最近「トランスって何だろう?」と考えることがよくあります。
わたしはトランスをしているのかしていないのか。
確かに、ヒゲは脱毛しました。パーマをあてるのもやめました。髪を伸ばしました。服もレディスを着るようになりました。ホルモンもはじめました。でもそれがトランスか?少なくともわたしは違うと、いつも感じています。
じゃぁ、トランスっていったいなんだろう。
それはもしかしたら友達関係というか人間関係の中にあるのかもしれないと、最近思うのです。わたしの友達や家族が、わたしをわたしの望む性別で受け入れてくれているかどうか。そこにトランスの本質があるんじゃないかなぁと思ったりもするのです。
極論すれば、ヒゲ面のくちゃくちゃ頭の「わたし」を、わたしの望む性別で受け入れてくれる人間関係があれば、そこにトランスはあるんじゃないだろうか。
じゃぁ、なんのために脱毛をし、髪を伸ばし、レディスを着るのか。
簡単に言えば、「自己満足」なんだと思うのです。だって、自分にとって楽な姿になるというだけのことですから、それは「自己満足」と言えるのではないかと思うのです。で、その内容はというと、極めてジェンダライズされた「自己認識」に、自分をあわせているだけのことです。もちろん、「できること」「できないこと」はある程度は考えていますし、「あわせる」のは「受け入れてもらいやすくする」というところも含みこんではいるのですが…。
ということは、もしかしたら、「フルタイムのトランス」って、「いつも自分の望む姿でいる」ということじゃなくて、自分の望む性別で受け入れてくれる人間関係を、日常の場においてつくること、ということなんじゃないのかな。
でもね、そういう人間関係をつくっていくと、中には、自分自身のありようを問い直してくれる人が出てくるんだよね。いや、こういう言い方はよくないですね。おそらくは、もともと自分自身のありようを問い続けている人が、「トランス」という事象と触れることによって、ひとつのきっかけを手に入れるという方がいいのかもしれない。そういう「既得権益としての性別」を問い直す人は、おそらくは「トランスの仲間」なんじゃないかなぁ。
>わたしの望む性別で受け入れてくれる
他者が「わたしの望む性別で受け入れてくれ」やすくするためには、どうするか?という視点もあるのではないでしょうか?
MtFの場合、「ヒゲ面のくちゃくちゃ頭」で、他者に「わたしが望む性(女性)で受け入れてくれ」というのは、かなり困難な要求だと思います。
他者が、「わたしが望む性(女性)で受け入れ」易いように自己変革する姿勢も大事なのではないかと思います。
> 姐さん
「ヒゲ面云々」は「極論」と書いたとおりです。
あと、「受けいれてくれる関係」というのは、「受けいれてくれ」と一方的に要求することでは得られないと思っています。そのなかにはもちろん、「受けいれてもらいやすい恰好をする」ということもあるでしょう。しかし、「受けいれてもらいやすい恰好」をすればそれ「だけ」でOKと考えてはいけないだろうと思っています。
さらに、「自分がしたい恰好」=「受けいれてもらいやすい恰好」ではないとも思っています。
で、わたしが書きたかったのは、「いつも望みの恰好をすること=フルタイムのトランスだろうか?」ということなんです。
>「フルタイムのトランス」って、「いつも自分の望む姿でいる」ということじゃなくて、自分の望む性別で受け入れてくれる人間関係を、日常の場においてつくること
それはそのとおりだと思います。
人間関係を遮断して引きこもり状態で、自分の望みの性で暮していても、はたして意味があるのか?ということです。
今までのトランス業界をみていて、性自認を強調するあまり、性他認を軽視しすぎているように思っているので、あえて最初のコメントのような指摘をしました。
> 姐さん
わたしはもうひとつの「人間関係の遮断」のことも気になっています。それは、性自認を強調するあまり、その性自認を他者に強制してしまうという意味での性他認の軽視です。
トランスって、傍目からは「突然」に見えるかもしれないけど、少なくとも人生における連続性を持ちながらのトランスは、実はまわりの人々との長い長い人間関係を構築した先にあるんじゃないかなぁとふと思いまして…。
結果的に引き籠もってしまったワタシには、耳が痛い議論だす…
い、いやその^^;;