計算することと、計算することを放棄することと

この期に及んで、まだ危機感がないヤツがいます。「暴れてもいい?」と聞いて、5分後、暴れました(笑)。
まずは、手に持っていたチョークを思いきり床にたたきつけました。みんながシーンとなった次の瞬間、机の上にあった教科書を思いきり床にたたきつけました。さらに、教卓を一蹴り。ふた蹴り。なにが腹が立ったというと、歯がゆかったんです。この期に及んでも危機感がないヤツに、それよりもなによりも、怒られて静かになるヤツに。

お前らな、怒られたら従うんか。暴力には屈するんか。そんなヤツは最低や。いま、なにをするべきかを自分で考えて、ほんとうにやらなくちゃらないことを自分で選択しろ。そのためには、まず、人の話を聞け。それから判断しろ。必要な時には、暴力に対してこそ刃向かえ。
わたしはな、担任をしていた時、絶対にショートホームルームは休まなかった。それが一番大切やったからや。でもな、一回だけ休んだことがある。それは、朝鮮総連に対する不当弾圧に対する抗議行動をしにいった時や。「ホームルームよりも、抗議行動をすることの方が大切なんや」と言って、京都府警の前の抗議行動にいった。それがその時の自分の選択や。ニュースステーションにも抗議の電話をした。「しゃーないな」と練ればいいかもしれんけど、我慢できへんかった。いらん金と時間と労量を使こて抗議した。でも、その時それをしないといけないと思った。

支離滅裂です(笑)。

わたしはな、君たちに対しては権力者や。一見そうではないフリはしてるけど、40人の高校生をたったひとりで押さえつけられるのは、君たちに対して「評価する」という権力を持っているからや。
でもな、ホンマは、そんな形で君たちに数学の授業を聞いてほしいとは思ってへんね。たった一問解けた時に、「あ、気持ちいい」と思ってほしい。その気持ちの延長で、この役に立たん数学の授業を聞いてほしいと思ってるねん。

もう、なにがなんだかわかりません。
でも、いまなら切れてもいいと思いました。そのタイミングは計算をしていました。でも、その先は感情にまかせることにしました。支離滅裂であろうが、わけがわからなかろうが、そういう姿を、学年末の今出すことが大切だと思いました。だから、感情のおもむくままに語りました。そして、10分ほどたったら…。
普通に積分の授業をしていました(笑)。

ダイエットからえた教訓

わたしは、今から20年ほど前、一念発起して大ダイエットをしました。
発端は簡単。
単純に職場の宴会で飲み過ぎて、次の日胸焼けがしてものが食べられなかったというだけのことです。当時、グラウンドを20分ほど走るのが日課だったので、走って体重計に乗ってみたら1kg減っていた。さらに、その日も胸焼けがしていたので(笑)何も食べずに、次の日も走って体重計に乗ってみたら、またまた1kg落ちていた。
てことで、「1日1kgなら3日で3kgだな」と思ったわけです。で、どこまで落ちるか、極限までやってみようと思いました。
食生活はその日を境にひじきやおからやキノコ類。米は食べない。外食もしない。どうしても肉を食べなきゃならない時は、脂身をすべてはずす。で、カロリー源はエビスビールのみ(笑)。
この食生活で、毎日10km走ったら、半年で20kg落ちました。
てことで、ダイエットってとっても簡単でした(笑)。
それから10年後。
ヒゲをはやしたお兄さんが、気がついたら変貌を遂げていた。

てことで、ダイエットとトランスからえた教訓。

人間は変わりうる存在である。

変わりうるからこそ、おもしろい。変わりうるからこそ、可能性がある。
変わるから堕落することもあるけど、変わるから向上することもある。そして、堕落も向上も、実はそんなに区別がつくものではないんじゃないかなぁ。
だから、変わりうる自分が好きだし、「変わりうる」ことを前提に人とつきあいます。すると、そう簡単に「人」をひとつのパターンに決めつけられなくなります。なので、常に評価はベンディング。

まぁ、そういうわたしって、単に優柔不断とか、一本線が通っていないとか、首尾一貫していないとか、まぁそういうだけのことかもしれませんけどね(笑)。

心のざわめき

今日は昼から組合の女性部の学習会に行って来ました。講師は三輪敦子さんという方です。
今日の話はきわめて初歩的だったので、ちょっとものたりなかったかなぁ。ただ、「ジェンダーという概念が根本的に抱えている問題点として、性別2元制をその考え方の基本においている。なので、多様な性という観点が抜け落ちやすい」「「個別」ということを大切にあるので、「平均」というとらえかたと相反することがある」といった提示をされたのは、ある意味新鮮でした。なんというか、いままでジェンダーに関する話を聞くたびに頭では納得しながらも自分が「外」におかれている気がしてならなかったのですが、その理由がある程度鮮明になったかなぁという感じです。まぁもちろんこれだけじゃないですが…。
三輪さんのお話の後、小学校・中学校の「男女共生教育*1」の実践例を提示されたのですが…。
まずは、直感的に思ったのは、「男女共生教育」と「性教育」と「生殖の教育」がすごく混同されてしまいがちなのではないかということです。もちろん、それぞれに不可分なところがあるのは当然なんですが、「切りわけ」をきちんとこちら側が意識をしていないとゴチャゴチャになっていく可能性があるなぁという感じがしました。
それから、2つほど疑問がわきました。

  • ひとつは、「違うのは「生物的な差」だけ」という言説は、身体の性別の絶対化・固定化を招くのではないか?
  • もうひとつは、例えば「ランドセルの色」みたいな学習が、はたして「労働観」「家族観」に結びつくのか?

ということです。
ま、このあたり、掘り下げがないので自分の疑問をメモっておく程度で終わっておきます。
そうそう、おもしろかったのが、ジェンダーと階層のとらえ方の2つの観点です。
ひとつの立場が「「ジェンダー」には階層という概念が含まれている」とする考え方*2。もうひとつは「「ジェンダー」はもともとは単なる役割分担で、階層はない。そこに男性が優位であるという価値観が持ち込まれることで階層という概念が発生した」とする考え方。後者の方は、発展途上国におけるジェンダーのとらえ方によくみられる考え方とのことです。
これまた、自分の中での掘り下げがないので、メモっておく程度にしておきます。

*1:っていう名前の方が風当たりが少ないのかな?

*2:上野千鶴子とか

モットー

この間のお友だちからメールが来まして…。

……ずいぶんな書かれようで。

いえ、けっしてそんなつもりじゃなくて…。
で、その後の言葉にハッとさせられました。

「疑問はその場で解決する。
特にもう2度と会えない、訊けないだろう相手は逃さない」というのがモットーなんですよ。

そうなんだ!すごい!
うん、わたしも「13万円で生活できるのかなぁ」と思いました。でも、できるのかどうかは本人に聞かなきゃわからない。そこから「事実」というものと向きあうことができる。
そういえば、解放教育の合い言葉があります。
わからないことは本人に聞け
通じるものがあります。
本人に聞くことで、「本人」自身が自分を問うこともまた、あるわけです。「聞く」「聴く」ということは、そういうことでもあるんでしょうね。

そうそう、そのお友だちから、池上さんが「まとめ」で言われた言葉が送られてきました*1。いくつか言われた最後のメッセージです。

私が今みなさんにご紹介したい言葉。「Think Globally , act locally」(考えは世界的に。行動は足もとから)」

これから1年、この研究集会でシャワーのように浴びたさまざまなステキな出来事を糧に、「また来年行くぞ!」と思いましたよ。

*1:ほかにもいっぱい知りたかったことが入っていました

一番しんどかった時期

わたしがトランスジェンダーという言葉と出会い、自分がそうであることを確信したのが1997年頃です。でも、そこから3年間が、わたしにとって一番しんどい時期だったかもしれません。
それまでは、自分が何ものかわからない状態ではありながらも、イマジネーションの中の自分とリアルな自分を切りわけることで、現実の生活は営めたわけです。でも、「トランスである」ということを知ってから、その切りわけができなくなりはじめました。
「トランスである」ことと「トランスとして生きる」ことは、実はぜんぜん違うと思います。
自分がトランスであることを知り、「トランスとして生きよう」と決めたのですが、具体的に、「なにをしたいのか」が自分の中でイメージできません。なので、「どうすればいいのか」も当然わからないわけです。何をしたいのか、何をしなくちゃならないのか、自分を実現するためには何をすればいいのか。ぜんぜんわからないままに、それでも「トランスとして生きたい!」と思い続けた3年間でした。
そんなわたしの転機のうちのひとつが、中島豊爾さんとの出会いでした。別になにかを教えてもらったわけじゃない。ただ単に、中島さんの「仕事をしており家族がいるいつきさんが、SRSまでやるとしたら、何が障碍になるのかなぁ」という独り言を聞いた時、「自分がやりたいことをやればいい。それをするのは自分自身なんだ」と気づかされたのです。と同時に、「誰かが邪魔をするわけじゃない。邪魔をしているのは、自分自身なんだ」ということにも気づきました。
そこから、自分の意志で少しずつ少しずつ「扉」を開いていくことにしました。「扉の向こう」に何があるのかは、実は今でもわかりません。でも、開け続けるという生き方を続けていくことに意味があるのかなぁと思ったりして…。

水平社運動の光と陰

今日は、水平社博物館までみんなでおでかけです。
案内役&午後の講演は展示員の金井英樹さん。ある意味、ものすごく豪勢な案内人です。
従来、解放運動の世界では「水平社=OK」「融和運動=NG」みたいな語られ方がされてきました。でも、最近では融和運動の再評価がされると同時に、戦時下における水平社のありようへの総括みたいな話も出てきています。
水平社博物館の展示を見ても、ここにあるように*1国家総動員態勢のもと、水平社を存続させるのか解消させるのか、存続させるにしてもどのようにして存続させていくのかといった路線の違いからさまざまな分裂していきます。
このあたり、従来は「大政翼賛体制のもと、自然消滅させられていった」と言われていました。図としては、ここで書かれているような感じです。これ、かつてわたしも教材をつくる時にこういうふうな感じでつくっていました。これ、先に見た水平社博物館の展示パネルとの最大の違いは「分派したかどうか」なんじゃないかなぁ。
そもそも、水平社というか反部落差別の闘いの「根拠」って、「解放令」にあったりして、しかもそれを出したのは明治天皇っていうことで、「差別をなくせ、さもなくば勅命をなくせ」みたいな論で闘うこともあったそうです。
てなことを書こうと思っていたのですが、話の内容があまりにも多岐にわたってしまい、とてもじゃないけどまとめきれません。なので…。

一番印象に残ったことを。
水平社の綱領って、はじめは「部落民自身の行動によって絶対の解放を期す。人類最高の完成に向って突進す」だったし、その後も「我等は、集団的闘争を以て政治的・経済的・文化的全領域に於ける人民的権利と自由を擁護伸張し、被圧迫部落大衆の絶対解放を期す」だったんですよね。それが、戦時下においては「吾等は国体の本義に徹し国家の興隆に貢献し、国民融和の完成を期す」に変化していきます。
ここに、戦争のおそろしさがあるということです。
さて、「いま」はどのあたりにあるのかなぁ…。

*1:てか、このパネル、今展示されているものとは少し違います。

遅刻?

厳密には遅刻じゃないんですけど…。
スキースクールをやっていると、「困った!」と頭を抱えることがよくあります。
てか、よくゲレンデにあるスクール*1だと、基本は半日ですからそういうことはないのですが、ウチのスクールは基本はコースなんです。長い人だと1週間ほど延々とスクールに入りますし、相場としては土・日の2日間、半日×4回をワンスパンにして入られます。ですから、こちらも、それなりに「次の半日はなにをしよう」と考えながらレッスンを進めていくわけです。
ところで、困るのが「途中から入ってくる人」です。レベル的にウチの班ですが、ちょっと低めみたいな…。
今回はそういうパターンです。
いままで一日半レッスンをしてきて、「最後の半日は総仕上げ!」と思っていたら、ちょっとご高齢の、でもそこそこ滑れる人が突然半日だけ入校。これ、半日だけというのがまたミソなんですよね。ここから2日とか入校されるなら、この半日は完全に今まで入っておられた方々にシフトできるのですが、半日だけだと、その半日にそれなりにアドバイスを伝えなくちゃなりません。
さぁ困った…。
他の3人はいままでやってきたことを、そのひとりのためにもう一回やらなくちゃなりません。でも、「またか」と思わせないのがスキー指導のコツです。さてさて、どうなる?

まぁ、でも、これって、授業でもあるんだよなぁ…。数学苦手な子に限って、いま説明して「さぁ練習問題!」という時に入ってきて「どうやんの?」みたいな。

*1:つまり、SAJね

どこまで行くんだろう…

また、今日ひとつ「暴挙」があった。あまりにも頻繁にあるので、何度あったのか忘れてしまいそう。今回も、2年前の「数」を背景に、強引に行われた。
そもそもその「数」は、2年前のまったく違う論点を背景にかすめとったものだったはず。その後、トップが2回変わったにもかかわらず、一回も「信」を問うことなく、どんどん進んでいく。
それにしても、3分の2という圧倒的な数を誰かに与えるということがいかに危険なことなのかということを、わたしたちは心に刻まなければならないと思う。
数は制度となり、それは既成事実としてわたしたちを拘束する。しかし、その拘束された状況にすら、慣れがやってくる。その時、それが「危険なこと」であったことを忘れてしまう。そんな「慣れ」から脱出し続けるために、常に「辺境」に居続けること。自分を「マジョリティ」にしていこうとする網目から逃げ続けること。
そういえば、「人間は上に向かって堕落する」といった人がいたっけ。
このことも心に刻んでおこう。

スキーの楽しさ

いつも「スキーの楽しさ」ってなんだろうと思います。
かつて、貪欲にスキーをうまくなりたいと思っていた頃、スキーをすることが苦痛でした。
スタッフトレーニングでうまくいかないんです。緩斜面で「後傾」とひとこと指摘をされます。たぶん、乗っている位置そのものが違うんでしょうね。でも落ち込むんです。リフトに乗りながら下を見ると、みなさんすごく楽しそうに滑っておられる。別にうまかろうが下手であろうが、それとは関係ないんですよね。もう、スタッフをやめて一般スキーヤーになろうかと思いました。でも、一緒にリフトに乗っていたスタッフが「でも、それでいいんですか?」とグサリ。それではよくないと思っているわたしの思いを突いてきます。
いまも、まわりから見たらそこそこの滑りをしているとは思います。もちろん自分では満足できていません。でも、最近、そういう伸びしろを楽しむことができるような気がしてきました。「あぁ、もっとうまくなりたいなぁ」と素直に思えるようになってきました。たぶん、それぞれの年齢で、それぞれの達成したいレベルがあって、そこに素直に向きあっていく。そういう向上心を持つことができるスポーツなんです。
と同時に、そういう心を持とうとする人に許されている「自然」がある。それはおそらく「技術」とは別のものなんですよね。うまいからそういう自然と触れられるわけじゃないです。もちろん、うまい方がレンジは広いかもしれません。でも、それよりもなによりも、「楽しもう」という思いが「自然」とふれあう余裕を持たせてくれます。緩斜面に載っているほんの少しの新雪に「ひゃっほーい!」と声をあげられる気持ちの中に「楽しみ」があるんじゃないのかなぁ…。

「違和」という言葉

どうも前から「いつごろから性別に違和感があったんですか?」という質問に「う〜ん」となってしまうんですよね。で、わたしの答えとしては「違和感を感じるのは「違和感という感覚が存在する」ということを知らないと感じられないと思うのです。なので、そういう質問に対しては「ありません」と答えるんですよね。でも、反対の性への同一感はありましたよ」みたいな言葉でごまかしているんです。
で、きのう、診察室でそういう話になった、と。
で、お医者さんが言われるには「「違和」という言葉は、「現実を認識しながらもそうではないという感じがする」という言葉なんですよね」とのこと。わたしなりに直感的に理解するならば、認識と感覚の矢印が反対方向を向いている感じでしょうか。
例えば、「実際には聞こえていないことがわかっていながら聞こえるような気がする」=「幻聴」になります。こういうのが「違和」。で、もしも現実の認識そのものがずれていて「聞こえるねん」となったら、それは「妄想」ということになるそうな。
で、その「違和」というのは、自分自身で命名するというよりも、さまざまな話を聞いた他人が「違和」と名前をつける感じだそうです。つまり、話を聞いた後に「あぁ、そういう違和があったんですね」みたいな。
逆に「いつ頃から違和感がありましたか?」みたいな質問って「いつ頃から幻聴があるんですか?」という感じなわけで、「いついつから幻聴が聞こえます」みたいな答えが出せるようだったら、「すでに幻聴じゃない」ということだそうな。
なにを書きたいのかわからなくなりつつありますが、簡単に言うならば「いつ頃から性別違和を感じましたか?」みたいな質問って、あまり適切な質問じゃないんじゃないかということなんです。どちらかというと、使い方としては、さまざまな質問へのさまざまな答えを総合的に判断しながら「そういう違和があったんですね」と他者の側からまとめてみる、みたいな使い方の方がいいのかなぁという気がしたんです*1

*1:もっというと、精神科医のファーストコンタクトとして「違和感はありましたか?」みたいな質問ってどうよ、みたいな。そうじゃなくて、いろんな話を聞いて、カルテに「性別違和がある」と書くみたいな言葉なのかな?と