社会学と哲学

起床は朝7時過ぎ。起きるのはしんどいけど、大切な農作業の時間です。
てことで、玉ちゃん農園で援農。作業内容は草引きです(笑)。
ひたすら、黙々と草を引きます。引いているうちにいろんなことを考えます。
たぶん、草引きってコツはあるけど効率はないのかな。効率を求めると、どこかでなにかがなくなる。それがあとあと効いてくる。だから、効率を求めず、ただ淡々とていねいにこなしていく。なんか、教育と共通するのものがある気がしました。
手は動きます。でも、頭は考えます。本も読めないし、誰かと話もできません。ひたすら一人の作業をしながら「考える」のです。そうやって考えているうちに、農業労働って、社会学とは相性が悪そうだけど、哲学とは相性がいいんじゃないかという気がしてきました。
てことで、12時のサイレンが鳴って農作業終了。

不信感を生み出すものと不信感がもたらすもの

Aという課題とBという課題がありまして。で、両方ともとても大切な課題でございまして。でも、「Aばっかりやってる」なーんてみんな(笑)が思ってしまう状況がございまして。
やがて「Bをもっとやらなくちゃ。Aの時間をへつってBをしよう。Bの中でもAの課題はできる」という正論が出てまいりまして。
でも、過去の事例を見ると、そういうふうに「Bの中でやる」なんてやってしまうとAはうやむやになってしまうんですよね。
あるいは「Aはやるけど型にはめすぎ」とかいう意見が出てまいりまして。で、「じゃ、フリーハンドで」ってやると型どおりにしかしなかったりするわけで。
ま、そんなこんなで、やはり一定の強制力を働かそうと思ってしまうわけです。
そうすると、まぁいろんな感情もプラスして「Bという課題もやらなくちゃ。Bの中でもAはとりくめる」なーんていう正論が出てまいりまして(笑)。

なにをどうすりゃいいのか…。
そうか!
そんな中で信頼できる人を探し、見つけ、つながることだ!
生徒たちと一緒にやってきたことだった。

部落をどう教えるか

朝起きると絶不調です。ま、覚悟の上ですからしかたないです^^;;。
今日は昨日の中倉さんの講演を聞いた子どもたちのクラスがふたつあります。さて、どうするか…。
やはり
「昨日の講演、どうやった?」
から入らなきゃならないでしょう。だって、昨日呑みながら話してたのは「講演はネタ振り。講演のあとの事後学習こそ大切」ってことでしたから。
すると、これまた定番の
「部落がわからへん」
って答えが返ってきました。さてどうするか。逃げるかまっすぐ受けとめるか。やはり、昨日の今日だからこそ受けとめなくちゃならないでしょう。受けとめるにしてもどう受けとめるか。やはり、歴史抜きには説明できないでしょう。じゃ、歴史を語る?それではたぶん伝わりません。
よし!

仲間の結束を強めるための簡単な方法、知ってる?それはね、誰かをのけものにすることやねん。「あいつは違う。わたしら同じだもんねー」ってやるの。「同じ」であるためには「違う」がどうしても必要になるねん。
それは、昔も今もやっている。例えば、中国人に対して「声が大きくてうるさい」を理由にして「あいつらは違う=わたしら同じ」ってやってる。在日朝鮮人に対して「在日特権」とか言いながら同じことをやってる。その前は、琉球にもアイヌにもやってきたし、今もまだ残ってる。そして、そのずっと前の平安時代、まだ「国」なんていう概念が希薄だった頃、共同体の結束をはかるために排除されたのが「部落」の源流にあたるねん。

部落の人らは、もともとはケガレたものをキヨメる役目を担ってきたんや。それはなくてはならない役割やったんやけど、その人らと交わるとケガレが伝染るから排除してん。例えば、死んだ牛とか馬をのける役目をする代わりに、その牛とか馬をもらえた人がいたねん。義務と権利やな。革、高級品やろ。皮をはいで加工するのはすごい技術がいるねん。で、その人らは皮をはいで加工して殿様に収めたり、余ったのを売ったりしてん。だから、けっこうお金があってん。でもな、牛や馬の死に触れるからケガレたものとして排除されてん。やがてな、明治になって、義務がなくなってん。だから、ケガレたものではなくなってん。その代わり、権利もなくなりお金もなくなってん。そしたら、貧乏になるやろ。そしたら「貧乏や」って排除されてん。でな、こんな劣悪な環境ではあかんって、施策をやってん。ほならな「なんであの人らだけ」って排除されてん。

つまりな、排除することが目的やから、理由はどうでもええねん。「ケガレてる」でもええし、「皮をはいでる」でもええし、「お金持ち」でもええし、「貧乏」でもええし、「あの人らだけずるい」でもええし、「不祥事」でもええし。そのあとに「ほらね、だから。わたしらとちゃうねん」がつく。で、「わたしらおんなじやねー」ってなる。
だから「部落ってなに?なんで部落が差別されるん?」の答えなんてないねん。ぜんぶ理由やねん。差別することそのものが目的やねん。

でな。わたしな。そんなんやから、差別なくすの、簡単やと思ってるね。でも、難しいなって思ってるねん。
結局な、差別なくそうと思ったら、誰かを排除せずに人と人とがつながる方法をみんなが身につけたらええねん。たったそれだけのことやねん。とても簡単なことやねん。でな、そのためのカギはみんなが持ってる。君たちもわたしも持っている。
でもな、それをみんなが身につけるのがすごいむずかしいねん。だからな、みんながそれを身につけるための学習をせなあかんねん。それが人権学習やねん。そのカギを見つけることや使い方を学ぶための学習やねん。
うわ。30分もしゃべってしもた。ほな、数学するで(笑)。

ま、正確ではないです。でも、歴史を教えることが目的じゃないんです。歴史から学ぶことが目的なんです。だから、こんなもんで許してもらいましょう(笑)。
あ、わたし、数学の教員でした。専門外やわ(笑)。

要求レベルをさげない

何が高くて何が低いかということはとりあえずおいといて。
例えば、学力と授業。
学力が低いと、いろいろたいへんです。なぜなら、諸矛盾が授業の中に集中するからです。なのでとても疲れる。で、要求しても応えてくれない。そこで、要求するレベルをさげて、なんとかそこで応えてくれるようにする。
でも、それを繰り返すと、要求レベルがどんどん下がっていく。で、下がっていくのは相手のせいと思う。なので、やがて要求しなくなる。
でも、これではいかんなぁと常々思ってます。なぜなら、要求しないということは相手を人間扱いしていないことにつながるからです。
わたしは願わくばそうではありたくない。なので、要求レベルを下げないでおこうと、常に意識化したいなと。
意識するのをやめた瞬間、わたしの場合、要求レベルは下がっていきます。なので、常に意識しないといけない。で、どうやれば意識できるか。それは、相手(生徒)を尊敬し続けることかなと思っています。尊敬することはあきらめないことです。あきらめなければ、常に要求レベルを下げないでいられる。なぜなら、人間として接するからです。
要求レベルをさげないことは、自分への要求レベルをさげないことにつながります。それは、自分にとってとても大切なことだと思います。
さて、明日もがんばろう…。

なぜ走るのか

夜、「某ショー」を見終わって、
「こいつら食ってばっかりやなぁ、うまそやけど」
と思いながら、次までのつなぎに、とりあえずN○Kにチャンネルをあわせて…。
と、いきなり山の中を走りまわってる人がいます。てか、崖じゃん。この人たち、なに考えてるんだ?
なにやら「ララムリ」という「走る民」の人々を取材した番組らしく、つい見てしまいました。
ま、考えたことがいくつか。
ひとつは、自給自足の生活に貨幣経済が入り込んでいること。そのことで、かえって生活は厳しくなっているかもしれないということ。だって貨幣経済なしの状態で「今年は豆が不作だ」となると「しかたない」としかならない。で他の何かを探してその不作をしのぐ以外方法がない。でも「今年は稼ぎが少ない」となると「ほなもっと働いて」とか「出稼ぎに」みたいになる。どちらがいいか悪いかはわかりません。たぶん、前者は死者が出る。でも、後者も死者が出る。単にうーんと思ったってだけのことです。
あとは…。
部族としての記憶かな。もともとは「必然」から走らなきゃならなかった。やがてもともとの必然はその必然性を失い、宗教的な意味を持つようになった。やがてその宗教的な意味をも忘れられ「走る」ことだけが残った。でも、走る。その「走る」もまた忘れられ「かつて走った民」となるのか、それとも走り続けるのか。番組は「走り続ける」みたいなところで終わってましたけどね。そこは「ロマン」ってやつなんでしょうか。
それにしても、その手の「記憶」ってやっかいかもしれません。すでに意味を失っていて、それそのものが自己目的化しているわけですから。もしもそれを変えたいと思ったら、自分はそこから出ていくか、出ていくのがイヤであれば、部族の「記憶」そのものを変質させなくちゃならない。
ちなみにわたしは毎朝駅の中を走りまわっています。こいつは…。理由はあってなきがごとしですね。

素人はこわい

かつて剣道やってる人に「剣道あるある」を見せたことがあったんですけど、その中に「実は素人がこわい」というのがあって、
「わかるわかる」
って笑ってはりました。つまり、素人は何するかわからないってことのようです。
ちなみに、うちの職場でも打開策が見つからない時「若い人の考えを」とか言うんですが、わたしは
「それ、考えることを放棄してるやん」
と常々思っていたりします。
まぁ、職場の場合はそういう方法を選択し、「若い人の考え」をヒントに次の一手を打つつもりですから、まぁいいとしましょう。
しかし、大学改革とかになると話は別です。
「人物本位」…。
何考えてるんだと。たかだか18歳の「人物」ってなんだと。人物ができていれば「リーマン予想」が解けるのかと。てか、「リーマン予想」に触れた数学者、みんなそのせいで人格が崩壊しちゃうとかいう話すらありますがな。
「なにが問題で、どんなデータな基づいて、何をどう変えたらいいか」
という論議抜きで、いきなり改革ありきってのは、一番大学で行う研究とは縁遠いところにある気がするのですが…。さんなことをする素人集団が、一体何を改革できるかと。
ま、人物本位で選ばれた「教育再生実行会議」だから、そうなるんでしょうね。

雑談

今日、京都朝鮮第1初級学校への差別街宣が「人種差別」という判決が出たとの情報が、あちこちからまわってきました。
てことで、授業の最初の雑談で「出たなぁ」と、「出たという事実」を伝えました(笑)。すると、ある子がどうやらいろいろ調べているみたいで、「それ、在特会のことやろ」とか、いろいろ聞いてきました。それに波及して、数人の子どもがまたまたいろんな話をしていました。
そうかぁ。こういうことに興味を持ってくれている子、いるんだ(^^)。

表現

この一週間、ずっと悩み続けてきた「タスク」がようやく終了しました。正確には昨日ひとまず終了していたのですが、一晩寝かせたかったので、提出せずにおいていました。で、今朝
「あ!これだ!」
ってことに気づいて、ようやく提出までこぎつけたわけです。

にしても、表現ってやつは難しい。
わたしの場合は、かつては音楽で表現してみたいとか思っていた時期もありましたが、根っからの練習嫌いな性格が災いして、とうていできるものでもなく。けっきょく、「言葉」で表現しようと考えはじめたって感じでしょうか。
「考え」や「思い」は、それ単体では相手に伝えられないんじゃないかなと思います。必ず何か「器」が必要になる。その器は、例えば「音」であったり「色」であったり「味覚」であったり、さまざまなものがありえます。
でも、いずれにしろ「不定形」な「思い/考え」を「器」に盛りつけた瞬間、「思い/考え」は本来のものと少しずれてしまう。でも、「器」なしで「思い/考え」は存在し得ない。そんなジレンマがあるように思います。
それでも、「思い/考え」ができるだけそのまま出るように、「器」の形を考え、盛りつけ方法を考え、もしかしたら「器」を創作してまでして、「思い/考え」を「器」に盛りつけて、そっと差し出す。その営みを「表現」というのかな。
逆に言うなら、ひたすら考えて差し出した「表現」であれば、ほんの少しの盛りつけ方の変化で、突然色鮮やかに「思い/考え」が浮かび上がることもある。
そのために、「寝かせるための一晩」が必要なんじゃないかな。
そんなことを考えました。

ま、ただ今回の場合は着手した月曜日が実は〆切だったというオチはあるのですが…^^;;。