですよね。当然、手書きです(笑)。で、レポートにはそれぞれの時代の「作風」というのがありまして、わたしが徹底的に叩き込まれたのは「実践で語る」だったんですね。あるいは「事実を差し出す」とも言われました。つまり「理念で語らない」ってことです。
すると、とてもしんどい。あることを発信したいと思っても、それを実証する「子どもの姿」がないと語れないんです。だから、日常の子どもたちとの出会いから、ひたすらそれを探すんです。
ちなみに、ここで「被差別当事者」と「教員」の圧倒的なアドバンテージが出てくる。それは、被差別当事者は「自分のこと」を言えばいいわけですからね。
てのはおいといて…。

でも、そうやって「言説の蓄積」ってのをつくってきました。そういうのに基づいて、現在の言説がある。その中には「子どもの姿で語る」ことへの窮屈さとかもあるんだと思います。例えば「もう少し自由に語ろうよ」とかね。だから、実践なしでも話を聞いてくれる地盤ができた。

もうひとつ。「term」の問題もあります。わたしよりも前の人たちは「term」がないところから現実とのせめぎあいの中で「term」をつくりだしてきた。わたしの世代は、実践を通して、その「term」に則りながら、その中身を検証し、ふくらましてきた。その延長線上に、いまの「term」があるわけです。

何が言いたいかというと、いま、ひとつの「語り」があるとしたら、その語りはオリジナルなものじゃなくて、長い歴史の上にある「語り」なんだということです。言い換えるなら、いま、自分が感じて発信する「自分がオリジナルと感じる語り」は、その前に「その語りをつくる過程で「語ること」すらできなかった人々の「語りとはならなかった語り」」の上にあるってことなんです。

それは、例えば部落問題でも、障害の問題でも、ヘイトの問題でも、トランスの問題でも、レズビアンの問題でも、ゲイの問題でも、Xの問題でも…。おそらくはすべての「問題」についての「語り」の中にある。
で、わたしが大切にしたいなと思うのは「「語ること」すらできなかった人々の「語りとはならなかった語り」」に思いを馳せることなんです。例えばそれはウトロのハルモニやハラボジの「言葉」であり、カルーセル麻紀さんやケイト・ボーンスタインやパトリック・カリフィア、いやいや、もっと前の世代の人かな。わからんけど。そんな人々が編み上げてきた生き様と、そこから出てくるふとした「言葉」ですね。そこに「語り」の源流を見出し、その系譜の上に自分の「語り」があるということなんです。
それは、過去へのリスペクトです。言い換えるなら、「おべんきょ」の世界における「先行研究をふまえる」ってことです。
当然「先行研究」を踏まえると、容易には語れなくなる。でも、それをしなきゃアカンと、わたしは考えています。逆に、それを踏まえればこそ、「語り」の中に厚みが出てくる。それを追い求めたいとも思っています。

最初の話にもどると、「若い人」の「発信」=「語り」のうまさは、その前にいる人々の「語り」や、さらには「「語ること」すらできなかった「語りとはならなかった語り」」の上にあるということなんです。
それを踏まえてない*1さまざまな言動を見聞きすると、どうしようもなくさみしくなってくるんですよね。

*1:それは、語った人に限定するのではなく、受け取った側も含まれます。

歴史は繰り返す

今日は午後から出張です。場所は第2のふるさと。内容は「総会」なんですが、こちらはオブザーバー参加なので関係なし。メインはそのあとの記念講演です。今日の講師は、わたしのおべんきょ師匠。楽しみです。
内容は、まぁ「同和教育がなにをしてきたのか」ってことを、若い教員に伝えるってことなんですが、これ、2月にも首がちぎれそうになった話なんですよね。

戦後同和教育がどこからスタートしたかといったら「今日もあの子が机にいない」です。つまり不登校問題です。
で、不登校の背景を探ると貧困があった。そしてその背景に部落差別があった。だから、不登校の問題をなんとかしようと思ったら、部落差別をなんとかする以外方法がなかった。
と、すらっと書くと当たり前のことなんですけど、これ、すごいですよね。とかく「対症療法」でよしとしがちなんですけど、それを「個人の問題」としての貧困から、さらに「社会の問題」としての部落差別まで掘り下げ、しかも「そこ」でやろうとするわけですから、ハンパない話です。
で、奨学金を含め、いろんなとりくみをする中で、不登校問題が一定解決すると、荒れの問題が出てくる。で、荒れの背景を探ると、そこには低学力の問題が出てくる。さらにその背景として進路の問題(どうせ勉強しても…)が出てくる。そこで「同和教育の総和は進路保障である」って言葉が出てくる。
そして、高校進学率があがると、今度は就職差別の問題が出てくる。
こんな感じで、ひとつの課題をクリアすると、その先にそれまでは課題にすらならなかったことが課題として出てくる。
で、まぁ、ラスボスは部落差別なわけです。ところが、じゃ、部落差別だけでいいのかというと、その隣に在日外国人の子どもがいる。こうやって、戦線が広がっていく。

でも、その中で、教員はさまざまなことを学ぶ。それを言葉にしたのが「差別の現実から深く学ぶ」です。
「差別の現実「を」ではなく、差別の現実「から」です」
とは、おべんきょ師匠のお言葉。そこには、教員自身の変革がある。それを言葉にしたのが「生徒の変わり目、教員の変わり目」です。

さて。
そんな歴史を踏まえたうえで、今はどうか?
まさに「子どもの貧困」が喫緊の課題としてある。では、その課題に教員はどう向き合っているか?戦後同和教育の出発点と同じスタンスで向き合っているか?
まさにそこが問われるわけです。
わたしたちは、子どもたちに「勉強せい」と言います。が、わたしたちは学んでいるのか?学ぶとは自己変革だと、わたしは思います。子どもたちに自己変革を迫るわたしは、自己変革しようとしているのか?
そんなことを問われる講演でした。

それぞれのストーリー

今日の夜は阪大の院生さんと打ち合わせです。
なんでも、7月にリビングライブラリをするので本になってほしいとか。久しぶりです。ただ、今回のリビングライブラリがおもしろいのは、ごはんを食べながらやるんだとか。てことは、マジで「リビング(居間の)ライブラリ(本棚)」です。

てことで、京都駅近くの変な店へ。
はじめは「本」がなかなか集まらないので、「いつきさん一冊で」って言われたので、なんとなくそれは違うなと。だって、それでは「いつきさんとごはんを食べながら話を聞く会」になってしまいます。
さて、どうすりゃいいのか?
そうだ。学生さんも本になればいい!
「だって、本になる人ってマイノリティでしょ?」
「いや、そういうわけじゃないですよ」
もちろん、リビングライブラリは、日常なかなか理解してもらいにくい「マイノリティ」から、より近い距離で話をしてもらい、理解するみたいなところからスタートしています。が、デンマークでやってる風景なんかを見たら、警察官なんかも本をやってるみたいです。まぁ、日本とデンマークでは警察官のスタンスの違いはあるだろうから日本でそのままとは言わないけど、たぶん葛藤を抱えていたりして、いろいろたいへんなんだと思うのです。そんな話を聞く。
つまり、誰でもいいっちゃ、誰でもいいんです。ぶっちゃけな話って、誰もが持っている。それを聞くわけです。
問題は、その「誰でも持っている」というところなんだと思うのです。ともすれば、なんかすごいマイノリティがいて、「わたしなんか」となってしまいがちなんだと思うのです。いや、もっと言うなら、その「すごさ」ゆえに、自分の持つ「特質」に鈍感になってしまう。そして、自分は「フツー」と考え、「聞く側でしかない」と思ってしまう。
でも、たぶんそうじゃない。ひとりひとりが自分の「語り」を持っていて、それを口々に語る。それでいいんじゃないかと思うのです。

そんなことを学生さんに話をするうちに、みなさん自分の「特質」を発見しはじめて、結局みんなで本になることになりました。

てことで、7月23日(土)の午後、豊中駅前の国際交流協会の厨房で5冊の本があなたを待っています。どの本もとても魅力的です。ぜひともいらしてください!