1945±66

今日から期末試験です。てことは、午後に比較的フリーな時間ができます。こんな時は、こんな時にしかできないことをしなくちゃなりません。
てことで、大正区へ。いや、秋に予定している人権教育研究会のフィールドワークの打ちあわせです。
去年から研究会の事務局をするようになったんですが、けっこうたいへんです。やっぱり事務局というのは、研究会全体の方向づけをしなくちゃなりません。事務局長はそれにプラスして、外の団体とのいろんな雑事があるわけで、そうなると内側の雑事は事務局員がしないとまわりません。特にわたしについては、研修会の講師を考えたりフィールドワークの行き先を考えたりという、ある意味とてもクリエーティブ(笑)な役割がまわってくることが多いんです。で、
「秋のフィールドワーク、どこにしよう…」
と考えた末、8年前に一度だけお邪魔した「関西沖縄文庫」にしようと思ったわけです。

さて、大正駅に着いたら約束の15分前です。これはヤバイです。走ろう…。って、遠い。かなり遠い。荷物がなければいんですが、妙に荷物が多くて、しかも小雨が降っていて、、そんな状態で走ると汗だくです。
なんとか約束の5分過ぎに到着。ほどなく金城馨さんの登場です。8年前にお会いした時と全然変わっておられません。
「あの、8年前に○○大学のフィールドワークにくっついて来たんですが」
「あぁ、そんなことがありましたね」
お、覚えているのか?まぁたしかにフィールドワーク中つきまとっていたからなぁ…。

そこからしばらくよもやま話というかぼやき話がはじまります。
金「そう言えば、京都の○○高校の先生はご存じですか?なんか、最近学校に行っておられないとか。まじめな人ほどそうなっちゃうんですね」
い「…。すみません(笑)。でも、わたしも真綿で押しつぶされるような閉塞感は感じているんですよ」
金「そうですか。京都も大変ですねぇ」
い「いや、それをいえば大阪の方が」
金「たしかに…」
完全にぼやいています。ところが
い「もうね、どうやったら勝てるのかと思いますよ」
あたりの言葉が引き金になったのか、金城さんの言葉に徐々に「熱さ」が加わりはじめます。
金「最近ボクは「死に様」を考えているんですよ」
い「死に様ですか」
金「みんな「生き様」を考える。でも、生き様は簡単に言ったら自慢話でしかない。そんな自慢話に誰も共感しない。にもかかわらず「一緒にやれ」という時に「民族」とか「国家」が出てくる。でも、それは強制でしかない」
金「「生き様」は輪の半分。残りの半分が「死に様」で、「死に様」を経て一周する。その時に再び「生き様」にもどるんだけど、その時の生き様はたぶん最初のものとは違う」
金「「連帯」という言葉は、「違う」ということを前提としている。本来は思想的な言葉。それに対して、「共闘」は、当面一緒に闘うという意味で、政治的な言葉。「同じ」という言葉は、実は政治的な言葉。それは思考停止を招く。「違う」ということは考えないとわからない」
金「リアリズムというのは虚構だ。その最たるものがリアリズム演劇。あんな現実がどこにある?それに対して、シュールレアリズムは、シュールを通して虚構を現実に引きもどす」
おそらく金城さんの言葉を正確には伝えていないし、間違いもたくさんあると思います。それにしても、すごくおもしろい。そして、なんかわかるんですよね。で、なんでなんだろうと思った時、
「そうか」
とふと思いました。それは、おそらくは金城さんもわたしも、規模の違いやフィールドの違いや深さの違いはあるかもしれないけど、「ピン」で活動をしているということ。もちろん、ものすごくたくさんの人の支えの中にあることはわかっているんだけど、でも、誰をも代表せずに、組織をつくることも依拠することもせずに、自分の経験と感覚と感性で活動をする。そんなピンだからこそ感じること、ピンだからこそわかることが、たくさんあるんだろうな。

そうそう、1945±66のこと。
1945+66=2011は今年のこと。1945-66=1879は琉球処分の年。132年を1945という区切りで半分に折ると、今、まさに琉球処分と同じ状況があるということ。
きっとその話を秋のフィールドワークで聞けると思います。楽しみだ!

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