わたしの自転車は、大学生の時に組んだロードレーサーで、かれこれ25年を超えるつきあいになります。当時は、フレームから組んでいくなんていうのは、完全に趣味の世界でしたが、わたしがいきつけにしていたサイクルショップは、どういうわけかその趣味の世界にどっぷり浸かっていた人たちのたまり場でした。で、わたしも気がついたら何台か自転車を組んでいました。
ちなみに、「組む」といってもいろんなレベルがあるんでしょうけど、ここのお店はフレームを自分のところでつくっていたので、BBの面出しあたりからやらなきゃなりません。なので、まさにベアリングを一個一個入れていくところからという感じなわけです。
まぁ、10年くらいこの店でいろんな経験をさせてもらったのですが、就職にともなって引っ越しをして、それっきり自転車から遠ざかっていました。
でも、2年前に引っ越してきて、ふたたび自転車に乗りたいな、と。で、ほこりだらけの自転車を引っ張り出してボチボチと乗りはじめています。ちなみに、こんなんです。
ところが、なにしろ古い自転車なので、ゴムの劣化が激しいです。とくにきついのが、ブレーキレバー。もう、ゴムがとけてしまってなにがなにやらわかりません。あと、バーテープもボロボロ。
まぁ、これははっきり言って「衛生面にわるい*1」です。
てことで、ブレーキレバーの交換をすることにしました。といっても、すでにブレーキワイアーが上からでるタイプのレバーなんてありません。というより、あったとしてもゴムの状態は一緒です。どころか、最近のブレーキレバーって、シフトレバーと一体になっているの?んなもん、わたしの自転車にはつきませんわ。なので、エアロタイプ*2のブレーキレバーを発掘してもらいました。
今日の作業は、とりあえずバーテープをはがして、ハンドルをきれいにするところまで。あとは明日だな。
月: 2007年6月
バトン
今日は友だちと飲み。
そういえば、この友だちにはずいぶんとお世話になりました。はじめて会ったのが、いまから8年ほど前ですか。自分がこれからどう生きていくのか迷っている時に、この友だちと出会いました。そして、そのおかげで、ようやく次の一歩が踏み出せたような気がしています。そして、似たような道をずっと歩き続けてきました。もしかしたら、時として遠く離れていても励ましあい続けてきたのかもしれないです。
実はその友だち、わたしよりも前から走り続けていました。そして、わたしはその友だちと出会って、一緒に走ってきた。でも、今日、その友だちは言いました。「いまの道へのモチベーションが減ってきた。少し違う道を歩きたいと思うんだ」。
わたしがその友だちによって助けられたならば、そういう友だちからバトンを受けとるのはあたりまえのことです。
ちょっと重たいバトンだけど、まぁなんとかなるでしょ。
部落史連続講座・最終回
今回の連続講座は、今日が最終回*1。
今日のタイトルは、小林丈広さん(京都市歴史資料館)による「職業規制から見た京都の町」です。実は、わたし、こっそり小林さんのファンなんです(笑)。ある意味、すごく明快であるにもかかわらず、けっしてなにか物事を一刀両断で
この話、実は去年の10月にさわりだけ聞いているんです。
つまり、「町式目」を読む中で、京都のそれぞれの町内がどのようなまちづくりをしようとしていたのか。そこから、町の人々の意識を読み解こうという試みでした。
現在でも、「町内会規則」みたいなものって、それぞれの町にはあるみたいです。で、こういうのって、まず「だれが町内会のメンバーなのか」からはじまって、「なんのために」とか「どんなことをやるのか」とか「役員はどうするのか」「会計はどうするのか」ということが書いてあります。
ところで、こういうのって、実は「暗黙の了解みたいなものが通用しているうちは明文化されない」んですね。ところが、その「暗黙の了解」が通用しないような事態が発生すると、明文化せざるを得なくなり、文書として残っていく。これは、現在でも中世でも一緒なわけです。ですから、町式目を読み解くことで、「その時代にどんなことが起こっていたのか」ということを推測することができるわけです。
今回提示された町式目で最も古いものは、江戸よりも前、1700年代後半のものでした。で、当然のことながら「メンバーシップ」への記述があるわけですが、その記述の内容は「これこれの職業の人に家を売ってはならない」というものなんです。ただし、職業とその人の置かれている立場はかなり不可分のところもありますから、とらえようによっては、イコール「これこれの「人」には家を売ってはならない」ということになるわけです。
初期*2の町式目には、「あおや*3」「座頭*4」「鍛冶屋」など、数種類の仕事があげられています。ところが、江戸時代中期ぐらいになると、やたらたくさんの仕事があげられはじめます。そして、江戸時代末期になると、仕事をいちいち列挙するのではなく「みんながイヤだと思う人はダメ」みたいな、すごい話になってきます。
これをどうみるかということなんですけど、おそらくは、江戸時代中期以降になると、仕事や人の動きが流動的になってきて、だからこそいろいろなトラブルが起こりはじめて「あ、こりゃ明文化しなくちゃ」みたいなことになってきたんだろうということなんです。
あと、非常に特徴的なことは、「非人」の立場の人たちが従事しているさまざまな職業については、かなり事細かに書いてあるのに、「ゑた」という記述がほとんどないんです。小林さんはこれを「ゑたについては、暗黙の了解があったので記述する必要がなかったんだろう」としておられました。つまり、非人の人たちは身分としては町人になっていて、まわりの人たちはわかっていながらも、まぁ一緒に住んでいた、と。で、なにかあったときに「やっぱりこの町に住んでほしくないよなぁ」みたいな感じで、とりあえず明文化してみるテスト。みたいな。しかし、「ゑた」の人たちは明らかに排除の対象になっていたため、明文化する必要がなかったということなんでしょうね。ただ、町によってはけっこう早くから何度か「ゑた」の記述があるので、けっして、やはり明文化せざるをえない状況もあったんだろうとも推測されます。
おもしかったのは、「米屋」が排除の対象になっている町が多かったということです。小林さんは「定説はないけど、有力な説としては「飢饉の時の打ち壊しの対象になる」というのがあります」と紹介されていました。それ以外に、火を扱う仕事*5や不特定多数が集まりやすい仕事*6、風紀を乱しやすい仕事*7が排除の対象になっています。でも、実は、米屋さんにしても他のものにしても、生活に必要だったりするわけです。そのあたりのアンビバレントな感じがなんとも言えません。実際には、京都の「町」というのは、ものすごく面積が小さい*8ので、そうしたものもほぼ確実に近所にあったんだろうとのことでした。
そうそう、「浪人」とか「役人」みたいなものも町式目の中にあげられているのですが、江戸時代初期にはまだまだきな臭い感じがあって「住んでほしくない」みたいな感じだったんでしょうけど、江戸時代後期あたりまで来ると、「「武士(公家)やし、ちょっと町の仕事ごめんさせて」みたいな感じやと困るから」みたいな理由もあったんじゃないかと小林さんは言っておられました。
いずれにしろ、町式目を読んでいくと、これまで土地・職業にしばられていると考えられてきた近世の姿とは全然違う、さまざまな人が町の中で生きていたという姿が、垣間見られるかなぁと思いました。
ところで、質疑応答の中で、「ゑたの人たちの住んでいた町の職業規制は?」みたいな話が出てきて、それに対して小林さんは多くを語られませんでした。で、終わった後、「制度として被差別の立場に置かれているゑたの人たちのことをきちんと言わないといけない」「そこには血筋の問題がある」みたいな会話がありました。
ま、それはわかるんですが…。なんだかなぁ…。おそらく、どちらの側に光を当てながら読み解こうかというスタンスの違いじゃないのかなぁと思いました。
小林さんは、街の中に住む「一般の人たち」の意識の中に差別の問題を見つけようとしている。それに対して、人によっては「んなことはわかっている。そういう状況の中でゑたの人たちはどういうまちづくりをし、どうやって生きてきたのかということが大切なんだ」と考える人もいる。
で、わたしはどちらの見方をしたいかというと、実は、小林さんのような見方をしたいなぁと思っているんですよね。てか、実は、わたし小林さんのファンなんですよね、こっそり(笑)。小林さんの話って、すごく明快でわかりやすいんだけど、けっして「剰余」みたいな部分を切り捨てていないんです。その「剰余」の中に大切なものがあるということを意識しながら、とりあえず語っていく。なので、もっと深く話を聞きたいなぁと、毎回思わされるんです。
そうそう、立ち話の最後に、あまりにも「非人」にこだわるわたしに向かって「君も、自由な生き方がしたいんやろ(笑)」とそのものズバリのことを言われた方がおられて、思わず「そうなんです。もう教員なんてこりごり。非人になりたい(笑)」と答えたあたりが、今回のオチだったかなぁという気がします。
授業をはじめる前に…。
授業をはじめる前に…。
どうやらいま、この国では「力」というものがまかり通っているようです。
ところで「力」には「権力」と「暴力」があります。いずれも、人を支配するための方法です。そうそう。この教室の中にも、実は君たち生徒とわたしたち教員の間に「権力関係」があります。そのことを忘れてはいけませんね。
では、「力」と対になる言葉は何でしょう?それは「言葉」です。そして、「言葉」と「言葉」をつなぐ営みが「対話」です。わたしは、君たちとの間に「権力関係」があることを意識しながらも、一緒のこの教室の中でできるだけ権力に頼らない「対話」をするように心がけているのですが、それはなかなか難しいものです。
ところで、昨日、「イラク特措法延長法」と「教育関連3法」が与党による強行採決で通りました。この「強行採決」という手法は、「対話」の対極にある方法、すなわち「暴力」であると、わたしは考えます。そして、こうした法律を通すことで、この国は着々と「戦争」への道を準備しています。この「戦争」も「対話」の対極にあるもの、すなわち「暴力」です。
では、「戦争」から何が生まれるのでしょうか?
「戦争」とは、限りない「消費」です。そこから「生産」されるものは何もありません。そして、その「消費」によって潤う一部の人たちがいます。では、その「一部」以外の人たちは?
「戦争」をするためには、莫大なお金が必要です。しかし、国家の総予算は決まっています。そうすると、なにかのお金をへつることで、戦争のための「予算」をつくりださなくちゃなりません。
そうそう、防衛庁が防衛「省」になりましたね。あれも、このための布石ですね。
この国では、「教育」と「福祉」のお金をへつって戦争へまわす選択をしました。
いま、「教育の再生」が叫ばれていますが、教育を再生(この言葉も変ですが…)するためにもっとも早い方法は、教員数を増やすことです。逆に言えば、一学級の人数を減らすことです。ところが、この国は、そういう方法をとりませんでした。できるだけお金をかけずに自分たちの意志を通すための「改革」を行いました。それが、「教育関連3法」です。
福祉については、もう言うまでもありませんね。
ところで、教育も福祉も、その対象となるのは、子どもや老人、そして障害のある人、さまざまな理由で貧困という状態に落とし込められた人。いわゆる、社会的「弱者」とされる人たちです。
いまから5年後、世の中はどうなっているでしょうか。おそらく「こんなはずじゃなかった」という世の中になっていることだと思います。たしかに、一部の人たちの消費によって、あたかも総消費はあがっているかのように見えることと思います。そして、それが「豊かさの象徴」であるかのような報道がされることと思います。しかし、それは社会的弱者との格差の拡大に他なりません。
そして、10年後、おそらく戦争の中にこの国はいると思います。
もしも君たちがそういう未来を迎えたくないならば、常にいまこの国で何が起こっているかということについて敏感である必要があります。そして、敏感であるためには、新聞やテレビといった報道に頼らないアンテナを、高く広くあげることが大切です。できれば、自分自身の力で情報にじかにふれること。それが無理でも、情報にじかにふれた人から情報を仕入れること。
昨日、わたしのある友だちは国会の前に座り込みをしに行きました。そして、参議院の傍聴をし、強行採決される様を自分自身の目で確かめました。そして、その情報がわたしのところにやってきました。
自分が動けない時は、自分とつながる人たちから情報を仕入れること。そして、そこから、「いま」「ここ」で自分が何ができるかを考えること。そして、それをすること。
いまわたしにできること・しなきゃならないことは、いま、ここで語ることです。やがて、こういうことができなくなる時が来るでしょう。でも、その時まで語り続けようと思っています。そして、もしも君たちの中でわたしと思いを同じくする人がいたら、仲間になってくれるとうれしいです。
10年後、わたしは教員をしているだろうか。わかりません。もしかしたら、居酒屋の女将をしているかもしれない。そんなときは、またなにかの方法で「店を開けたよ」という情報を流しますので、飲みに来て下さい。そして、語りあいましょう。
じゃぁ、授業をはじめましょう。教科書◯ページをあけて下さい。
いま、わたし(たち)は、強烈な不信感と憎悪の中に立たされています。そのことをひしひしと感じます。かつては真綿で首を絞める感じでした。しかし、いまは荒縄で首を絞められている気分です。
でも、今日も授業をしなくちゃ…。子どもたちと授業をきっかけにしながら対話を続けていくことが大切なんじゃないかなぁと思います。そうした淡々とした日常の営みから、反撃のチャンスを狙う以外、いまのわたしには方法がないような気もしています。
でも、これで負け続けてきたからなぁ…。
一本の電話
ある日本国外のマスコミ関係者から、いきなり電話がありました。
「部落問題について特集を組もうと思うのですが、話を教えてくれませんか?」
「へ?」
それはわたしでは無理というものでしょう(笑)。
たぶん、この日の昼ご飯(笑)の時の会話とかじゃないかなぁ…。
とりあえず、無理なので、他の人に振りました。すんません。
うちあわせ
ある人から紹介されて、サクラスタディーズというところで話をすることになりました。で、今日はそのうちあわせ。といっても、飲み会です(笑)。
向かったのは、さらさというお店。富小路のいっぱいだったので、麩屋町にある「pausa(パウーサ)」というお店の方に行きました。
なんか、いい感じです。そうか、京都の北部にはこういうお店があるんだなぁ、と。なにせ、京都駅南側がテリトリーだからなぁ…。
ところで、このサクラスタディーズというのは、特にジャンルを決めずに、その人から出てくる話題をネタにいろいろ話をする会みたいです。なので、特に「トランス」ということに限定せずに、とりあえずいろいろな話をするというのが、今日の目的みたいです。
エスニックな料理をいただきながら、数学の話からスキーの話、そしてトランスの話までいろんな話をしました。なんだか、自分のもっているかなりの部分を出したような気もしたのですが、それなりにスリリングな一時を過ごさせてもらいました。
で、結局決まったことは…。なんだっけ(笑)。
そんな感じで話をすることになりそうです(笑)。
在日外国人生徒交流会
先週あったのは、全国の交流会。今日のは京都の交流会です。
かつては、在日朝鮮人の子どもたちばっかりだった交流会も、今はすっかり様変わりして中国帰国の子らが多数。あと、東南アジアにルーツを持つ子どもたちがたまに来てくれるという感じで、在日朝鮮人の子どもたちの参加がないこともよくありました。
この状況は、ひとつは「日本語教室」の存在が大きいんでしょうね。というのは、そこに集まっている子どもたちとつながっている日本語指導教員とか、そこの先輩後輩・親戚きょうだいという関係で来てくれるのが、少なくとも京都の状況だからです。これ、かつては、朝文研で子どもたちをつれてきた状況と同じですが、現在、京都で朝文研活動をしている学校があるかどうか。まぁ、あまり聞かないですね。
朝文研がなくなったのは「問題がなくなったから」かというと、そうではなくて、逆に「放置されている」ということなんだと思います。正直言って、いったいどうしたらいいのか、ちょっと途方に暮れているところもありました。
そんな感じなんですが、今回は在日朝鮮人の生徒や卒業生の参加がありました。
当然のことながら、中国帰国の生徒と在日朝鮮人の生徒の話がかみあいません(笑)。お互いに「言葉はしゃべれるの?」とか「どこから来たの?」とか。朝鮮人の子は「日本語しかしゃべれへん」「日本で生まれた」だし、中国帰国の子は「家では中国語」とか「5年の時に来た」とかだし*1。
でも、在日朝鮮人の卒業生に、「自分のところの親戚とか集まったらどうなん?」というと、「ハラボジやハルモニは朝鮮語、オモニやアボジは朝鮮語は聞き取れるけど返事は日本語。僕らの代は日本語しかわからへん」と答えてくれました。で、中国帰国の子らに、「君らの子どもの代になったらどうなると思う?」と聞くと、「あぁ…」と深くうなずいていました。
表面的な「問題」は、例えば日本語習得の問題であったり生活習慣の差であったりするわけですが、おそらくそうした問題は渡日年数が長くなり世代が変わっていくに従って、徐々に潜在化していきます。でも、いま在日朝鮮人が抱えている問題が、「新渡日」の子どもたちの中で顕在化していく。ところが、そうした「問題」を日本人社会は放置していくのではないかということ。それが、在日朝鮮人の日本での生活史の中から、今学ぶことなんじゃないかと思います。
新渡日の子どもたちの姿に在日朝鮮人の過去の姿を学び、在日朝鮮人の子どもたちの姿に新渡日の子どもたちの姿の未来を予測する。そして、そういう「未来」が来ないように、別の未来の姿を展望し実現するために、わたし(たち)が、今・ここでなにができるのかということが、交流会に参加するたびに考えさせられることなんです。
とはいえ、結局やっていたことは、ご飯をつくって食べてしゃべっただけなんですけどね。今回初チャレンジの「ヤム・ウンセン(春雨のサラダ)」おいしい!ナンプラーとレモンの香りに、かなりはまりそうです。
*1:もちろん、日本で生まれた中国帰国の子らのほうが最近は増えてきているし、そういう家では中国語と日本語が混じった会話をしていたり、子どもは日本語しかしゃべれないという方が多いですけど…。
プロレス
今日は、年1回、プロレスを見に行く日です。というか、もう少し正確に言うならば、年1回プロレスの招待券をもらう機会がある年があって、今年はもらえたので見に行った、と。てことで、いつもありがとうございます。
はじめて行った時は、ま”さんが解説をしてくれて、すごくおもしろく観戦できました。で、次に行った時は、ちょっとわからないところも多々あって、やっぱり下調べが必要なんだなぁと思いました。で、今回は、下調べを子どもにまかせてしまったという^^;;。いや、なんか最近上の子どもが新日本プロレスにはまっているみたいで、試合のある日は見ているそうな。
さて、今回は席がアリーナじゃなくてギャラリーだったのですが、これがなかなかおもしろいです。アリーナにいると「近い」感じはあるのですが、よく見えないところがあります。ところが、ギャラリーはきわめて見晴らしがいいです。それだけではありません。客層も違います。ギャラリーで見ている人は、ほんとうに「好き!」という感じ。なので、試合中もかけ声がかかるわツッコミが入るわ。近くのマニアの話を聞いているだけでも充分楽しめます。
それにしても、プロレスって、歌舞伎みたいな感じなんだなあと、あらためて感じました。見得を切るべきところではきちんと見得を切ります。そして、動くべきところでは見事なまでの動きを見せてくれます。その緩急の差と「間」は見事です。そして、それを実現しているのは、あの鍛え上げられた身体なんですよね。しかも、それが試合形式なので、一種「どちらがどの技で勝つか」という謎解きもまた観客に与えられます。ギャラリーのマニアが、試合途中で「今日はどっちかわからん…」とつぶやいていましたが、そう思わせる筋書きって、やっぱり見ていておもしろいですよね。
さらに、試合が進むにつれて、どんどん雰囲気が盛りあがっていきます。2時間半かけてひとつの盛りあがりを実現する「芸能」って、もう、希有な存在のようにおもいます。
で、この雰囲気はテレビではわからないものなんでしょうね。てか、子どもがひとこと「テレビではきこえない音が聞こえる」とつぶやいていましたから、ライブならではのものがあるんでしょう。いや、はまるの、わかりました。