でもわたしは会場を脱出!

感動している割りに、「むずかしい話はわからへんねん」とか言って、肉体労働をしに会場を出ました。
向かったのは、ウトロの広場。すでに焼肉の準備は始まっています。わたしも準備に自主的に参加。まずはブルーシート敷きとか七輪の準備とか。そのうちオモニ達がキムチとかコンナムルの盛りつけを始めます。これがまぁうるさい。ひとりひとりが船頭なので、ひたすら言いあいをしながらの準備です。まぁこれが日常なので、みなさんなんとも思っておられないでしょうけどね。で、わたしもそんなところに混じってワイワイ騒いでいました。
やがて「町内会長さんがこっち来いと言っている」という伝令が来たので、七輪を囲むことになりました。知らない人とも七輪を囲んで焼肉をつつくとすぐに仲よくなります。
やがてノレがはじまります。チャングやケンガリの音が鳴りはじめます。もう我慢ができません。ウトロの集会所の責任者の方に
「プク、とりに行きたいんですが」
と言うと、カギ束をわたしに渡しながら
「これで支部の事務所に入ってとってきて」
って、いいのかい!
あとは、ノレにあわせて延々とプクを叩きました。
8時頃にお開き。片づけを済ませると、またまた会長の声が飛んできます。
「今からもうちょっと呑むからおいで」
てことで、ウトロの奥の方にあるハルモニの家におじゃま。「KIN」(地球村同胞青年連帯)の人たちと一緒に呑みです。またまた途中からノレがはじまります。わたしにも順番が回ってきたので、しゃーないので「international」を歌ってしまいました。
てなことをやっているうちに、急激に体調がやばくなってきました。これは帰らなくちゃ…。
てことで、大急ぎでお家へ。つっても、1時間かかるよorz

ウトロ歴史資料館のための国際ワークショップ

午前中は自転車の手入れ。見栄えもちょっとマシになってきました。
で、午後からはウトロへ。
考えてみると、京都在日外国人高校生*1交流会が1997年秋にやった交流会では、東九条フィールドワークをしていたんですね。その時の写真がこれです。

当時はスキャンした写真を「どーせ」と思っていたので白黒で保存していたんです。
これ、参加者が東九条の40番地、いわゆる「堤防の街」を歩いている風景です。それが、いまや跡形もなくなっています。東九条に限らず、ほとんどの部落では地区改良前の風景は跡形もなくなっていて、とってつけたような*2町並みが並んでいたり、唐突な*3団地があったりというふうになってしまっています。
もちろん住環境が改善・整備されているわけで、それはとても喜ぶべきことなんですが、一方、「歴史」をなかったことにしてしまうことが可能になるわけです。
なので、ウトロでは「歴史資料館」をつくろうという話が、まちづくりの計画が持ちあがると同時に出てきていました。
で、今回は、丹波マンガン記念館の李龍植さんをお呼びして、歴史資料館をつくることの意味みたいな話をしてもらい、守る会からは田川明子さんに話をしてもらうというワークショップが開催されました。
李さんの話からは、政府がいかに歴史を消し去ろうとしているのかということが、ご自分の体験を通して、これでもかこれでもかと突きつけられました。また、田川さんの話は、ドイツにある小さな町の教会がもともとは強制収容所だったことから、町の人々がその歴史を保存するべく歴史の発掘をされた事例が紹介されました。
いずれの話も、「歴史」と向きあうこと抜きに今・これからを生きることができないこと、にもかかわらず、どんどん資料がなくなっていくことの危機感を語られました。
田川さんの話の中にあったエピソードを備忘のために書いておきます。

今から20年前に「守る会」ができた時に、あるハルモニから「なんで終戦の時に守る会がなかったのか」と言われた。

みなさん、「恨(ハン)」を抱えたまま死にたくはないのです。

その後いろいろあったので(笑)、断片的な記憶しかなくてわけわからんけど、ほんとうにいい話でした。

*1:当時

*2:と書くと語弊があるか…←こればっか

*3:ん〜…

「呑み」はまだ続く

三条から3人でブラブラと散歩を開始。向かったのは烏丸今出川です。
なんでも今日はフィリピンで起こった大地震の救援カンパの意味を込めて、バザールカフェで「フィリピンナイト」があるとか。知りあいのKリサさんも厨房に入っておられるとのことで、「これは行くしかないな!」となったわけです。
到着すると、えらい大勢の人が来ています。さすがに京都という感じです。どこからともなく情報がまわって、どこからともなく人が集まって来るという感じなんでしょうね。
会場では定住しておられるフィリピン人はもちろん、留学生もおられます。日本語・英語・タガログ語が飛び交いながらのひとときを楽しみました。
にしても、レチェ・フランおいしい!サンミゲルおいしい!
なんか、そんな夜でした。
家に帰ったのはたぶん9時頃ですが、そのまま居間で倒れてしまいました。

で、うちあわせ

家に帰って、とりあえず自転車を引っ張り出します。高校の頃から乗っているロードレーサー、さすがにブレーキレバーについているゴムのところが溶けてしまって、えらいことになっています。こいつを新しい*1に交換です。いままではレバーの上からワイアーが出ていたけど、今度のはバーテープと一緒に巻き込むタイプです。どんな感じになるかな?
でも、なんだかんだと手間取って、バーテープを巻くところまではいきませんでした。まぁいいか。
で、そのままロードレーサーにまたがって、三条へ。おたふくにいって12月にやるお座敷の打ちあわせです。
そこの中学校、11月〜12月にかけて4回特設の授業をやるそうです。わたしがお世話になるのはその3回目。ほんとうはもっと早い方がいいんでしょうが、どうしても日程があわなかったんです。すみません。
ふだんは1時間〜2時間ほど枠をもらって好き放題させていただいているわけですが、今回は前2時間をふまえて話をして、あと1時間事後学習をされます。なので、事前学習の内容を教えてもらいながら、ある程度一緒につくっていく必要があるのですよね。
で、まぁビールを呑みながらプランをつくると、けっこう大胆な話が出るわけで、ほんとうにやったらおもしろいだろうなぁという授業案ができました。もっとも、やるかどうかは授業者の胸先三寸ですが(笑)。
1時間ほどで打ちあわせは終了。あとはもちろん呑みです。
しばらく呑んでいると、A久◯さんが卒業生のTる田さんと一緒に登場。しばし5人でワイワイ。で、3時頃に打ちあわせに来られたお二人は退散。阿◯Zさんと鶴Tさんとわたしはここから仕切直しです。なんの話をしたっけか…。
5時頃におたふくを退散。

*1:といっても25年ぐらい前の品物

撤収

朝起きると、枕元に名刺があります。そうか、ヤツも来たのか…。起きてたらよかったなぁ。でもまぁ、うまくいけば来年会えるかもしれないから、それを楽しみにしておくことにしましょう。
今日は昼から用事があるので、早々に撤収開始。若い衆がそれなりに働くので助かります。まぁこういう「タスク」を繰り返すことで、チームがつくられていくんだと思います。プログラムってそういうことなんだろうなぁ。

秘密の焼肉

今日〜明日は、京都府内の某所で、某グループの焼肉大会です。まぁいろいろあるので伏せ字ではありますが、毎年この時期にやっているヤツです。
夕方某所に集合。やがて、続々となつかしいメンバーがやってきます。山の中なのでちょっと肌寒いのですが、これが焼肉とマッチします。みんなで昔話をしながら肉をつつくのは、やっぱり楽しい。
でも、あまり飲み過ぎるといろいろヤバイので、今年も10時ぐらいに布団にはいることにしました。布団の中でホッと一息ついたら、あっという間に寝てしまいました。

誰のために使うのか

昨日の日記の内容をお風呂で考えたきっかけは、もちろん「とある事情」なんですが、もうひとつあったのは、この日の金香百合さんとの会話だったんですよ。
わたしが
「講師には権力がある。当事者には権力がある。それが怖い」
と、いつもの話をしていたら、次のように言われたんですよ。

権力があることに対して謙虚になることは大切だ。でも、その権力は「権力を持たないマイノリティ」のために使うのであれば、あってもかまわない。その権力を「自分のために使う」ことにこそ問題がある。

なるほどと思いました。まぁ「誰のために使うのか」ということは、わたし自身のテーマだし、そういう意味では同じことを言っておられたのかもしれないのですが、すごく「ほぉ〜!なるほど!」と思わされたということです。

読書感想文・再び考えた

とある事情があるので、お風呂の中でこの日に書いた読書感想文のことを反芻していました。
前回書いた時は「「共依存関係に裏打ちされたDVのストーリー」と乱暴なことを書き、さらにその共依存の根底に「当事者至上主義」があると、これまた乱暴なことを書いていたんですが…。なにか自分の中で「足りない」とずっと思っていたんです。で、お風呂の中で「あ!そうか!」と突然気がつきました。
あの本の中の登場人物は、ほとんどの人はドラマはあるにしろ、「変化」をしないんです。ところが、唯一「変化」をし続ける人がいる。それは「今日子」です。
はじめは「シングル女性のトップランナー」、そして「ハジメの妻」、そして「母」
この変化は同時に、「非当事者」→「当事者の随伴者」→「当事者の肉親*1」という変遷をも意味します。まさに、「女性は相手によって立場を変える」ということを地でいっているわけです。
こうした「変化」のことを、「変幻自在でうらやましい」と思っていた時期が、わたしにはありました。だって、永遠に立つことのないはずの「当事者」に、結婚し出産することによってやすやすと*2立てるわけです。さらにそこに「当事者の特権」なんかが付随した日には、「どないやねん!」という気になるわけです。
ちなみに、こういうことは、「被差別の当事者」だけじゃなくて、「社長夫人」とか「皇后(笑)」とか、まぁいろんなところにあるわけです。もちろんこれは、「女性の主体性」というものと引き換えになっているわけですが、逆に言えば引き換えにすれば、こういう「変幻自在さ」を手に入れられる。
で、さらにいうと、「引き換えにしない人生」を選択すると、「変幻自在さ」を得られないばかりではなく、「変幻自在さを選択した女性間のヒエラルキー」のさらに低位におかれることもまたあるわけです*3

なんだかゴチャゴチャしてきたけど、こういう「変化する(せざるを得ない)女性」というものを、今日子はラストシーンにおいて無批判に引き受けている気がしてならないんですね。いや、批判的に引き受けているのであれば、それはそれでひとつの主張として受けとめられるのですが、あまりにも無批判、いや無意識、さらに言えば肯定的に引き受けているような気がします。

おそらくは、最初に書いた「足りない」という感覚は、そこにあったのではないかというふうに思います。少なくともひとつの差別の現実を描こうと思った小説の根底に、実は他のストーリーが流れている*4あたりに、まさに人権をめぐる運動の「今日」があるのかなぁなどと、えらい風呂敷を広げてしまったりして^^;;

*1:≒当事者

*2:とまで書くと語弊があるか…

*3:知りあいにたくさんいる

*4:有り体に言うならば、他の差別を肯定的に描いてしまっている?

たまった原稿

この間、個人的なことがなんにもできなかったツケがここでまわってきます。これの〆切が昨日だったんですけど、ぜったい無理やし…。担当の方に、きのう「おたふく」から
「あした必ず」
と連絡していたので、絶対に今日出さなきゃなりません。まぁ、導入部だけは書けていたので、なんとかなりました。よかったよかった。
その他、もろもろ雑務をこなしているうちに一日終了。さぁ、今日は家でゆっくりしよう。