夕方から回復

家に帰ると、やっぱりなごみます。こういう日は、たぶん自分のストレスが少しマシになっているんでしょうね。すると、家の雰囲気もなんとなく柔らかく感じます。ただ、身体が疲れ切っているみたいです。下の子どもに添い寝しているうちに、爆睡していました。ま、いいか…。

メンテナンスフリーではなかった_| ̄|◯

帰りにバイク屋さんによると、すごいことが判明。
最近走行中になにか音がするので、バイク屋さんによって「音がしますねん」と相談をしました。症状を一言聞いて、「あ、ディスクパッドがないね」とのこと。見たら、ありませんでした(笑)。
てことで、パッドを交換するまでは、フロントブレーキは封印です。

ストレスのかかった朝からスタート

やっぱり、ストレスが解消されないままの朝でした。なんとなく、朝からやる気が起きないというか、投げやりな感じ。それでも、なんとか出勤。
今日は授業のコマ数も少ないので、とりあえず、「やれば終わる雑事*1」をひたすらこなしました。もう、あちこちと連絡をとらなくちゃならなかったので、携帯メールはなりまくるわ、メールは届きまくるわ。情報を左から右へ、右から左へとわたすだけで、ドンドン時間が経っていきます。でも、いろんな人と連絡がとれるのは、ある意味自分にとってはいい気分転換にはなったかもしれません。

*1:プリントづくりとか、各方面への連絡とか

ストレスはやっぱ積分(笑)

なんだか、最近職場にいてイライラすることが多いです。
授業も「なんだかなぁ」という感じ。もっとも、40人のうちのだれに焦点をあてるかっていうのは、すごく大切なんですけどね。
それ以外にも、仕事がず〜とあって、これが「こなせば終わり」だったらいいんですけど、「時間が経過しないと終わらない」という性質なんですね。なので、やってもやっても、いくら考えても、ぜったいに終わらないんですよね。
で、そんな一日が終わったので、今日は早く家に帰りたいと思っていたのですが、ひとつ寄り道をする必要ができてしまいました。行ったことはすごくよかったし、精神的には元気がでたのですが、「早く家に帰りたい」という思いにとってはストレスなんですよ。これ、すごくむずかしい。
家に帰ったら帰ったで、「なんだかなぁ」という感じ。で、わたしがストレスのかかっている顔をすると、家族もストレスがかかってくるし、その表情を見るとわたしもストレスがかかってくる。もう、ストレススパイラルですよ。
で、録画していたビデオを見ようと思ったところで、最後の一撃。テープの状態が悪いのか、再生がまともにできないです。楽しみにしていたのに…。
もう、ふて寝だ。明日の朝の自分がこわいです。

今日はゆっくりしたい…

今日はパートナーは用事で実家へ。わたしは、あちこちにおいてきた鍋とかの回収です。これで午前中終了。
パートナーが帰ってくるのは1時頃。てことは、昼ご飯はわたしだな。きのう家族に食べさせてあげられなかったチヂミでもつくろうか。てことで、チヂミのタネづくり。
どうやら、チヂミのタネって、焼く前にしばらく時間をあけた方がふっくらするみたいです。なので、ちょっと早めにつくっておきました。まぁ、好評だったかな。
昼のビールを飲んでこたつにもぐるとそのまま爆睡。ふと気づくと4時でした。
パートナーは2階で子ども部屋の片づけをしているもよう。てことは、晩ご飯もわたしだな。まぁ、きのうちょっと家用におかずをへつってあったし、すじ肉を少しミソで炊いて、あとはドリア風のものでもつくればOKです。ちょこちょこっとつくって、とりあえずお風呂へ。
あがってきて思い出しました。下の子どもが「カレンダーをつくりたい」って言ってたんだ。てことで、ソフトをダウンロードしてきて作成開始。といっても、子どもはpaintでお絵かきをして*1、それを貼りつけるだけです。でも、なかなか様になったかな。
てきとうなところで、晩ご飯を食べて、あとは子ども達といっしょにテレビを見てさんざん笑って、そしてふとんの中へ。
あしたは仕事かorz

*1:お茶犬カレンダーだそうで、一生懸命お茶犬を書いていました

後半はひたすら飲み

チヂミを焼いてしまったら、あとは片づけまでは、やることもありません。なので、ダラダラと飲み。もう、体力は限界に近いし、食べ物をつまむのもめんどくさいです。かといって、ビールを飲むのは飽きたので、あとは焼酎か…。
しばらく飲んでいたら、すぐに交流会は終了。その後片づけをして、2次会の場所に移動。京都市西部にある主催者の家です。ここで、交流会の残りのものを再び飲み食べしているうちに、完全にダウン。パートナーに電話をしたら「行ってあげるよ」というありがたいお言葉。
家に着いたらお腹がぺこぺこなのに気づいて、卵ご飯をかきこんで、そのままダウン。

中盤はひたすら焼き

さて、会場のお寺に料理を持っていってセッティング。ここでようやく一息です。お寺の庭を見ながら寝っ転がっていると、少し離れたところからライブの音が聞こえてきます。すごくまたーりとしていい時間が過ごせました。やがて、ライブの終了の予感。そろそろ作業再開です。
ここからはひたすらチヂミを焼きます。もう、体中ごま油だらけ。でも、友だちの名言「イタリア人のオリーブオイル、韓国人のごま油、ソウルフードです」を心に、ひたすら焼きます。1時間半ほどで、小麦粉1kg分のチヂミを焼き切りました。

前半はひたすら労働

きのうの晩、家に帰ったのが9時。そこから晩ご飯を食べて、労働開始。
実は、今日の午後、京都市東部の某所にて、朴保のライブがあります。で、わたしはそのライブの後の交流会の「女将」役です。なので、お総菜を山のようにつくらなくちゃなりません。
きのうの晩は、「ひじき」「切り干し大根」「スジのこごり」「小芋のたいたん」あたりまではつくっておきました。
で、テーマとしては「日本食と韓国料理のコラボレーション」ですから*1、今日はもっぱら朝鮮料理をつくろう、と。
で、まずはチャプチェづくり。続いて、ナムルづくり。そして、チヂミのタネづくり。あとは日本食の残りである「糸こんにゃくの炒めたん」と「うまい菜の炒め煮」です。
考えてみると、肉はほとんど使っていません。なので、コストはすごく安いです。でも、手間はものすごくかかります。朝6時半頃からつくりはじめたのですが、さすがに2時ぐらいには完全にやる気がなくなっていました。でも、その頃には終わっていましたけどね。

*1:会場はお寺

勉強(その2)・部落史連続講座

夜は、部落史の連続講座です。
今日はその第1回目。村上紀夫さん(大阪人権博物館)による「中世の被差別民と芸能」でした。
近年(でもないか…)、「部落史の見直し」の中で、歴史の中で生きてきた「被差別民衆」の姿がいきいきと描かれるようになってきました。でも、その多くは、いわゆる「カワタ」の人たちであることが多かったのではないかと思います。「被差別民衆」の中には、「カワタ」以外にさまざまな生業や役目を担う人々がいたことも明らかになってきています。しかし、そうした人々の姿にかかわる研究もすすんでいるのでしょうが、わたしの知るところでは、まだまだ「わたしたちの知る範囲」までは来ていないような気がします。そんな中で、今回の連続講座は「芸能」にスポットをあてていこうという試みのようです。
今回のテーマは「万歳(まんざい)」。
中世の「非人」と言われる人たちの中で、「散所」といわれる場所に住む人たちが、やがてその住んでいる場所の名前である「散所」という被差別民として扱われるようになります。この人たちの中で門付け芸をする人たちが出現し、そのうちの一つとして「万歳」があります[1] … Continue reading)。
ちなみに、「散所」と言われる人たちとその周囲の人たちの関係って、とっても微妙です。というのは、日常のさまざまな集まりに関してはわけへだてなく行われます。ところが、結婚の祝いについては別です。呼ばれない。呼ばれないということは、おそらくは通婚もなかったのではないかと類推されます。また、争議の調停の文書などを見ると「散所は餌取みたいなもの」みたいな記述があり、このあたりに差別意識の本質みたいなものが隠されているのかなぁと思いました。ちなみに、村上さんは、「日常は「ぜんぜん差別なんてしてないよ」と言っているし、本人たちもそう信じ切っている。ところが、いざという時になると、蛇の鎌首のようにもたげてくる意識がある」と表現しておられました。なるほどなぁ…。
ところで…。
この「万歳」の人たちは、正月から数ヶ月かけて、あちこちを訪れながら「お祝い」を述べながら旅を続けます((といっても、けっして「放浪」をしているのではなく、ひとつのルールに従って、あちこちを訪れていたとのことです。なので、迎える人たちも「あぁ、もうすぐ万歳が来るなぁ」とわかるんだったとか。こういうの、けっこうありますよね。

*2:現在資料として残っているのは、京都の万歳のようですが、もしかしたら、あちこちに「万歳」と言われる人たちがいた可能性もあります。

*3:「だいどこ万歳」というそうな。つまり、座敷ではなく玄関から入った土間(台所の前)で万歳をすることからきているとのことです。

*4:暦をつくるとか、占いをするとかという特殊な技能を持っていますので。

*5:実際には、「尾張」のみのピュアなものではなく、さまざまな系統が交じりあってできているだろうけど、方向としてはということです。

footnotes

footnotes
1 といっても、けっして「放浪」をしているのではなく、ひとつのルールに従って、あちこちを訪れていたとのことです。なので、迎える人たちも「あぁ、もうすぐ万歳が来るなぁ」とわかるんだったとか。こういうの、けっこうありますよね。">*1
やがて、秀吉の頃、京都の万歳は*2尾張強制移住させられ、京都における「万歳」の歴史は終わりを告げます。
一方、「万歳」そのものはこのころにはあちこちにいたことが資料としてあきらかになっています。その中でも有名なのが「三河万歳」と「尾張万歳」です。特に、「三河万歳」はその後徳川の出身地ということもあって、一つのブランドとして発展をしていきます。
通常、被差別民は虐げられ貧しかったと思われがちですが、三河万歳が万歳をするのは、座敷の上、しかも「上座」です。また、2本差しの万歳もいたとか。このあたりはすごく興味深いものがあります。
ところで、万歳という芸能も、かならずしも「万歳」とよばれる人が独占できていたわけではなく、かたや「うちのシマに入ってくるのか」と地元の人間に脅かされたり、かたや、バチモンの万歳*3が出てきたりと、けっして安泰ではありませんでした。その中で、公家と結託して自分たちの権威づけをしたりするというようなこともあったそうです。
江戸時代が終わりしばらくすると、宗教は国家神道のもと、一元管理されるようになります。すると、万歳のようなぁゃιぃもの*4は弾圧をされていきます。でも、万歳の人たちも延命をはかります。
三河万歳」は、「神道の伝道をしている」という立ち位置をとりながら延命をはかります。一方、「尾張万歳」は、雑種芸能としての方向を模索しながら延命をはかります。そして、この「尾張万歳」のひとつの道筋に、純粋にしゃべりに特化した「しゃべくり漫才」がある*5ということです。
実は、ここ数日寝不足が重なっていて、きちんと聞き切れていなかったり間違って聞いていた気もするのですが、概略こんな感じだったと思います。

で、感想ね。ひとこと「おもしろかった!」です。あと2回の講座も大期待をしています。

*1:実は、自信がない(;_;