今日の校門の立ち番。みなさん、なにやら手持ち無沙汰な感じです。というか、手のやり場に困っておられます。
なるほど、昨日の研修会で講師の方が言われた
「校門で おはよう言ってる 仁王立ち」
の影響やな(笑)。
カテゴリー: 考え
「イヤなら出て行け」考(その1)
先日の記事で一番心にひっかかっていたのは「イヤなら出て行け」とうフレーズなんですよ。だからあの記事をアップした。
誰かに対して
「出て行け」
ということが言えるのってどういう立場なんだろうと、つらつら考えると。
まぁ簡単に言うと、大家と店子の関係ですわね。てことは、
「いつあなたは大家になったのだ?」
と。
いや、わたしは、ああいうことが言える、その自信の根拠がどこにあるのかを知りたいんですよ。少なくともわたしは他者に対して
「出て行け」
なんてことを、よほど特殊な状況がない限り*1、言えません*2。自分の考えの及ばない言葉が、そういうことを言う人は簡単に言える、それがわたしにはどうしても理解ができないんですよね。
いよいよ非国民だなぁ
大阪府では、「国歌起立条例」が出されたみたいですね。
そう言えば、かつて天皇が園遊会で「強制になるということでないことがね(米長:ああ、もう、もちろんそうです)望ましいと」って言ってましたよね。まぁ別に天皇を出さなくてもいいんだけど、もうむちゃくちゃです。
で、今日一番
「怖っ」
と思ったのが、某A新聞の記事。維新の会支持者へのインタビューの中に
「おまえらにそれでも日本人か。イヤなら出て行け」
というのがあったんですよね。
まぁ別に非国民だからどーでもいいんだけど、
「出て行け」
とか言われる筋合いないし。まぁ出て行きたい気持ちは満々ですが、いろいろ事情があってそういうわけにもいかないからとどまりますけどね。
あ、日本って、居住の自由ってあったよね。
まぁでも、それだけ大阪って行き詰まっているんでしょうね。金光敏さんが言われるところの「大大阪の時代」ははるか昔の話。勢いのある時は、他の人を攻撃なんてしなくても満足していられる。でも、行き詰まると他の人を攻撃しないとやってられない。で、攻撃するから人は多様性がなくなり住みにくくなる。そうすると、ますます勢いがなくなる。そのスパイラル。
なんか終わってる。
で終わりたいけど、大切な仲間がたくさんいるんですよね。
朝のぼやき
優先すべきこと
ぽっかりとあいた日曜日の昼下がりからのひととき。この時間を何に使おう。
来週のテストづくり?
メールのやりとり?
バイクのメンテナンス?
いろいろ考えて、明日からのことも考えて…。
ブログの更新だな(笑)。
あ、原稿Oπ
温度差
なんかなぁ。新入生っていうのはなぁ…。
たぶん高校に入ったことで「無敵!」とか思ってるんじゃないかなぁ。
まぁ新しいステージに入ってうれしいのはわかるんだけど、自分が天下を取ったような感覚は間違っていると思う。新しいステージには、すでにそこに先輩たちがいるわけなんですよ。つまり、新しいステージに入ったばかりの人間は、そのステージでは一番「下っ端」っていうことなんですよ。それがわからないのが、まぁ新入生の新入生たるゆえんか…。
「ルーツと向きあい、広がった世界」
今日は人権教育関係の研究会の総会です。午後からは川崎那恵さんの記念講演。タイトルは「ルーツと向きあい、広がった世界」です。
わたしは川崎さんとは川崎さんが大学時代に出会ったらしい^^;;です。その時は川崎さんはお座敷に来られたお客さんですから、よくわからなかったです。でも、ちょうどその頃が川崎さんにとっての大きな転換点だったんだろうなぁと思います。
その後、NHKの「ルーツを見つめる写真展」で川崎さんの映像を見て「え〜、こんな人がいるんやぁ!」と思いました。純粋に「おもしろい!」と思いました。
それまでにわたしが出会ってきた部落の人は、基本的には部落解放運動をやっている人が多くて、それがメインストリームであろうがそうでなかろうが、ある程度のパターンというか、類型の中にはまっていると、とりあえず言ってしまえるんじゃないかなぁと思います。ところが、川崎さんはそういう類型の中にはいない。というか、その類型から常にズレ続けている感じがします。おそらくご本人はそんなことは意識はしていないでしょうけどね。
「現在の部落問題」をどう考えるかという問いに対して、おそらくはさまざまな答があると思います。例えば、「人の流入出」というのは、明かな現在の部落問題のありようだと思っています。あるいは「土地問題」というのもそうです。ただ、「個人としての」となるとどうか。もちろん結婚差別の事例がなくなったわけではないですけど、それとてもかつての姿とは大きく変わっているとは思います。
そんな時、個人として部落をどう感じるのか。
それは、おそらくは「なんとなく言えないことがある」ということなんじゃないかと、ずっと思っていました。真綿で押しつぶされるような「言えない感」。友だちの言動を見た時「あ、やっぱり言えない」と思う感覚。それは、誰に強制されるわけでもなく、自分で勝手に思うわけなんですが、でも、そこに「現在の部落問題」というのがあると、わたしはずっと思ってきました。そして、そういう自分と折りあいをつけ、誰かに話をした時に受けとめられる。そこに「カムアウト」がある。
もちろんこれは部落問題に限ったことではありません。だからこそ、部落問題を「みんなが語ること」ができる時代になったんじゃないかなぁとも思うわけです。
川崎さんの話は、そういうわたしの感覚とピッタリとあっていました。
川崎さんが話す「わたしにとっての部落解放」は、次のように書かれています。
- 自分のルーツを知る機会がある。そして、そのルーツを卑下しなくてもよいのだと思える。
- 部落問題を語ることやカミングアウトをまわりから非難されない。
- 「親」「世間」を乗り越えて、自分の生き方を選択できる。
- 差別があっても、人と人とのつながりの中でハッピーに生きられる。
なにがおもしろいかというと、「わたしにとっての」なんですよね。「我々」ではない。そこがまさに、内田さんの語りと一致しているわけです。
うん、かなりおもしろかった!
ある意味平和だ
新しい言葉?
annojoさんのところのGTMがらみのコメントを見て、「へー」と思ってサイトを見に行きました。で、ついでにメンバーのブログを見に行きました。で、つらつら見ていると
僕らと直接話してみたい方
GLBT・GIDの方、その身の回りの方、ただ単に興味がある方 等々
ブログで募集した場合は、その時々により変わる条件を満たす方に会いに行きます
という一文がありました。へ?「GLBT」?
あ〜、GとLを入れかえているんだ…。
にしても、なぜ「L」が先なのか、そこにどんな歴史があるのかということを、この人は知っているのかなぁ。
まぁそんなもんだろう
新入生が入ってきて約1週間。わたしを見慣れない連中は、なにやらヒソヒソクスクスやっています。まぁそんなもんですわ。
それにしても、2・3年生が「そういう反応」をしないのをみて不思議にならないのかなぁ(笑)。