誰も来ないイベント(笑)

ウチの組合、人数が少ないんです。でも、それを維持していかなくちゃなりません。そのためには、やっぱり何かなくても集まっていろいろ話することが必要かなぁと思います。とくに、若い世代にとってはね。
ということで、お盆前に教組の事務所に集まって持ち寄りパーティーをすることにしました。ところが、1週間ほど前に何人かにメールを送ったのですが、何も返事がありません。来ないなら来ないでメールをくれたら中止できるのですが、なにも返事がなかったら「もしも来た時に」と考えてしまいますよね。で、昼ご飯のあと、昼寝をしていたのですが、無理矢理体を起こして行きました。
結局1時間ほど待ったのですが、誰も来ません。まぁそんなもんだろうと思っていたのですが…。3回やって同じことが起こったら、もうやりません(涙)。
てことで、友だちの◯子ちゃんを呼び出して、近くで軽く飲み。毒を吐きまくっていたのですが、徐々に体調が悪化(中ジョッキ1+梅酒ソーダ割り1でアウト)。「せっかく来てもらったのにゴメン」ということで、店の外へ。ここでもしばし「DP法に予想される要件」あたりを話ながら毒をまき散らしていました。まぁ、帰りに別のものをまき散らさないようにしようかな。

会議は趣味じゃない(涙)!

夜は、全国在日外国人生徒交流会の担当者会議。しんどいといえばしんどいけど、生徒とかかわっている教員が集まって話す会話って、やっぱり楽。
会議の後は軽〜く夕食。10時頃にお開きだったんだけど、他の人たちから「いま、十三についた」とかいうメールが入った時に、とっくに家に帰っているって、楽だなぁ。ゴメソ。

これも趣味か?

午後は、地元の人権教育研究会の夏期研修会。まぁ、あいさつがてらに参加です。地元のムラのおかあちゃんから「あんた、どっか行ったんとちがうの?」と半分皮肉で半分本気のお言葉。いや、引っ越しただけで、転勤はしてませんねん。てか、転勤先がない…。
分科会では「学力保障」を中心に盛りあがりました。学力をつけるために必要な3つの要素は「言語能力」「先行体験」「根気」なんだということで、それらをつけるためになにが必要かということをグループ別に話しあって、「とりくみやすさ←→にくさ」「効果大←→小」というマトリックスに配置していくというワークショップでした。
まぁ、結論から言うと、とりくみやすいのは「学内で教員が行う実践」で、とりくみにくいのは「家庭や地域の変革」という感じですか。そりゃそうだわ。だから学力をあげるのが難しいのよね。

で、分科会

池上さんのファンなので、分科会は池上さんが助言をされるところに参加。いつもの通り、レポーターにかんでしまいました。あかんなぁ。さらに、討論の時間もゴチャゴチャと話しまくってしまって、反省することしきりです。でも、反省しているわりに直らない。
しかし、それにしても各地で進んでいる「性の教育」へのバッシングってすごいですね。そんな中で闘っておられる人々がたくさんいることに元気をもらったし、ほんとうにすごい人たちだなぁと思います。

で、東京(笑)

犬の散歩のあと東京へ(笑)。某教職員組合の「両性の自立と平等をめざす教育研究会」に参加するためです。会場に着いたら、すでに午前の部は終了。午後の部もすでにはじまっていました。てか、10時開会は(犬の散歩のあとは)無理やろう(涙)。
わたしが会場には行ったら、家庭科の教科書の執筆もやっておられる大学の教員が話しておられました。いや、おもしろかったです。いわゆるジェンダーにかかわる教員に対して、いつも不満に感じていたことをズバッと指摘されたという感じでした。おそらく、人権教育も性の教育もそれ単独では存在しないんですね。どちらかというと、すべての教育の根底にあるわけで。ですから、なんというか、自分のすべての「教育活動」と不可分であって、「それ」をなくすことは自分自身がなくなることなんだと思うのです。なので、いかなる権力であっても、わたしを殺さない限りやめさせることはできないと思ったりもするわけです。なんて言うといいすぎかな。ま、簡単に日和ったりして(笑)。
あと、やっぱり池上千寿子さん、かっこいい〜!はっきりいって、ファンです。ま、ここ見てないだろうけど…。この間の国際エイズ会議の司会を長谷川さんと一緒にされたそうな。見たかった。それだけでも「キャー!」っていう感じです。ちなみに、講演の最中に「13日に東京でゲイパレードがありますが〜」という発言。ワラタ。

早朝のお散歩

朝、昨日最後にMさんに送ったメールの送信時間を見ると、23時30分頃。えらい迷惑な時間でした。でも、ここ数日で画期的な早さでした。でも、これ、正解です。なにせ、今日の話は8時35分〜9時45分とか。
てなことで、起床は6時。気持ちのいい朝です。
竹田って、かなり興味深い町のようです。とくに、気になったのが「隠れキリシタン礼拝堂跡洞窟」でした。ここは行きたいなぁと思っていたので、朝の時間帯に行くことにしました。川沿いから町中に入っていくと、おそらく古くからの町で、それもかなり発展していたのではないかなぁと感じられる町並みが続きます。しかも、ものすごくお店が多い。これだけのお店を維持できるということは、それなりの消費力があるんでしょうね。
とことこ歩いたのですが、山の朝の空気が満喫できます。キャンプ場の朝を思い出しました。
ちょっと汗ばんできた頃、岡城址の入り口に到着。でも、営業時間外らしくて入れませんでした。でも、気持ちよかったのでOKかな。あとで聞いたら、建物の裏に回ったらあがれたそうでした。まぁいいっす。その後、礼拝堂跡へ。思ったより浅い洞窟ですが、奥の方に岩を切って祭壇のようなものをつくってあるのが見えました。その後、あちこちまわりながらホテルに向かいます。そうそう、滝廉太郎の記念館の近くのトンネルに行ったのですが、朝が早くてハルナさんの書かれた「しかけ」は動いていませんでした。
ホテルに帰って朝ご飯とシャワー。フロントに行くと、すでに迎えの方が来ておられました。
その後、会場へ。中学校の体育館は満杯です。で、話しはじめたのですが、どうも反応が…。みなさん、きっとまじめなんですね。そういえば、きのうの車の中で「大阪の先生が来られた時、『黒い牛から搾った牛乳がコーヒー牛乳なんですね?』と言われて、答えられなかった」って言っておられました。ツッコミができなかったそうです。その時は「そういうときは『そうでっせ、ちなみにあか牛から搾った牛乳がイチゴミルクですねん』ってツッコミいれますねん」と言っておいたのですが…。それでも、話をしっかり聞いておられるのが、いろいろな反応からよくわかります。やっぱりまじめなんや…。
結局9時45分までと言われていたのですが「すんません」を連発して10時まで話をしてしまいました。すんません。
話のあと、熊本空港へ。途中2台車がひっくり返っていました。むちゃくちゃや…。空港に到着してお昼ご飯。「だご汁」と「馬のホルモンの煮込み」とビール。そしてあとは、熊本空港→伊丹空港→モノレール→…と乗り継いで、家に帰るだけです。
あー、あわただしかった。今度はゆっくり来たいものです。

ムラ中のお散歩

みなさん、研修のあと懇親会をされるということで、わたしも参加することになりました。懇親会が始まるまで1時間ほどあるということで、旧南王子村の自主フィールドワークをすることにしました。
まずは、第1住宅(笑)から。でかい…。ピロティーではおばあちゃんたちがジュースで宴会をしていました。コミュニティがあるなぁ。その近くに古〜い工場があるのでひょいと除くとガラス工場。なるほどなぁ。このムラの産業には「人造真珠」があります。これについての詳しい展示はりばてぃおおさかにあります。そこからは延々と住宅とその下の店舗群が並んでいます。それにしても、このムラはほんとうにお店が多いです。それだけ活気があるということなんでしょうね。途中読み聞かせのとりくみで有名なS保育園なんかもあります。
と、そこに肉屋をハケーン。ひょいと見るとカスハケーン。思わず2袋ゲットズサー(笑)。お金を払いながら「これ、どこから入れてはりますの?」と聞くと、「うちは松原からやねん」とのこと。なるほど…。やっぱりここでもなかなか入らなくて、たまたま入荷したとのことです。ラッキー!今度の玖伊屋で出そうかな。
その後、フラフラとあちこち見てまわったのですが、なんでわかるんかなぁ。しばらく歩くと「ん?ムラからはずれた」と直感して左折。「ん?ムラに帰ってきた」と安心。これを繰り返しながら結局ムラの最外周に近いところをまわっていました。でも、だんじりの倉庫とか(前の道を見たら線が引いてあるのを見て納得・引き回しの練習をしてるんだ)お寺とか神社とか、いいものをいっぱい見ました。そうそう、すごくしゃれた門構えの奥に和と洋の建物がある古い豪邸があったのですが、隣を見るとやはり人造真珠の輸出販売をしているところでした。部落=貧困という図式は、少なくともこのムラではあてはまらないということがよくわかりました。もちろん、貧困な人もたくさんいるのですが、それはどこの町でも同じことなんですよね。
てな感じで、微妙に進路を調整しながら、ぐるりと一回り。第1住宅に帰ってきて、約1時間のお散歩糸冬了。

「趣味」って言っても、どこまでが趣味でどこまでが仕事かわからないのがわたしの状態です。でも、まぁ、学校の公務以外はすべて趣味でしょうね。
てなことで、「趣味」の一環でテープ起こしなんぞをやっていました。テーマは「教科書問題」です。上杉聰という人の講演なんですけど、なかなかコンパクトにまとまっていておもしろいです。ただ、内容は「おもしろい」なんてのんびりしたことは言っていられないわけで、現在えげつない状況が進んでいるというのがよくわかりました。
でも、一方で、「いま・ここ」にいる、「わたしたち」がその状況をなんとかしなくちゃならないんですよね。60年の教科書に「いま」を書かれるときの記述が、「2005年は、すでに戦前のまっただなかだった」とならないためにね。