反応はさまざま

今日は職場のセクションの飲み会です。てことで、なぜかビアガーデン。天気が心配されたのですが、暑すぎるわけでもなく、ちょうどいい感じです。
なんでも今日は七夕なのかどうか、はたまた関係があるのかどうかもわかりませんが、イベントの日らしく、一律高額料金です。やれやれ。で、イベントの内容は、なぜかベリーダンスショー。ちなみに、ショーの間、食べ物も飲み物もとりに行けないのはめんどくさいなぁ…。
で、まぁ、飲んでいたわけですが…。
はじまりました、ベリーダンスショー。
うーん。がんばってはります。そりゃ、あんな動きしてたらやせるわな(笑)。
にしても、見ている人の反応がおもしろい。
ちなみに、うちのセクションの男性陣はほぼ「ノリのいい」人たちなので、ちゃんとノッてます。まぁ、踊る側としてもノッてくれないとしんどいですよね。
で、女性陣は二種類にわかれます。おそらくはダンサーに同一化するタイプと、「ふーん」なタイプ。と考えると、男性陣の「まなざし」は、やはり「対象」として見ているのかなぁ。
なんか、そんなところにジェンダーが垣間みられて、おもしろいなぁ…。

あ、ちなみに、飲みの方は、あやしげなスピリッツでアウトでした(笑)。

一夜あけた朝

それでも朝はやってきます。不思議なほど気持ちよく晴れ渡った朝です。
いつものようにやかんを火にかけて、台所の窓を開けます。外から夏の朝特有の冷たい風が入ってきます。その瞬間、
「あ、もしかして、自分、にほん好きかも」
と思ってしまいました。そして、次に出てきたフレーズが
「にほんをかえせ」
でした。
その「にほん」は…。
例えば、昨日出張で行った、わたしにとっての第二のふるさとのたんぼの風景かもしれない。あるいは、みんなが急がされているこの時代、スローフード。おにぎりを売ってるお店かもしれない。いつも変わらず人が集まるお好み焼き屋かもしれない。みんなが安さを求める中、無農薬野菜をつくっている人かもしれません。
よくわからないけど、そんなこんなが自分にとっての「にほん」であり、案外そんなくだらなかったりつまらなかったり情けなかったりするものが好きなのかもしれないと思いました。
でも、あれ?「かえせ」ってフレーズ、どこかで聞いたよなぁ…。あぁ、あれだ!

ちちをかえせ ははをかえせ.
としよりをかえせ
こどもをかえせ

わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ

にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ

なんか「にっぽんを取り戻す」とかいうフレーズがあって、どんな「にっぽん」かはわからないけど、「権力という暴力」を使って「奪おう」としていて、どうやらそれはとてもではないけど好きにはなれなくて、住みにくて、危険な「にっぽん」らしい今、ふたたび「にほん」をとりもどすこと。その闘いは、すでにはじまっているし、今日はその仕切り直しの日なのかなぁと、ふと思いました。
なんか、腹を立てて、怒りまくった次の朝が穏やかなのは、怒りが収まったからじゃなくて、その怒りが内在化し、自分の日常と融合したからなのかな…。

何回繰り返せば

仕事をしながら、ときおり「更新」しながら情況を見守ります。やがて、なにごともなかったかのように「合意した」の文字が。あまりにも茶番です。

当然のことながら、5時半に仕事を切り上げて四条河原町に向かいます。交差点に行くと、すでに100人を越す人々が集まっています。
デモの出発点に向かう道すがら、なんとも言えない「疲れ」に襲われます。なんなんだろう。この疲れは。
デモの出発待ちの時間、人が続々と集まってきます。やがてデモ出発。
道行く人の反応はさまざまです。
無視をする人。写真を撮る人。拍手する人。子どもに「あんたも入らんと」みたいなしぐさをしている人。

昨日もそうでしたけど、「無視をする人」の顔が一番つらいですね。無表情なんです。でも「そこにそれはない」とする「意思の表情」が伝わってくるんです。
なぜ無視をするんだろう。なぜ拒否ではなく無視なんだろう。実のところ、わたしにはわからない。そして、それがわからないかぎり、無視をする人はこちらを向かないであろうこともわかっている。でも、その無視をする人は、その「無視の意志」を持ったまま、例えばこの国が向かおうとしていく先に向かっていくんだろうか。

デモも終盤に入り、ドラム隊はいよいよ激しさを増します。

再び「怒り」がこみ上げてきます。その怒りは、たしか前にも…。あぁ、この日です。忘れもしない「教育基本法改悪の時」です。あの時と同じ思いを幾度繰り返してきたか。そしてこれからも幾度繰り返すのか。
でも、そこで、無表情にはなりたくありません。無視はしない。

艱難は忍耐を生み出し、
忍耐は錬達を生み出し、
錬達は希望を生み出すことを、
知っているからである。
そして、希望は失望に終ることはない。

四条河原町マルイ前にて

みなさん。
わたしは学校の教員をしています。
わたしは今日、自分の義務を果たすためにきました。わたしは教育公務員です。公務員は憲法を遵守する義務があります。明日学校で子どもたちに「義務を果たしてきたよ」って言うために、ここに来ました。
もうひとつあります。
最近、自分の心がパサパサになってきた気がするんです。パサパサになった心だと、現実もパサパサにしか見えません。やつらはそんなパサパサな心が大好物なんです。そのパサパサな心に、なんやろ、いらんもんを入れるんです。だから、今日はそんな自分の心に水やりに来ました。
うちの学校の子らは勉強苦手なんです。でもそんな子どもから、今日「先生、おんなも戦争行かなあかんの?」って質問されました。わたしは「そやなぁ。男女共同参画の時代やしなぁ」って答えました。他の子から「先生、わたしら攻撃されるの?」って聞かれました。「そやなぁ。日本には基地がいっぱいあるからなぁ」って答えました。
そしたらその子「イヤやー。なんでこんなことになってしもたんやろ」って泣きそうな顔をしてました。
ブルーハーツの「青空」の中にありますよね。「こんなはずじゃなかっただろ、歴史が僕を問い詰める」。わたしは「こんなはずじゃなかった」って言いたくないんです。
頼みます。うちの子らを助けるために、「こんなはずじゃなかった」って言わずにすむために、力を貸してください。

四条河原町でマイクを持ったのは2度目です。1度目は、「ふるさと」のメロディで
「キムチおーいし、あの店ー♪」
と歌って、そこにいた人の失笑を買いました(笑)。
今日はあの時よりもましだったかなぁ。でも、この内容考えるのに1時間かかりましたよ。
明日、子どもらに報告やな(^^)。

詩の持つ力

暗澹たる気持ちだった今朝、ひとつの詩が流れてきました。

明日戦争がはじまる  
          
             宮尾節子

まいにち
満員電車に乗って
人を人とも
思わなくなった

インターネットの
掲示板のカキコミで
心を心とも
思わなくなった

虐待死や
自殺のひんぱつに
命を命と
思わなくなった

じゅんび

ばっちりだ

戦争を戦争と
思わなくなるために
いよいよ
明日戦争がはじまる

思わず印刷して配ってしまいました^^;;。
心がパサパサになる前に、水やりを。
詩には人の心を生き返らせる力があるんだなぁ。

報道

夕方、なにげなくfacebookを見ていると、新宿南口で焼身自殺をはかった人がいるとの情報が流れてきました。
とうとうここまできちゃったのか。自分の命を賭して抗議しなくちゃならないところまで来ちゃったのか。胸が痛みました。
ことの是非ではない。とにかく心に痛みが走りました。
もうひとつ。報道されない。WHOにガイドラインがあるとか。そう言えば、前にもそんなことを聞いたことがありました。しかし、同じWHOのガイドラインがあるはずの海外のメディアでは報道されている。その差はいったいなんだ?
もしかしたらガイドラインの本質を見誤っていないか?だって、とうてい「こんな報道してええんか?」ってこともガイドラインがないゆえに報道している事例が散見されます。思考停止してないか?自分で考えているのか?あるいは、考えた結果、現政権への気配りで報道しなかった?
そしてもうひとつ。同時に「まとめ」にあった「無関心」なつぶやき。
感性の潤いは、気がつくとなくなる。パサパサに乾いた心は、現実をパサパサにしかとらえられなくなる。なぜ、感性がパサパサに乾いていくんだろう。

違和感

考えをまとめているときの「おべんきょ」はあきませんね。なんか、思考にノイズが混じります。なので、少し気は重かったのですが、行かなきゃならんものはならんので行ったわけですが…。

先週「ひさびさにおもろい!」と思ったおべんきょが「事例研究」でして、興ざめです。でもま、聞かせていただきましょう。
で、聞きはじめたのですが…。
なんだろう、この違和感。
いや、とても優秀な教員であることはわかるのです。でも、優秀すぎて、なんか違和感。
子どもを見る→分析する→方策を立てる→実行する→評価する→…。
みたいな。で、「一年間やりきりました。うまくいきました」。いや、学ぶべきことはたくさんあるんです。でも、直感的に「ここからは学びたくない」と思ってしまう違和感。
子どものありように名前をつけ、それを手がかりに分析し方策を立てる。自分の理想とする像があり、そこへいくためにさまざまな手立てをする。実際には違うのかもしれないけど、報告からはそういうふうに受けとめてしまうのはなぜなんでしょうかねぇ。
もしかしたら「あるべき像」みたいなものがあるという意味では、「四角」をめざすのか「雲」をめざすのかは、わたしには同じに見えているのかもしれません。では、わたしは?
たぶん、「ありたい像」はあるにしろ、現実にある「もの」からできるものは「それ」とは違うと考えているのかな。そして、できあがったものが「めざしてた像」とは違っても、「できたやん(^^)」って思っちゃう感覚。

うーん。
どうしようもないもやもやを抱えながらのいち日の終わりでした。

よかったり、悪かったり。悪かったり、よかったり。

今日は久々に「新羅に集う人々の会」に参加です。
わたしはこの「新羅」という焼肉屋さんの家族とは20年以上のつきあいになります。てか、焼肉屋さんする前からのつきあいやし(笑)。ただ、この集まり、なんしか日程があわず、なかなか参加できませんでした。で、今回は「幸か不幸かエントリー忘れ」って事故があって、参加ができたという。
この集まり、第一部は「学習会」で、第二部が「宴会」です。もちろん、非公式の第三部もありますが、それはおいといて。
で、今回の第一部は「ヘイトスピーチと法規制」というテーマでのシンポジウムです。具体的には朝鮮学校襲撃事件の弁護団とI成さんが話をしてくれました。
ヘイトを「法規制がかけられない部分」「民事訴訟の部分」「刑事訴訟の部分」とわけ、これらを別々の事象として捉えるのではなく、「進行する事象」として捉える必要がある。あるいはヘイトを受けた人間の「沈黙効果」って話。かなり自分の中で整理ができたし、少し「わかる」こともありました。で、わたしも微力ながらカウンターやってる人間として、法規制の大切さとともに、ひとりの市民として日常できることをすること。それがヘイトを抑止することにつながり、法規制を後押しするものになるんじゃないかみたいなことを発言して、ちゃっかり仲パレのチラシもまいたり。

で、お楽しみの第二部。
みんなで鍋をつつきながら楽しく飲んでいたのですが…。
ある人が所要のために帰らなくちゃならなくなった時、その人の先輩とおぼしき人が参加者に向かって
「彼、結婚相手募集中です」
とアピールされまして。で、みなさんなごやかに笑われるわけでして。
もうね。「なぜこの場でこんな発言が」と。「ここまできてこれかよ」と。まさに沈黙効果ですね。黙り込むしかなくなります。まぁ、I成さんにはグチったけど、もうあとは「居場所のなさ」で荒れるばかりです。

で、第三部(笑)。
荒れてるなら行かなきゃいいのに、なんとなく行っちゃいました。行ったのは「新右衛門」という沖縄料理のお店。店内には古ーい知り合いがおられたり、デモの常連の「仲間」がおられたり。
ここではカラオケですね。I成さん、うまいわ…。まぁ、沖縄料理のお店ですから、沖縄系の歌がバンバンかかるわけですが…。
せっかくなんで自分も歌おうかと思ったんですけど、ないんですよね。トランス同士で大合唱できる歌。「友だちの歌?」ちゃいます。「セレストブルー?」ちゃいます。ないんです。
「そっかぁ、ないんだ…」
なんともいえない寂しさが募ってきたので、加藤登紀子とか玉置浩二とか歌っておきました。
と、別のお客さんから「歌声気に入った。もう一曲歌って」とかリクエストが入ったり^^;;。
なんか、わけわからんままに、夜がふけていって、気がつくと終電がないという(笑)。

調査結果が出た

今年1月に通知が出された調査の結果が出たらしいです。便利な世の中なもんで、いちいち新聞読まなくても記事は読めるし、さっそくあちこちでさまざまな論評がされているので、いまさら書くこともないなぁと(笑)。
なので、論評ではなく感想かな…。
まずは「ありがたい」ですね。
一定の数字が出ることは、なんだかんだいってもありがたいです。
で、なにが「なんだかんだいっても」かっていうと…。まぁ、なんだかんだですわ。
とりあえず、把握した限りで全国で606人。てことは、うちの交流会にはその数パーセントが来てる。もっとも、これがまた数値としては出ないんですよね(笑)。だって、来てることを学校が把握してなかったら、それはデータとしてはあがらない。
ま、そんな限界を抱えた調査ではあるけど、やはりありがたいです。

あー
でも、ここからいろんな動きが出てくるんだろうなぁ。うちみたいな手弁当のちっちゃなグループなんて、ブルドーザーみたいな力で押しつぶされるんだろうなぁ。あるいは宣伝上手な人たちが「他に類のない活動」とかやるんだろうなぁ。
でもまぁ、来た人間にはわかります。情けない飲んだくれがやる情けないグループにも、ちょっとはいいことがあるってこと。そして「ちょっとはいいこと」くらいでちょうどいいってこと。

同和教育の継承

先週、ある子どものことについて、とある相談を受けました。で、そこから動こうかと思ったのですが、少し大人の判断をしちゃいました。で、動きがストップして、でもまぁ、近日中になんてことになったわけですが…。その後、大人の事情でそのあたりのことは無期延期になったみたいです。まぁ、実質「なし」ってことですね。
で、この話を聞いた瞬間、わたしの中の瞬間湯沸器が沸騰しました。
まぁ、詳細はどうでもいいことなんです。
とても簡単に言うと、優先順位の問題なんです。
わたしは「困ってる子どもがいた時、その子をなんとかしたいと思うのは教員の本能である」と思っています。だからこそ、子どもを中心においてものを考える。少なくとも、わたしは同和教育の先輩たちからそう教わってきました。というよりも、一緒に無茶をする中で、そんな「動き」を身につけてきました。少なくとも、そこに「大人の事情」なんてものはどーでもよかった。
だ、今回「子どもの事情」よりも「大人の事情」を優先した。わたしにはそう感じられました。そう感じた瞬間、わたしの中の瞬間湯沸器が沸騰したわけです。
あとはもう、ほえまくりです(笑)。

まぁ、わたし、子どもなんです。大人の事情なんて、どーでもいいんです。腹がたったら腹がたつ。うれしかったらうれしい。悲しかったら悲しい。しんどかったらしんどい。それだけです。
でも、そういう自分を正直に出すことを、わたしは同和教育の先輩たちから学んできました。

今の「wiseな若い教員」たちに、こんな子どもっぽいことを継承できるのかなぁ(;_;)。