こういう時って、「わたし」が生まれてから出会ってきたたくさんの人々と出会う時でもあります。これがまた、ややこしい。
弟はみなさん簡単に認識されます。「久しぶり」「この度は…」「弟さんですよね。ぜんぜん変わらないわね」などなど、懐かしむように声をかけておられます。続いて「お兄さんは?」。
すると、弟は「あそこに」。
「へ?いや、お兄さんのお嫁さんと違てお兄さん」
「あそこ」
「いや、あなたのお嫁さんと違てお兄さん」
「だから、あそこ」
「へ?いや〜、えらい変わらはって、ぜんぜんわからんかったわ〜」
でもそこからは
「いや〜、けんちゃん、久しぶり」
と、ごく気軽に声をかけて下さいます。わたしのほうもだんだんめんどくさくなってきているので「あ、お久しぶりです。謙一郎です」と自己紹介をするようになりました。
まぁ、どのみち「連続」が大切と思っていますから、そこを否定しちゃいかんのだろうなぁと思います。
もちろん、わたしが「いつき」として生きている事を知っている人たちは、わたしのことを「いつきさん」と呼んで下さいます。
結局、「いつき」が「わたし」であると同じくらいに、「謙一郎」も「わたし」なんだろうなぁ…。
月: 2008年4月
最後の日
朝、教会の中で目が覚めます。考えてみると、ほんとうに子どもの頃、教会学校のお泊まり会かなにかで泊まって以来ですね。窓の外ではウグイスがきれいな声で泣いています。空気は4月はじめ特有の「ピン」とした緊張感を持っています。すごく心地よい朝です。ちょっと寝不足気味ではあるけど(笑)。
とりあえず、宴会のあとを片づけて、午後からのお葬式ができるようにイスを並べ直してと。そうそう、棺の上に置いてあるワインも回収しなくちゃね。いったん家にもどってお風呂に入って支度をします。
昼前に再び教会に集合。父親の弟さんも来ておられます。まいったなぁ。「ずいぶんかわったなぁ」を連発されてしまいました。そりゃ変わりましたよ(笑)。
やがて、告別式。
聖書の箇所は父親の好きだった「フィリピの信徒への手紙 3章12節〜」です。
フィリピの信徒への手紙
- 03:12
わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。
- 03:13
兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、
- 03:14
神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。
- 03:15
だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。
- 03:16
いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。
そういえば、たまぁに父親の説教を聞いたことがありますが、この箇所はよく使っていました。そうそう、大学の頃チャペルアワーで聞いた「冬の日を走り抜こうではないか」という説教の時も、たしかこの箇所だったよなぁ。
聖書の箇所はもう一個。「使徒言行録17章の一部」です。
- 17:32
死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。
- 17:33
それで、パウロはその場を立ち去った。
- 17:34
しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。
牧師さんの話の中で、父親の「仕事」がたくさん紹介されていました。その中には「ヤスクニ」「天皇制」という言葉があちこちにちりばめられています。自分がかすかには知っていたはものの、やはりそこにまで至っていなかったさまざまなことがよみがえってきます。いや、大学の頃には「興味」でかじっていたようなことなんでしょうか。でも、そのことを深く追及せずに今まで来てしまったよなぁ。
もっかい自分のスタートラインに立ち直そうかなぁ…。
話のあとの讃美歌はこれです。
讃美歌 121番「馬槽のなかに」
由木 康 1923 ”Mabune” 安部正義 1930まぶねのなかに うぶごえあげ
木工(たくみ)の家に人となりて
貧しきうれい 生くるなやみ
つぶさになめし この人を見よ食するひまも うちわすれて
しいたげられし ひとをたずね
友なきものの 友となりて
こころくだきし この人を見よすべてのものを あたえしすえ
死のほかなにも むくいられで
十字架のうえに あげられつつ
敵をゆるしし この人を見よこの人を見よ この人にぞ
こよなき愛は あらわれたる
この人を見よ この人こそ
人となりたる 活ける神なれ
実は、ある場所に書いてあった愛唱讃美歌は別のものだったんですが、先ほどのフィリピ書とセットになって、この讃美歌をよく選んでいました。
そんなこんなで、やがて告別式も終了。最後に献花です。「親族だけで」と言われていたけど、外に行ったらわたしの「仲間」たちがなんとも言えない顔で立っています。「こいつらと一緒に献花をしたい!」という思いがこみあげてきて「入ろう!一緒に花をあげてよ。その方が喜んでくれるよ」と呼びかけました。みんな入ってくれました。
そして出棺。
斎場に行って火葬に…。
骨になった姿を見て、「なんかあっけないなぁ…」という思いがわいてきます。お骨を拾って残った姿と別れ際。小さな声で「バイバイ、またね」とつぶやいて、すべてが終わりました。
斎場からの帰り、骨壺と遺影を持って同志社の横を通って教会→実家へ。まぁ、再びいつものルートで家に帰ってきたということです。
「最後の日」は、実は「はじまりの日」でもあります。いまごろ、きっと天国で、先に逝った研究仲間と仲良く議論をしていることでしょう。
やったね!
ところで、死亡届には届出人の欄があります。わたしが持っていったので、やっぱりわたしの名前になります。性別欄がないので(笑)、生年月日を西暦にする以外は書きにくいところはありません。
で、「これ」と出したのですが…。
「あの…。届出人はご長女ですか?」
\(^o^)/
「あの、戸籍上は長男です」
「あ、ごめんなさい」
「いえいえ、長女と言ってもらってうれしいです」
「あ、そうですか(笑)」
なごんでいただけたかな(笑)。
ちなみに、窓口には「印鑑登録証明申請書等から性別欄は削除しました」という張り紙があります。で、根拠として「特例法」があります。ふぅむ…。
異様な人数
いや、参列して下さった方がという意味ではありません。出席して下さった方の中のセクマイ率が高いんですよね。
実に、MTFがわたしを含めて4人。ビアンが1人。これ、あくまでも「わたしが把握している」という範囲です。トランスはともかく、ビアン・ゲイの人は他にもいたんじゃないだろうか。そうそう、弔電も他にもうひとりMTFから来ていたし。
まぁ、そういう人だったということなんでしょう。それが、朝日新聞の特集「家族」に出てきた
やがていつきは数学教師になって、淳子(じゅんこ)と結婚。学校に来ない生徒たちの家に通ううち、校区内の被差別地区に住まいも移し、地域とかかわるようになった。在日外国人の子どもたちを支える活動もしていると聞いた。理論家である昭夫にはできない実践だった。改めて口には出さないが「よくやっている」と思っていた。
そのいつきが、性別を超えるトランスジェンダーとして生きていくという。ならば自分から言うことはない。遠いところへ行ってしまう寂しさはあるが、「そこを信頼し、支えるのが親だろう」と思った。
それより前、同志社大時代の教え子がレズビアンだと明らかにした。同性愛者がキリスト教団の牧師になることへの慎重論もあった中で、受け入れられ、堂々と生きていることを、昭夫は誇りに思っていた。セクシュアル・マイノリティー(性的少数者)としてのそんな生き方も、いつきを思うとき思い出した。
という記述にもつながっているんでしょうね。
あれから2日か…
今日は前夜式の日です。てことは、午前中はヒマかなぁ。ちょっと学校に行こうかなぁなどと思っていたのですが、完全に甘かったですね。
まずは、死亡届を書いて弟の家へ。単にコピー機があるからなんですけどね。その後、区役所に行って提出。かわりに火葬許可証とか斉場の使用願いなんかをもらいます。ついでに、今後必要になる書類の申請用紙をゲット。
実家に帰ったら、交代に、母親にわたしの家に行ってもらってお風呂に入ってもらうことにしました。なにせ、父親がもしもお風呂場でなくならなければ入れるだろうけど、ちょっとね…。
で、わたしは実家で待機。しばらくすると、花屋さんが来ました。って、約束の時間と違うよ。あわててわたしの家に電話して帰ってきてもらいました。
そんなこんなでバタバタしているうちに、徐々に家族が集合。教会に移動します。そうそう、わたしは軽食を買い出しに行かねば。しばらくすると、だんだんと前夜式のために各地から駆けつけていただいた方々がいらっしゃいました。
やがて、7時。前夜式の開始です。式そのものは、礼拝なんですが、途中4人の方々が自分なりの思い出を語って下さいました。そのうちのひとりの方の話の中に、とても印象的な言葉がありました。
かつて、自分の教会でイースター礼拝の時に説教をしてもらったことがありました。わたしは、歴史学者である土肥昭夫先生が、復活についてどのように語られるかにとても興味がありました。すると先生は言われました。「歴史には事実と真実がある。そして、復活はまぎれもなく真実である」と。
そして、8時半過ぎに前夜式終了。いろんな人と再会を喜びながらも、その底に流れる悲しみだけはどうしようもありません。
そして、9時過ぎ。教会に布団を運び込んで、もともとの家族4人の最後の宴会の開始です。父親の枕元にビールを持っていって、みんなで乾杯。教会の牧師さんも交えて、いろんな思い出話をします。泣いたり笑ったりの充実した時間を過ごさせてもらいました。1時を過ぎたあたりで、明日のこともあるので寝ることにしました。
忘れてた!
忙しいのかヒマなのか…
朝、目が覚めると6時。すごく眠りが浅かったはずなのに、身体はそれなりに動きそうです。なんかこういうの、あぶないです。
母親もそんな感じみたい。寝室から降りてきて、朝ご飯の準備をしています。「ごはんを食べる?」と聞かれたけど、昨日の夕食がすごく遅かったので、ぜんぜん食欲がわきません。すると、母親は、「お父さんに持っていってあげよう」と、これまたなんともいえないことを言います。
そうこうしているうちに、ようやく8時。今日とらなくちゃならない連絡先に連絡ができる時間にさしかかってきました。まずは、わたしの職場に連絡。続いて、司式をして下さる牧師さんや会場になる教会に連絡。9時をまわったところで、今度は動ける時間にさしかかってきます。まずは、警察医のところへ。「死体検案書」なるものを受けとりに行きます。続いて警察へ。署長のハンコがいるらしいです。検案書の半分は「死亡届」なので、いったん家に帰って書くことにします。が、ついビールを呑んでしまったので、区役所に届けるのは明日ということで^^;;
午後からは納棺式。
式そのものはあっという間にすみましたが、その後、前夜式と葬式のうちあわせ。ところが、全体像がイマイチつかめていないです。「ハァ、ハァ、ハア、そうですね。そうですね」といっているうちに終了した気がします。
その後、家に帰ってお風呂にはいることにしました。考えてみると、30日から入っていません。しかも、30日の夕食は焼肉でした。あぁ、さっぱりした。
で、お医者さんへ。無事血を抜いてもらって、実家へ。パートナーと弟の合作の夕食を食べて、ビールを呑んでるうちにどんどんおねむになります。耐えられなくなったところで布団を敷いて爆睡。