92年度卒業生の思い出・その3

「92年度卒業生」さんから、その後メールをもらいました。
すごくうれしかったです。と同時に、ほんとうにいろんなことを思い出しました。ありがとね!

てことで、前回の続き。
担任をはずされて、ふてくされて仕事をしなかったその翌年。なぜか担任に復帰。その代わり、当時の学年部長がはずされてしまいました。理由はたったひとつだったそうな。「卒業式で、◯◯◯は歌いません」宣言をしたそうな。そんなことではずされるって、ひどい話です。てか、わたしを担任団に放り込んだら同じ*1ですがな。

で、学級開きの日。
クラスのある子は、ガラリと教室のドアを開けた瞬間「こりゃだめだ〜」と叫んだそうな。まぁ言ってみれば、その学年の一番ガチャが集まったクラスだったそうです。いや、単純に数学の選択で集まってきただけなんですけどね。その「選択」の仕方が少々いろいろあったみたいです。
ちなみに隣のクラスも数学の選択だったんですけど、こちらの方は「進路に必要だから」。うちのクラスは「他の教科より数学の方が通る確率*2が高いから」だったみたいです。
そこからはもう、毎日が祭です(笑)。で、祭には祭で返すわけで。
わたしの方はといえば、家庭訪問の嵐です。といっても、たいした理由で行くわけではないです。いまでも覚えているのがこんなパターン。
「今日、ゴミ捨てSな」
「わかった」
で、ゴミ捨てに行かない。すると家庭訪問。
ピンポーン…。
「はーい」とお母さんの声。
「あの、担任の◯◯ですが」
「え!先生!うちの子、なにかしましたか!」
「いや、ゴミ捨て行かなかったんです」
「はぁ?そんなことで」
で、本人が出てきます。
「こら!今日ゴミ捨て行かへんやったやろ!今すぐ学校にもどってゴミ捨ててこい!」
「先生、かんにんしてぇな」
「ほな、明日朝一番やで。チェックするしな」
「わかったし。ごめん」
「ほなな」

一方、校区内に住んでいたので、たまには生徒を家に呼びつけます。
「こら!お前、なんでホームルームさぼんねん」
「先生、ごめん」
「お前な。オレがどういう思いでホームルームやってるか、わかってるやろ*3
「わかってる」
「もうな、はがいいんや!」
と平手打ちをします。ところがはずされてしまいます。で、もう一発。
そこからは、ふたりとも涙でぐちゃぐちゃです。
「すまん。つい手ぇ出してしもた。すまんかった」
「ううん。ええの、先生(涙)」
「ええか、もうホームルームさぼるなよ(涙)」
次の日の朝、学校で顔をあわせたら恥ずかしいのなんのって。ふたりして学園ドラマやってましたから。
「き、きのうはどうも」
「どうも」
みたいな。

まぁそんなことをやりながら、夏休みに突入していきます。
(続く)

*1:つーより、もっとひどい

*2:=卒業できる確率

*3:確かこのときは同和学習かなんかでしたわ

92年度卒業生の思い出・その2

で、スキーに行きすぎた翌年。
見事に担任をはずされましたよ(笑)。まぁしかたないでしょうね。年給を使い果たすほど行きましたから。
年度当初、なんしかふてくされて「仕事はしない」宣言です。いま考えると、ようあんなこと言っていたなぁ、と。
それでも、同和学習では即席の教職員劇をしたりして*1、それなりにいろんなことをやってはいたんですが…。
で、そんだけふてくされているんだから、その次の年も担任をはずされるだろうなぁと思っていたら…。
(続く・笑)

*1:「牛の敵討ち」という教材を劇化したんですよね

92年度卒業生の思い出

おとといのコメントに触発されて、「あの頃」のことを少し…。
わたしがはじめて担任を持ったのが、「92年度卒業生」のみんなでした。
それまで新採から4年間、担任を持てなかったんですよね。まぁ、諸事情いろいろあったんだけど、念願かなってようやく持てた担任でした。こんな頃ね(笑)。
このときの担任団はすごかった。
それまでは、「校長様」の「お覚えのいいお方」のみを担任にしていたのに、突然「やけくそか?」とみんなで顔を見あわせるほど自由奔放な人ばかりで構成された学年団でした。まぁ、後から考えてみると、そんな人間にしか担任できない子どもたちだったという話もチラホラありますが(笑)。なにせそれまでは、まぁ「ええ子」が多かったんだけど、この学年、中学校時代に番をはってたとか、高校になってから暴走族とつきあっていきなりデビューしたとか、けっこう元気な子がいましたから。
でも、なんだかんだ言って、89年ですから。まだポケベルもなかった時代ですから。のどかなもんでした。
今でも覚えているのが、はじめての同和学習の時間。同和部から「各担任が自分の思いを2時間語れ。以上」という教案(笑)が出され、みんな「何を語るねん」ととまどいながらも、これから3年間の同和学習への思いをみんなで必死で語りあいました。
ある担任は、得意のギターを持ち出して「手紙」を歌う。ある担任は、自分の見合いの時、親が興信所を使ったことを語る。わたしはというと、それまでの4年間たまりにたまった自分の思いを語ったような気がします。
そうそう。ウチの学校ではやっていなかった「全戸家庭訪問」もやりました。
ウチの学校では、夏休みは保護者を学校に呼んで三者面談をします。でも、それではおもしろくない。なので、どれだけ「迷惑や」と言われようと、みんなの家をまわりました。すると、いろんなことがわかってきます。家の中でのその子の立ち位置や、親との関係。家の中の雰囲気。そんなことはもちろん、その子が育ってきた背後にある「地域」なんかに触れることもすごく楽しかったし、必要な情報だったなぁと思います。ですから、夏を過ぎると、ある子どものことを考える時、家のたたずまいや家のまわりの風景、そんなものがトータルで頭の中に思い出されるようになりました。
一方、ある在日朝鮮人の子どもの「わたし一人でなくてよかった」という言葉と出会ったのもこの年でした。その言葉をきっかけに、在日朝鮮人の子どもたちが集まるクラブをつくりました。ムラの中で学習会を本格的にはじめたのもこの年でした。そして、その学習会に集まった子どもたちのうち3人ほどを「全国奨学生集会@水上温泉」に連れて行きました。一人は、わたしのクラスにいた「中学校時代に番をはっていた」ヤツ。なんでも、「木津川河川敷の決闘」という、ごく一部では有名なことを中学校時代にやっていたそうな。
家庭訪問にしろ、クラブにしろ、学習会にしろ、全奨にしろ、そういう場所で出会う子どもたちは、学校の普段の姿とは全然違います。そういう子どもたちの姿との出会いが、わたしを育ててくれたような気がします。

一方、わたしがスキーにのめり込んでしまったのもこの年。
たまたまいつも行っているスキースクールから「今年はスタッフで来い」と言われ、「タダでスキーができて、もっとうまくなれるな」とスケベ心を出したのが運の尽きでした。結局、シーズンの最後には資格もとることになってしまいます。まぁそこまでスキーに行くとどうなるか…。次の年、思いもよらないことが起こるのですが、それはまた…。

私には「◯◯」がいた/いなかった

今日は、在日外国人教育関係の某セミナー&祝う会。
「「私には浅田先生がいた」をめぐって」というテーマの講演です。
ん〜…。すごくよかったです。
ただ、ものすごく考えさせられたことも、また確かです。

はたして、「わたしには◯◯先生がいた」と、わたしに言えるのだろうか。もちろん、わたしに大きな影響を与えてくれた先生は少なからずいました。でもやっぱり、高校時代、自分自身のことについて「わたしには◯◯先生がいた」ということが言える先生はいなかった。
それは裏返してみると、私が「私」という徴を持ってはいなかった、あるいはその徴をかたくなに出していなかったからでしょうね。そういう意味では、わたしは「◯◯先生」を拒否していたとも言えなくもないかもしれません。
でもその後、「わたしには◯◯さんがいた」と言えるたくさんの「◯◯さん」と、わたしは出会ってきました。その出会いこそが、わたしにとってものすごく大切なものなんですよね。
そういえば、康玲子さんもあとがきの中で「もしもその後たくさんの人と出会っていなかったら、「わたしには浅田先生しかいなかった」というタイトルになっていただろう」みたいなことが書いてありました。そうなんだろうなぁ…。

それと、わたしは子どもたちにとって「浅田先生」たり得ているかどうか。まぁ、本を読むと、まさに「あの頃の学校」における「あの頃の教員」と「あの頃の生徒」の話であって、とてもではないけど、今の話には置き換わらないです。それでも、時代を越えて共通することがあることもまた確かです。そういう意味で、わたしは、「今」の浅田先生たり得ているかどうか。厳しく問われるなぁ。でも、「浅田先生には康玲子がいた」のであって、そういう生徒ときちんと出会うことが、たぶんわたしをまた勇気づけ育ててくれるんだろうなぁ。

にしても、康さんって、文章うまいわ…。

言葉

一昨日の自己紹介でのトラブルって、「言葉」をめぐる問題なんですよね。
ある「言葉」をめぐって、それが差別的表現であるか否かということ。あるいは、それを指摘するか否かということ。さらには、指摘を受けた側のこと。
そんなことがあったわけで…。
次のようなケース、どうなんでしょうかねぇ。

  1. かつて、Aさんが「X」という言葉を使った。
  2. それをBさんが「差別的表現だよ」と指摘した。
  3. Aさんは「なるほど」と思い、自分が使うのをやめただけじゃなく、他の人が使った時も指摘をした。
  4. それから数年後、Bさんが自らをさして「自分はXだ」と言った。
  5. それを聞いたAさんは、「かつて自分に言ったことはどうなっているんだ」と言った。

まぁ、よくあることですよね。
Bさんにとっては、自らをさす「X」という言葉の意味は、自分の中で変化をしているんだと思います。かつては、きわめてパターン化された形でとらえていたものを、文脈の中でとらえるようになった。でも、「かつて指摘をされた側」にとっては解せないことなんだと思います。
じゃぁどうすればいいんだろう…。

ふと思ったのは…。
一番はじめの段階で、単に「差別的表現だよ」という指摘をしたことの雑さがよくなかったんじゃないかなぁ。「X」という言葉は、いかようにも使われます。それの使い方を考えながら、「その言葉」ではなく、「その言葉の裏側の意識」を顕在化させることが必要だったんじゃないかなぁ。
もう少し具体的な話をするならば、
「その言葉は差別的に使われることがある。でも、そうではない時もある。今の使い方についてはわたしは「う〜ん」と思ったけど、別の場面ではそうではないかもしれない」
「もしもわたしが言うことに共感してくれるならば、Aさんも一律に「使うべきではない」というのではなく、それぞれの使い方の裏側にどういうニュアンスがあるかを考えて、「あれ?」と思ったら指摘してほしいなぁ」
みたいな感じかなぁ。
まぁ、これもよくある結論か…。

でも、難しいけどね。

どうなるんだろう

いつも感じているのは、一番大切なのは「バランス」。
でも、そのバランスは静的にとることはできない。なので、「動き」の中でバランスをとり続ける必要がある。それを、村上春樹は「ダンス・ダンス・ダンス」と言ったのかな。
でも、疲れてくると、「動き」が鈍る。すると、当然バランスがとれなくなる。それでもとり続けてきたんだけど…。
ちょっと疲れたかも。

マスク

ここ数年、「すごいなぁ」と思う人に会う機会にすごく恵まれています。
すごい人って、やはりご自分のフィールドにおいてはすごく努力をしておられるし、それでいてそれを「なんともなくやっている」感じが漂っていて、ますます「すごいなぁ」と思うわけです。
その一方、そういう人に出会うと、わたしなんて「ぜんぜんやなぁ」と思うし、時として打ちのめされてしまうことすらあります。単に打ちのめされているだけだったらいいんですが、なんか、人間性まで否定されてしまうこともあるようです。
というのは、やはり「すごい人」って、それだけご自分のフィールドにかけておられるし、そこにその人の人間性が出てきます。そういうものに圧倒されてしまうんでしょうね。
でも、ふとした時に、「あれ?」と思うことがあるんです。というのは、その人の「すごいフィールド」以外のところではその人は「ぜんぜん」っていうこと、よくありますよね。その差がすごい時って、やっぱり「あれ?」以上に、混乱してしまうんですよね。たぶん、落差が激しすぎて、自分の中で整合性がとれなくなるんだと思うんです。
そんなことを繰り返しながら、最近少し考えていること。

「すごい!」と思った人を、「人間」として絶対視するのをやめること。でも、その人からそのフィールドにおいて教わったことには敬意を払うこと。そして、そこにいたるだけの「人間」であるということに対しても敬意を払うこと。
そして、自分は自分の早さで、ゆっくりとでいいから「教わったこと」を実践し続けること。

語る時・書く時・表現する時

今日は、職場の歓送迎会。のはずでしたが、2〜3日前に、年が明けてからしばらくかかわってしまった(笑)タスクの最終謀議が入るという連絡が入ったので、そちらに急遽スイッチ。実は、この春転勤された管理職にはすごく世話になったので、お礼の一言も言いたかったのですが、まぁ、同じ京都の教員ですし、ひとりはメルアドも教えてもらっているので、また機会もあるか、と。それよりも、やはり「謀議」の方は、ここで一段落という位置づけもあるので、やはり優先順位が高くなります。
集合時間はとうてい間にあわない時間なので、「遅れる」と連絡はしたものの、遅れを取りもどすべく駅から大阪市内の某所まで走り、事務所のドアを開けようとすると、いいにおいが…。って、みんなすでに呑んでるのか(笑)。ちなみに、「いいにおい」の正体はキムチでしたよ。
でも、呑みながらもいろんな話。例えば、昔話*1を聞いて「いい時代でしたね」という若い人に「それは違う」とクギをさす人とか、重信房子がどうとか、「実録 連合赤軍」がどうとか…。で、そのあたりから、最近凝っている「最大公約数か最小公倍数か」みたいな話に突入したり。いったいなんの会議だ、ここは(笑)。
てな話をしていたのですが、やがて、「タスク」の事後処理の話をめぐって、「当事者性とはなにか」みたいな話に突入していきます。
発端は、「経験を書物にあらわすこと」みたいなあたりなんですが、そのことから「当事者(被害者)が当事者(被害者)にとどまり続けることの危険性」という話が出てきました。これ、けっこう大切な話かなと思います。
なんというか…。自分自身のことを「歴史として語れる」って、とっても大切なんじゃないかと、わたしは思うのです。例えば、わたし自身のことについて言うならば、わたしが高座で話をしていることは、実は私にとっては、すでに「歴史」として評価が固まり、一定程度相対化できている部分なんですよね。でも、今この瞬間に起きていることは、おそらくは、質疑応答では話ができても、それをひとつの高座話にもっていくには、まだ早い気がしています*2。なぜ、そう思うのかというとですね…。
こんな言い方をしたら「あれ」ですが、わたしになんらかの「語り」を求める人は、わたしのに「当事者性」を求めるわけです。でも、わたしが当事者性を獲得した瞬間に、わたしは「当事者」としてそこにいる人たちから疎外され、「特殊な存在」に押し込められてしまいます。そして、それは「語られるわたし」が「わたしの実像」とズレはじめ、そこに「いつきという虚像」ができるはじまりにもなります。それが一番こわいんです。
わたしが、わたしの「歴史」として固まった部分を話しているうちは、わたしはわたし自身を相対化できているんですよね。なので、そこにいるのは、ある意味「生身の当事者」としての「わたし」ではないんです。そうすることによって、わたしは「当事者性」から逃れることができます。そうすることによって、わたしは同時に「いつきという虚像」からも逃れることができます。そして、そうすることによって、「生身」=「単なる人間のクズ」の「わたし」であり続けることができる。
じゃ、もしもわたしが「虚像のいつき」に安住したらどうなるか。きっとわたしのことですから、「虚像」に自分を移行させていくんだと思います。ただ、人々の求める「虚像」って新陳代謝が激しいと思います。「旬」の時は、まぁ言ってみれば一瞬です*3。すると、わたしはどうなるかというと、ちょうど「はしごをおろされた状態」になるわけです。でも、虚像に自分を移行させてしまうと、わたしは「そこ」でしか生きられなくなる。まぁ言ってみれば、依存ですわ(笑)。

とまぁ、むずかしいことを書いてみたけど、結局、「単なる呑んだくれのいつき」が一番居心地がいいってことですね(笑)。

あれ、なんの話だったっけ?

*1:デモ話とかK炎ビン闘争の話とか

*2:そういや、うちの父親も1985年頃「1970年は歴史じゃない」と言っていたなぁ…

*3:そう言えば、某国営放送の「◯ーとを…」も(ry

さっそくやっちまったorz

1年生の授業も、今日で3回目。
はじめのあたりって、ものすごく簡単な話ばかりです。
でも、その簡単な話の中にとても大切なことが含まれています。
たとえば、単項式と多項式の話って、実はわたしたちが「整式」をどうとらえるかということなんだと、わたしは思っています。あるいは、「同類項」っていうのは、何を基準に「同じ」と見るのかということを学んでいるんだと思っています。ここでそうした「整式のとらえ方」をきちんと学習しておくと、後々とても話が進めやすいと思っています。なので、わたしはそうとうゆっくりとすすむことにしています。
さらに、整式の扱い方に付随して必ず話をするのが、「足し算/引き算」と「かけ算/わり算」の違いの話です。
「四則演算をふたつのグループにわけてごらん」という質問をすると、よくあるのが「足し算/かけ算」と「引き算/わり算」というわけかたです。で、理由を聞くと「増えるものと減るもの」という答が返ってきます。これ、おそらくは足し算の計算からかけ算を導入していくことの弊害じゃないかと思っています。
元来、足し算とかけ算はまったく違う演算だとわたしは考えています。これは、単位を考えてみればすぐにわかる。足し算における「単位」は「たすもの/たされるもの/こたえ」すべてが同じになりますが、かけ算はそうはなりません。
それと、大切なことは、「単位元が違う」ということです。
最近は「単位元」を教科書では扱わないんですが、これ、すごく大切なんだと思うのです。というのは、単位元は、たいていの場合省略されているからなんです。
いや、省略するのは簡単なのですが、省略されているものを見つけることがたいへんなんですよね。
シチュエーションによって、「1」が省略されているのか「0」が省略されているのか。「×」が省略されているのか「+」が省略されているのか。それを見わけることができないと、えらいことが起こります。

こんなことは、実は数学の問題だけじゃないですよね。
社会の中にも「省略されていること」「隠されていること」がたくさんあります。それを見つけること。そのためには、ほんとうにアンテナを張り、その感度をあげないといけない。

てことで、ついつい黒板に

省略されているものを見つけることが大切!

って、でかでかと書いてしまいましたよ。

踏み絵を踏ますのは誰?

夜、ある本の出版記念パーティーの実行委員会がありました。
なかなか実務的な人が集まっていたので、非常に話は早く進み、あっというまに骨子が決まりました。よかったよかった。
で、そのあと呑み(笑)。
ギョーカイ裏事情(笑)なんかも話ながら、やっぱり普段思っていることが頭の中を行き来しはじめました。
それは、「踏み絵を踏ますのは誰の仕事か?」ということです。
例えばこんなことです。

「君がyo!」とかが鳴ったら、座る。で、あたりを見渡す。仲間だと思っていた人が立ったままだった。そしたら、その人に向かって「お前、なんで立ったままやねん!」と怒る。で、「そーゆーのは、戦線として後退してるぞ!」と糾弾モードに入っていく。

もちろん、これはあくまでも「例」です(笑)。
でも、こういうの、たくさんありますよね。

某公共機関に交渉に行く。窓口で対応した人の態度が悪い。なので、その対応した人に対して怒る。

とかいうのもよくあります。
でもね、例えば公共機関の人だって内面でどう思っているかはわかりません。もしかしたら、交渉に行った人たちにシンパシーを感じているかもしれない。でも、職務上、やむを得ずそういう態度をとらざるをえないのかもしれない。これは、「君がyo!」も同じこと。
座るか立つかは、個人の思想や生き方の問題ですが、それぞれの人々がその時にどういう行動をとるのかということについては「折りあいのつけかた」の問題だと、わたしは思っています。そこに対して「語りあう」ことはできるだろうけど、「批判」や「避難」を、そう軽々とできるのだろうか。そう思うのです。
ある物事について、どういう態度・行動をとるのかという「踏み絵」は、元来「向こうの側」がすることだと、わたしは思っています。にもかかわらず、「こちらの側」で「踏み絵」を設定し、それによって「こちらの側」が分断をされていくとすれば、それはあまりにもやりきれない。

最大公約数で闘うのではなく、最小公倍数で闘っていかなきゃ勝てないよ。