ニュース系バラエティ

今週も特に飲み会もなく平穏な一週間になるかな。なので、定時にあがって、本屋さんに寄って本を買ったりして早々に家に帰りました。
さっさとお風呂に入って、さっさとビール飲んで、録画してあったモトGPを見ても、まだ9時です。もう少し起きてましょう。ということで、この時間のニュース番組は、とある大本営発表チャンネルしかないのでチャンネルをあわせたのですが。
ひどいわ…。
なんか、ずっとノーベル賞。それも、研究内容じゃなく、受賞者の人となり。パートナーさんが出てくるわ、同僚が出てくるわ、同窓生が出てくるわ。果ては「「我が国」の首相」がやらせで電話するシーンまで。
あまりにひどいので、チャンネルのザッピングをしたのですが、民放がまたひどい。芸人がメシ食ってるだけ。あとは互いのいじりあい。
もう見てられなくて早々に寝たのですが…。

たぶん、いまやニュースは「報道」ではなく「ニュースをネタにしたバラエティ番組」になってるんでしょうね。すると「わかりやすい」わけで。
「へー、なんか難しいことしてる人で、中身はよくわからないけど、研究に対してはすごく熱心で、でも案外フランクな人で、少しおちゃめなところもあるんだぁ。難しいこともちょっと身近な感じだなぁ」
みたいな。
そんなもので身近になるはずがないです。難しいことを難しいなりにわかろうとし、そこに適切な解説を加えることで少し近くする。それが身近であることなんじゃないのかな。そんなものは放棄ですね。
あと、受賞者の方がインタビューの中で「基礎研究」の重要さについて話してたけど、これはスルー。今回の受賞理由となった研究は、おそらくはまだ基礎研究にそれなりの予算が投入されていた頃のものだろうと思うのですが、それは無視。先人が育てた成果を、その過程を無視して、横取りして「ニッポンの底力」とか、どんだけ情けないねんと思います。

でもまぁ「「我が国」の首相」は政治に耐えられないバラエティレベルやしな。そして、そんな人と寿司食ってるトップがやってるテレビやからな。そんな人らが「感動する」中身は、その程度でしかないってことですね。

キャッチボール式歩行法から学ぶ

電車の中で、たぶん中国から仕事で渡日してすぐっぽい人がパニック起こしてた。たぶん、どこで降りていいのかわからないみたい。駅ごとに「ここでいいのか!」と、車掌さんや運転士さん(!)に聞いていた。でも、みんな知らんぷり。隣に座ってる人も知らんぷり。
しかたないからそばに行って「どこまで行くの?」って聞いて、隣に連れてきた。ものすごく不安そうな泣き顔で、「ここまで」って言ったので「大丈夫。もう少し先だから」って笑顔で答えたら、「ありがとう。日本に来てはじめて」って言われた。
マジで?って思ったけど、まぁそうなんだろうな。
駅についたので「ここですよ」って言ったら「一緒に」って頼まれた。ホントは行きたかったけど、わたしも仕事があるので「ダメ、わたしも仕事」って言った。でも、電車を降りていく足取りは、さっきとはぜんぜん違うしっかりしたものだったから、なんとかなるかな。
それにしても、なんでみんな知らんぷりなんだろ。自分が仕事で異国の地に行って言葉もカタコトだったらすごく不安だと思う。
風の旅人」の宇都宮さんじゃないけど、みんなが自分ができる範囲でサポートして、できないところは「きっと誰かがやってくれる」ってすればいいんだよ。そうやって、ひとりひとりが「できる範囲を無理なく」ってすれば、ひとりの負担は減って、でもサポートの総量は増えるのにね。
それにしても、宇都宮さんの「キャッチボール歩行法」から学ぶものはたくさんあるなぁ。

それにしても、今日のクライマックスは、自分が英語しゃべれないのに、相手さんに「Can you speak English?」って聞いてみたら、相手さんが「ポカン」とした顔でこっち見た、あの瞬間のふたりの絶望感だな(笑)。

「トランスという旅」

ふいに6年前を振り返るんだけど…。
ごにょごにょ(笑)をしたあとのイベントQで、Kさんと論争になった。
わたし「長い長いトランスの旅が終わった気がした」
kさん「トランスの旅に終わりはない」
この平行線だった。
いま振り返ると、「トランスの旅」に込めた意味が違ったんだろうなぁ。
もしかしたらkさんにとっては「トランスであること」は「自分が生きる」ということと不可分なものなのかもしれない。であるなら、「トランスの旅」は終わらないのは当たり前。に対して、わたしは「トランスであること」は「自分が生きることの一部」なんだろうな。いや、kさんもきっとそうなんだけど。ただ、「トランスであること」に過剰な比重を置く「旅」から「トランスを含み込んだ人生の旅」へと、その時フェーズが変わったんだと思う。それをわたしは「長い長いトランスの旅が終わった」と表現したんだよね。それは同時に「トランスであることを含み込んだ新たな旅がはじまった」ことを意味していたんだけど、それが伝わらなかったのかな。
たぶん、kさんはわたしの言葉を「トランスという病が治った」「トランスを卒業」みたいに感じたんだろうな。でも、そんなことはみじんも思っていなかったし、今も思っていない。わたしにとっては、kさんとわたしの差は、とても些末なものだと思っていたんだけど、kさんにとっては大きかったようだ。それからイベントQに来なくなった。
なんか、あれだけはとても残念でしかたがない。今も「また、来てほしいな」と思ってるんだけど、その思いは伝わらないだろうな。

雰囲気なんていらない!・文化祭2日目

今朝もいつも通り出勤です。
体育館に行くと、部員たちはのんびりしています。もう一個の体育館に行くと、こちらもまたーり。ならば安心です。と、とある部員から「雰囲気、悪いで。ギスギスしてる」とのご指摘(笑)。ま、いいでしょ。
そんなこんなで、ルーティンの間はわたしはのんびり自分の仕事です。部活発表からあとかたづけまでが鉄火場になります。
11時半。さてと、動くか。体育館に行って、そこからは細々とした作業の連続です。マイクは何本必要か。不要なマイクをどうするか。ミキサに接続する機器は何か。はたまた舞台の状態はどうするのがベストなのか。
1年生にこんな細かいこと、わかるはずがないです。2年生でもしんどい。3年生ならわかるだろうけど、バリエーションまでいくと、たぶん無理です。卒業生ならわかるかな(笑)。
てことで、放送ブースのあたりに寝転んで、部員に指示を出しまくりです。ま、任せられない時もあります。

で、片づけがすべて終わってミーティング。

んーと。みんな、「できなかったこと」をあげてるけど、できるはずがないんだよ。だから、できなくていいの。できることをいかに増やすかってことを考えてくれたらいい。
あとね。「雰囲気が悪い」って言ってたね。雰囲気なんていいはずがない。現場は急いでいるからね。鉄火場なんだ。そんな時に雰囲気よく話ができるはずがない。だから、それでいいんだよ。どうしたらよかったのかは、あとで振り返って考えればいい。
あとね。任すって難しいんだよ。
君たちは、今までの学校での経験で100%任されたことはあるかい?きっとほとんどないと思う。でも、わたしは任せるよ。任せるときはほんとうに任せてしまう。でも、結果には責任をとります。だって、学校に対して「ごめん」って言うだけのことだから。だから、安心して任されたらいい。
でも、任せるときに任せられる人と任せられない人は考える。「これなら大丈夫」「これはあいつしかアカンかな」「これは誰にも任せられないな」ってね。それは考える。そういうもんなんですよ。
それからね。できないことに対して個人を攻撃しちゃいけない。放送には「技術」と「動き」がある。例えば「動くけどできない人」と「できるけど動かない人」がいた時、どちらがいいと思う?それを考えたら「できないこと」への攻撃は違うことがわかると思う。個人の責任にするんじゃなくて、どうすればチームとしてうまく機能するかを考えるんだ。チームとして必要なことはたくさんある。それらがすべてできる人はいない。だから、ある瞬間に「できない人」と見られても、その人が「できる人」になることはある。そういうものを見つけいくことが大切なんた。
じゃ、みんな、もう一回文化祭を振り返って話してごらん。

さぁ、文化祭は終わった。次は体育祭。
でもその前に呑み会だ(笑)。

いつもの中華料理屋で、あーだこーだと大盛り上がりです。
でも、明日の朝、早いんだよね。さてと帰りましょう。

「困る」ということ

よくインクルーシブ教育がらみで「困った子は、困っている子」と言われます。これ、教員目線で「この子、困った子だなぁ」=「教員が扱いに困る子」というのは、実は本人が一番困っているんだよということなんですよね。つまり、視点を教員から生徒に移すことでパラダイムの変換が起こる。そのことを通して、「教員の困り感」に疑問を呈するわけです。
これは、とっても大切だよなぁと思います。
が…。
たまに「この人、困ってないんじゃない?」と思うこともあります。いや、たぶん、その人自身は困っておられます。が、困っている感が伝わってこない。
なぜなんだろう…。「困っている子ども」となにが違うんだろう。
よくわからないです。が、ふと思ったのは「右往左往していない」ところにあるのかもしれません。ブレがない。言いかえるなら、「変化する意志」がない。さらに言いかえるなら、「変化をまわりに要求する」ということなのかな。
もちろん、そのことそのものは別に悪いことだとは思いません。が、それは本人がなんとかする以外方法はないです。だって、「この人のために、あなた変わって」なんてことを、他者が言えるはずがない。
まぁなにがどうということもないのですが、なんとなく…。

なんちゅう

現代の障害者殺し。というか、ジェノサイドですね。
でも、ああいう行為、考えている人間はそれなりにいるんだと思います。わたしはその程度には悲観的な人間です。
が、考えることと実行することの間には「深くて暗い河がある」のです。それを渡れるってことは、ジェノサイドが許されるという社会の状況があるのです。それをつくってきたのは、まさにヘイトスピーチであるし、それを許容する現政権だと思います。
ほんとのほんとに、なんとか押し返さなくちゃ!

当事者と非当事者の線引き

今日は昼呑みしながらのインタビューです。もちろん、わたしは受ける方。でも、実はどんなインタビューかよくわかってなかったり。でもま、なんとかなるでしょう。
で、お店に入って趣旨を説明されて、なるほどなと。「アライをめぐる話」でした。

なんか、アライ論争ってあるみたいです。が、基本線としては「アライはアカン」みたいな感じなのかな。まぁ、根本的な話として「アライは「ally/foe」という軍隊用語で、それを使うのはどうよ」ってのがあったりして、ま、それはそれでいいよねとは思います。が、一概に「アライ」をバッサリと切ることにいかほどの意味があるかなと思うのです。
ちなみに、「アライ」=「非当事者の支援者」とするなら、当然のことながら「当事者とは誰か」という話が出てきます。これ、そんなに簡単なことじゃないです。いや、「疑いようもなくわたしは当事者なんだ」と思ってる人には「なに言ってんだ」ってことになるんだろうけど、そこで一度立ち止まりたい人にとっては、「そうだよなぁ」ってなることですよね。
例えば…。
かつて「日本籍朝鮮人」は「日本籍」ゆえに当事者とはみなされてこなかった。でも、それに異を唱える人が出てきて、当事者性を獲得していったということがある。あるいは、HIV訴訟の支援者の中にHIVポジティブであることをカムアウトせずに支援者としてかかわる人がいた。この人は当事者なのか支援者なのか。さらには、例えばDSDsの身体を持っていたとして、そのことでさほどの不都合もなく生きることができる人が仮にいたとして、その人が検査を受けないがゆえに自分のことを知らなかったとして、その人は当事者なのかどうなのか。そしてなにより、さまざまな人々が自分のことをどう定義するのかです。
てことで「アライの定義は?」と聞かれたので「自己申告でしょう」と答えました。
それにしても、なぜ「アライ論争」が起こるのかなぁということをあらためて考えた時、もしかしたらと思ったのが、「LGBT当事者」の中には、「アライとしての自分」という経験を持ってない人が多いからなんじゃないかなって、ふと思いました。
わたしは部落外の人間として、あるいは日本人として、解放教育や在日外国人教育にかかわっています。その立場は、まさに「アライ」です。じゃあ、その「アライ」であるわたしが、例えば自分の出自にであることに無自覚かつ運動にもかかわっていない「当事者」と比べて、なんらかの非難をされるべき存在かというと、そんなことはないと思うのです。というよりも、もしも先に述べたような人が、こんなわたしを非難するとしたら、それは「当事者」にあぐらをかいているだけだと、わたしは思います。
「○○でないお前に何がわかる」とは、わたしは言われたことがないけど、まぁ定型句です。今のわたしなら「わかるわけないやん」と言います。だって、わかるわけないもん。で、わかるわけないことをあえてこういう言い方をするとしたら、それは「当事者」にあぐらをかいているだけだと思います。そう思うわたしは、「なんらかの当事者(笑)」になった時に、「これだけは言わない」って決めました。わたしはあぐらはかきたくない。
で、もとにもどります。
そんなことを考えるわたしが、「アライとは誰か」と言われたら、先に書いたような「自己申告」です。「いや、でも、自分の利益のために「アライ」という言葉を自称する人がいる」なーんて話が出てきたら「困ったねぇ。でもま、しかたないんじゃない?」って言っちゃいます。なぜなら、たぶん、深くコミットメントしてる人は、すでに「当事者」だからです。その当事者性は、「いわゆる当事者」とはレベルが違う。そして、そんな人は、自分のことを「アライ」とも「当事者」とも言わない。例えばHがしさんみたいにです。
一方、「当事者」という言葉しかないなら、それに対置する言葉は「非当事者」しかなくなる。そんな時に「アライ」という言葉があれば、そこでとりあえずアイデンティファイすることができる。もちろん「とりあえず」だから、やがてはそこから離れたらいい。
そんな、「仮置き場」としての「アライ」はあっていいだろうというのが、わたしの考えなのですが…。
まぁ、最後はどうでもええんですけどね(笑)。

てことで、デカンタで頼んだワインを飲みきったら、かなりフラフラになりました。
さてと。帰ろう。

いつまでできるかな?→ホーム感

朝、雨です。てか、家を出た時は降ってなかったじゃん。なぜに、駅を降りたら雨?折りたたみでは防ぎきれない雨をくらって、ずぶ濡れになって出勤。しかも、汗ダク。
にしても、ほとんどの教員は車出勤だから、この感覚がわからんだろな。雨を防げてクーラーが効いて、座ったまま。例えば「2列で歩くな!」って言ったって、車もつくりが2列じゃん(笑)。教員の仕事を考えた時、車出勤が禁止というのは論外だと思うけど、生徒の気持ちを知るためには、たまには、それも悪条件下での電車出勤もいいと思うんだけどなぁ。
なーんてことを考えながら、仕事。
と、「教職員の政治活動に罰則」なるニュースが飛び込んできました。まぁ、前にも産経新聞は書いてましたけど、今回の参院選の結果を受けて、現実のこととなるわけですね。
これ、成立したとして、1年2年の間に適用される人間は、たぶんいないでしょうね。でも、「罰則がある」という効果はありますよね。自主規制しますから。そして、3年とか5年たった時、「初の適用事例」みたいなニュースが駆け巡ることになる。
ちなみに、刑事罰が与えられるわけですから、当然線引きは必要なんですけど、たぶんその「線」は「特定秘密」なんでしょうね(笑)。
ま、今や、定年までの年数とここらあたりの法律のチキンレース状態です。
しかし、誰かわたし(たち)を守ってくれる人は、いるのかなぁ。勤評闘争の時みたいに。逆に「いい気味や」って思ってる人のほうが多いんじゃないかなぁ。

なんて、とても暗い気持ちで仕事を切り上げて、京都駅前で学生さんたちと打ち合わせ。ビールはおいしいし、ワインもおいしい。こちらは楽しい。昨日のアウェイ感とはまったく違います。こちらはホーム感があります。まぁ、そんなもんか。

歩く→流行病→歩く→会議の作法?→アウェイ

今日は午前午後と会議の出張があって、夜は呑み会。長丁場です。てか、夜の呑み会、めんどくさいです。
とりあえず、午前の会議のために第二の故郷へ。毎回思うけど、この図書館へ行く強烈な登りの20分、なんとかならないか?まさか、頭を鍛える前に身体を鍛えよというわけでもないだろうけど、ほんとにこれはアカンと思います。

で、会議。
子どもたちの学力について話し合う、とてもおもしろい会議です。
それにしても、やはり「発達障害」は流行ってるのかな。単に気づくようになって顕在化しただけなのかな。それとも、子育てのあり方が変化したのかな。いや、「子育てのせい」なんじゃないんです。「子育ての変化」が「顕在化を促した」のかなってことです。あるいは、みんな検査をするようになってボーダーの裾野が広がったのかな。よくわからないけど、「増えた」ことは確かなようです。
これ、実は「GID」にも同じことが言えるかと(笑)。流行りなのか、顕在化なのか、それが社会の変化によるものなのか子育てによるものなのか、はたまた感染してるのか。なんしか「増えて」いますからねぇ。
まぁ、そんなことを考えながら、ムラの子たちの学力について、変化したこと変化してないことなんかについてみんなで話し合いました。

で、会議のあとは次の会議の場所へ移動。これがまた、メッチャめんどくさい。並行して走るふたつの鉄道の間はけっこうあるのに、その間をつなぐ交通機関はありません。しかも、出張先は両方の鉄道の外側にある。
途中

を食べて、再び田んぼの中を30分ほどテクテク。メッチャ湿度が高くて大汗かきました。

午後の会議は人権担当者の会議です。
会議の司会ってむずかしいですね。いかに参加者にしゃべってもらうか。今年の担当者はけっこうお互いを知ってる感じなのでやりやすいんですけど、会議のまわし方でしゃべるかしゃべらないかが決まります。
なんか、いろいろ考えたけど、たぶん司会がしゃべりすぎないことが大切なのかなと。でなくて、話をまわす。論点を明らかにして、意見を募る。はじめのうちは、出なければ指名もあり。で、締めくくり的な発言が出たら、「まぁこんなところですかね」と終える。最後を司会がまとめちゃうと、常に司会の私見で終わってしまうので、参加者が発言しなくなってしまう危険性がある気がします。
今日の会議は途中、司会者が放置してくれたおかげで(笑)、ずいぶんと意見交流ができたかな。ちなみに、京都府南部では特別支援学校の地殻変動が起こっているようです。

で、夜の呑み会にそなえて、いったん職場へ。雑務をわわわ!とやっつけちゃいます。で、夜の呑み会の前に駅までテクテク。必要な切符をゲットして、呑み会会場へ。
今日は生徒指導関係の人々の呑み会です。なんでわたしがそんなところに行くかというと、わたしは生徒指導部に属しているからです(笑)。
にしても、アウェイ感はハンパないです。
なにせ、もとから他校の教員を知らない。しかも、根っからの文系畑で来たから、横のつながりのない人間関係の中にいます。なので、ますます知らない。さらに「大部屋」にいなくなって久しいので、自校の教員すら知らない(笑)。
そんなところにもってきて、そもそも話題があわない。
まぁそんなこんなで、ハンパないアウェイ感に身を包まれると、人は自然に無口になって、自然とお酒を飲むようになるのです。
てことで、紹興酒を半分ほど飲んだところで「あ!これはアカンやつや」と気づいて、水を飲んでました。
でも、そんな中、優しい人もいるわけで、ひとりでいると横に来てくれて話をしてくれるとか、ほんとにありがたい。
でも、家に帰って汗ダクの身体をシャワーでなんとかして、ビールを飲んだ瞬間、ようやく緊張した笑顔がほどけましたとさ。

負け飽きたけどあきらめない

まぁ、象徴的でした。
東北では野党共闘が勝ち。福島と沖縄では現職大臣が落選。一方、なーんも考えてないとしか思えないタレント議員が誕生して、関西は思いっきり「改憲勢力」が勝って、その中で京都だけは福山さんが通る。
それでも、とにかく自民党単独過半数改憲政党単独の3分の2は阻止。もちろん、それがいかほどのものかは別としてですけどね。
なんしか、前々回の民主がとても多くて、前回の自民がとても多くて、今回「いつも通り」になったら、そりゃ、自公が勝つわな。そう考えると、前回よりはよかったわけで、3年後、もしも参議院がなくなるとか、選挙制度が変わって選挙がなくなるとかしなかったら、その時の結果はまたわからないと、楽観的になることにしましょう。
なんしか、もう何十度目かの
「たーたかーいは、こーこかーらー、たたかいはいまからー。がーんばーろう!がんばろう!」
です。
それにしても、自民の選挙のブレーンはずる賢いな。野党側も金を出し合ってヘッドハンティングすればいいのに(笑)。