今日は昼呑みしながらのインタビューです。もちろん、わたしは受ける方。でも、実はどんなインタビューかよくわかってなかったり。でもま、なんとかなるでしょう。
で、お店に入って趣旨を説明されて、なるほどなと。「アライをめぐる話」でした。
なんか、アライ論争ってあるみたいです。が、基本線としては「アライはアカン」みたいな感じなのかな。まぁ、根本的な話として「アライは「ally/foe」という軍隊用語で、それを使うのはどうよ」ってのがあったりして、ま、それはそれでいいよねとは思います。が、一概に「アライ」をバッサリと切ることにいかほどの意味があるかなと思うのです。
ちなみに、「アライ」=「非当事者の支援者」とするなら、当然のことながら「当事者とは誰か」という話が出てきます。これ、そんなに簡単なことじゃないです。いや、「疑いようもなくわたしは当事者なんだ」と思ってる人には「なに言ってんだ」ってことになるんだろうけど、そこで一度立ち止まりたい人にとっては、「そうだよなぁ」ってなることですよね。
例えば…。
かつて「日本籍朝鮮人」は「日本籍」ゆえに当事者とはみなされてこなかった。でも、それに異を唱える人が出てきて、当事者性を獲得していったということがある。あるいは、HIV訴訟の支援者の中にHIVポジティブであることをカムアウトせずに支援者としてかかわる人がいた。この人は当事者なのか支援者なのか。さらには、例えばDSDsの身体を持っていたとして、そのことでさほどの不都合もなく生きることができる人が仮にいたとして、その人が検査を受けないがゆえに自分のことを知らなかったとして、その人は当事者なのかどうなのか。そしてなにより、さまざまな人々が自分のことをどう定義するのかです。
てことで「アライの定義は?」と聞かれたので「自己申告でしょう」と答えました。
それにしても、なぜ「アライ論争」が起こるのかなぁということをあらためて考えた時、もしかしたらと思ったのが、「LGBT当事者」の中には、「アライとしての自分」という経験を持ってない人が多いからなんじゃないかなって、ふと思いました。
わたしは部落外の人間として、あるいは日本人として、解放教育や在日外国人教育にかかわっています。その立場は、まさに「アライ」です。じゃあ、その「アライ」であるわたしが、例えば自分の出自にであることに無自覚かつ運動にもかかわっていない「当事者」と比べて、なんらかの非難をされるべき存在かというと、そんなことはないと思うのです。というよりも、もしも先に述べたような人が、こんなわたしを非難するとしたら、それは「当事者」にあぐらをかいているだけだと、わたしは思います。
「○○でないお前に何がわかる」とは、わたしは言われたことがないけど、まぁ定型句です。今のわたしなら「わかるわけないやん」と言います。だって、わかるわけないもん。で、わかるわけないことをあえてこういう言い方をするとしたら、それは「当事者」にあぐらをかいているだけだと思います。そう思うわたしは、「なんらかの当事者(笑)」になった時に、「これだけは言わない」って決めました。わたしはあぐらはかきたくない。
で、もとにもどります。
そんなことを考えるわたしが、「アライとは誰か」と言われたら、先に書いたような「自己申告」です。「いや、でも、自分の利益のために「アライ」という言葉を自称する人がいる」なーんて話が出てきたら「困ったねぇ。でもま、しかたないんじゃない?」って言っちゃいます。なぜなら、たぶん、深くコミットメントしてる人は、すでに「当事者」だからです。その当事者性は、「いわゆる当事者」とはレベルが違う。そして、そんな人は、自分のことを「アライ」とも「当事者」とも言わない。例えばHがしさんみたいにです。
一方、「当事者」という言葉しかないなら、それに対置する言葉は「非当事者」しかなくなる。そんな時に「アライ」という言葉があれば、そこでとりあえずアイデンティファイすることができる。もちろん「とりあえず」だから、やがてはそこから離れたらいい。
そんな、「仮置き場」としての「アライ」はあっていいだろうというのが、わたしの考えなのですが…。
まぁ、最後はどうでもええんですけどね(笑)。
てことで、デカンタで頼んだワインを飲みきったら、かなりフラフラになりました。
さてと。帰ろう。