sortの順番

朝、同僚に「放課後出す資料だけど、例年通りでいい?」と聞くと、「成績を上から並べたのも出してほしい」と言われました。「全員分?」と聞くと「全員分」とのことでした。ふーん。
なので、
い「全員分出すけど、成績は下から並べるね」
同「上から」
い「下から」
同「そんなん、ソートしたらええやん」
い「いや、下から」
と押し問答をしてみたり。
なんでも上からじゃないと見にくいそうな。でも、そんなの「慣れ」です。
わたしはその「慣れ」が別のところに向かうほうが怖い。それは、子どもたちを「成績が上の子から見る」ことへの「慣れ」です。

例えば、教室の後ろに大学の偏差値一覧が貼ってあります。その順番は、偏差値上位が上です。必然的に、偏差値上位の学校は「見上げる」ことになります。そして偏差値下位の学校は「見下ろす」ことになる。
同じことが「壁に貼る」わけではないけど、子どもたちの成績を見るときに起こる。成績上位者を見上げ、成績下位者を見下ろす。そのことに慣れることが怖い。
そんなことを思って、ふたりばっかに「どっちから並べる?」って聞いたら、ふたりとも「上から」ってことでした。ただ、理由を聞くと、excelのsortが降順がデフォルトだとか。あり?わたしのは昇順だけどな。よくわからんけど。
ただ、クラス順名簿順なら昇順になるはずです。よくわからん。
わからんけど、どうやら成績下位者を上にする並べ方は少数らしいということがわかりました。

久々にアクセル踏んだわ

朝、メールチェックをすると、メッチャメールが来てます。てことは、メールの返事祭り?てことで、ひたすら返事を書いたのですが、返事を書くと返事が来るのがメールというものです。アカンやん(笑)。
あとは夏休みの宿題をつくったり、なんだかんだとやってたのですが…。

問題は授業だな。
そもそも、なんでこんな時期に授業があるねん。進学校は知らんけど、そうじゃないところも進学校にならって授業がある。というか、わけのわからん「授業時数確保」とかで授業がある。だって「内容的な必然」でやるなら意味があるけど「確保」のためなら、単なる穴埋めですよ。
そもそも、わたしが教員になった頃は、「試験休み」なるものがあって、期末試験と長期休業の間は成績処理のために授業がなかった。ところが「試験返しをせんとあかん」という理由で「休み」がなくなった。そこからなし崩し的に試験返し→授業になって、すると採点の時間を確保しなくちゃならなくなって、試験が前倒しになって…。すると試験前の期間が短くなって単元を終えるのがきつくなる。ほとんど本末転倒です。
さらに言うなら、授業時数を確保してたくさん授業をやったら学力があがるのかというと、そんなevidenceはどこにもない。てか、PISAあたりのことを鑑みると、日本は授業時数が多い割に、授業時数が少ない国よりも点数が低い。じゃ、なんのための「授業時数確保」なんだと。
ほとんどかつての「スポコン」の世界です。ちなみに、スポーツの最先端は「根性」ではないですよね。科学的なevidenceに基づいてトレーニングをしている。スポコンがまかり通ってるのは授業くらいですよ。
さらに、大学までも「半期15コマ」が厳守だとか。なので、土曜に振替をやる。でも、そんなんイレギュラーだから、例えば土曜日に定期的に用事を入れてる学生は出られない。もっと言えば「学生ローン大国」の日本では働かなきゃ大学に行けないわけで、なのに「半期15コマ厳守」とか、ムリじゃん。必然的に振替の日は出席率は低くなる。言い換えるなら学生の学習権が侵害される。でも「自己責任」となる。
構造を問わずにこの責任にしたら楽ですよね。
で、誰がこんな世界にしたかというと、おそらくは制度と現場が相互反映的にやっていったんだろうとは思うど、その最初の「言い出しっぺ」はいるわけです。それは、おそらくは「教育の素人」だろうと思われるわけです。
誰が教育の玄人かというと、ひとつは教育学者です。あとは、現場にどっぷりと浸かり込んでいない教員です。ちなみに、現場にどっぷりと浸かりこんでる教員は、「舵取り」はできません。「考え」ではなく「感覚」で判断してるからです。
てことで、教育の素人が口を出すなと。

まぁそんなことを考えざるを得ない、週末に1日たりない木曜日なので、思わず子どもたちに
「なんでこんな日に授業やねんと思わへんか?」
とグチモード。すると子どもたちはポカンとしてます。そりゃそうだな。子どもたちはこれが当たり前だから、自分の置かれてる状況を疑いようもないよな。
てことで、一席ぶったあと、しかたないので授業です。
単元は「不等式のあらわす領域」です。

まぁ、社会もふたつにわけたがるよね。例えば、この出席簿に書いてある君たちも、ある記号でふたつにわけられてるんですよ。なにかわかる?「性別」です。
そんなん、当たり前やんと思ってるやろ?じゃ、女って何?男って何?「そんなん、チンコがあるのが男で、マンコがあるのが女やん」と思ってるやろ?でも、実際には身体の性はスッパリと二分できないんだよ。「だって、書類に書いてあるやん」と思ってるやろ?でも、世界の中には「X」っていうのがある国があるねん。実は、そんなに簡単なことじゃない。
そもそも、「男とは何か、女とは何か。誰が男と言われ、誰が女と言われるのか。男とは誰で、女とは誰か」ってことを考えるのが、わたしが大学で研究しているテーマなんですよ。
人間をわけるのは、他のことでもいい。例えば、アメリカでは肌の色でわけてきたし、今もわけてる。日本でも部落か部落外かでわけてきたし、今もわけてる。あるいは、日本国籍を持ってるかどうかでわけてる。いろんなわけかたがあるのに、なぜ「性別」でわけるのか。
それは、この社会は「異性愛」だからですよ。だから、ふたつの性別が必要となる。
例えば君たちは、制服を着ている。制服はふたつの性別でわかれてる。君たちは制服によってふたつの性別にわけられてるんですよ。髪型は自由意志?でも、だれかモデルになるものがあって、そのモデルにしたがってわけられてるんですよ。
そうやってふたつの性別にわけたうえで、男性中心の社会をつくってる。そういう社会をつくるために女性を利用する。
だから、「性別」があるんですよ。
まぁ、領域も同じようなもんでね。ある直線を境にふたつにわけるんだよ。じゃ、例23を見てみようか。

久々にアクセル踏んだわ。
でも、ポカンとしながら、必死でこっちを見てる子がいたのがうれしかった、夏休み前の授業のひとときでした。

見捨てない

昨日の放課後、なにやら廊下で「反省文」を書いてる(「書かされている」とも言う」子がいて、その隣で課題をやってる子がいて。たいていこういう時は「なにやってんの」と、適当にからむことにしています。まぁそれはそれでいいんですけどね。
その「課題をやってる子」は、今一番手を焼きながらも心配しているAという子の友だちBです。で、
い「あんな、図書室学習やることにしたの、Aのためやねん。Aは、クラスやったら私のことキライやから勉強せーへんやろ?でも、図書室やったらするやん」
A「うん、今日はフツーにやってた」
い「うん、知ってる。そやし、頼むわな」
みたいな会話がありました。
ほんとうに、ちょっとやんちゃな子がいる学校だったら、全国どこにでもある、少し離れてみるとクッサイ会話です。でも、クッサイけど、大切な会話なんだろうなと思っています。なぜなら、大切だからこそ、全国どこででもそういう会話がされているんです。

で、今日、心配しているAは欠席。しかたないです。でも、昨日は質問しなかったBが質問してくれました。たぶん、Aを見捨てたくないと思っていることがBに伝わったのかもしれません。そのあとで休んでいるAのところにも行きました。みんなの前ではわたしに反発しているAも、1対1ならいい子です。これも、少しやんちゃな子がいる学校では、全国どこにでもある風景です。
い「これ、プリントな」
A「持ってる。きのうやった」
い「知ってるよ。でも、もう一枚。勉強してほしいねん。あと、これな、公式集。これ使ったらぜったいできるし」
A「ありがとう。これ、Cに渡してくれる?」
い「ええよ。渡しとく。ほな、頼むで」
これまた、全国どこにでもあるクッサイ会話です。
でも、こんなことを少しずつ繰り返していくことが、笑って年度末を迎えるために大切なことなんだと思います。

でも、別の子Dとの授業中の会話。
さらに別の子が「こじき」という言葉を使ったのに対して、
「その言い方、あまり好きとちゃうなぁ」
というわたしに対して、「今はホームレスっていうんやで」みたいな会話があって、そこに
D「あれは自己責任や」
という発言がありました。なので
い「ちゃうで、社会のしくみを知らんとアカンで」
と返したのですが、
D「でも、オレはそう思う」
い「「思う」ではあかんな。社会のしくみを知る必要がある」
D「知らんでもええ、オレは思う」
みたいな会話。最後は「からんでくるな」と。いや、からんできたのはキミですわ(笑)。

まぁでもこいつも見捨てずに、これからの長い長い1年の中でいろいろやっていくしかないだろうな。

再び『分解者たち』

朝、職場に着くと、こないだの部落問題学習の感想が返ってきてました。その中に「あぁいうシーンは不愉快だから流さないでほしい」という感想がありました。
そこで思い出したのが『分解者たち』です。

かつては「人→糞尿→肥料→作物→人→」という円環が成立してた。でも、「糞尿→肥料」のところが途切れた。「糞尿」は、わたしたちの知らないところで処理されるようになった。「肥料」は化学肥料になった。ボットン便所の頃は「糞尿」はわたしたちの下にリアルにあった。でも今は水を流したらどこかへと消えていく。でも、その行き先を知らない。その「行き先」に押しつけてる。そこは都市の外部にある辺境か、あるいは都市内部の辺境。
同様のことが、屠場にも言える。どこかで処理をされた牛を食べている。その「どこか」は誰も知らない。誰かがその処理をしてるけど、その「誰か」は誰も知らない。辺境で処理をされている。その辺境が顕在化した瞬間、「不愉快」という感情が沸き起こる。「隠蔽せよ」という言葉が発せられる。
マグロの解体ショーは成立するけど、牛の解体ショーは成立しない。いや、マグロもショーとしての解体しか成立せず、日常生活での解体は存在しない。魚を三枚におろす必要もなくなってる。今はまだ「魚屋さん」というリアルなところにあるけど、コンビニで魚が売られる時代になったら、もしかしたらそのリアルさがなくなるかもしれない。魚の頭を落とし、内蔵を掻き出し、皮をひくという屠場と同じ作業が、もしかしたら隠蔽される時代が来るかもしれない。
皮を剥がれた頭の中にタンがある。それを取り出し、皮を剥いで薄くスライスしたものを「タン塩おいしい」って食べてる。でも、そのもとには、あの皮を剥がれた頭がある。
革だってそうです。
みんな革製品を買う。でも、その革製品をつくるためには、誰かが「皮をはぐ」という作業をしている。そして、その皮を誰かが鞣してる。あのすごい臭いの中で作業をしている。でも、そんなことを知らずに、それは隠蔽されたままで、わたしたちは革製品をほしがる。
そんなことを思いました。だからこそ、わたしはあえて顕在化させようと思ったし、顕在化させたし、これからも流し続けます。

てことで、わたしの話を聞いてくれた子らの「6人講座」でそんな話をしました。
みんな真剣に聞き、反応してくれました。ええ子らです。
ついでに「おべんきょ成果」の話もしたりして。
なんでも、この間の「関西インクルーシブ教育研究会」の帰りに「社会学で博士をとるか、『Sゃ会学Hょう論』に「おべんきょ成果」が載ったら「社会学者として認められる」って言われる」って言っておられる方がおられました。てことは、あそこに載ったらこんなことになるんですね。
「へー、社会学ですか。どんなことをやってるんですか?ジェンダー。へー、どこの大学にお勤めですか?え、高校。何を教えておられるんですか?数学?」
みたいな。「数学を教えられる社会学者(笑)」です。
その延長で、バトラーの話やセジウィックの話をしたら「こっちのほうがおもしろい!」って言われた「数学B」の時間でした。

聞くのが怖いことと聞かなきゃならないことは違う

今日から2年生が研修旅行です。ちなみに、わたしが授業を担当してるのはほとんどが2年生&副担任も2年生なので、わたしが引率になれば「穴」がなくなるのですが、なぜか引率にはならない。まぁ、そりゃそうでしょうね(笑)。
なので、穴が開くおふたりの代講をするなど。
授業が終わったら、駅まで走って出張です。ちなみに、火曜日は出張日なので、本来走らなくていいようになってますが、代講があるから走らなきゃなりません。これ、1週間ずれてたら、代講できないから、えらいことになってたぞ(笑)。
で、午後からの会議で出た話題のうちのひとつが、外国籍の子どもの在籍把握の問題です。
いちおう、毎年文科省が5月1日時点での国籍別の在籍数の調査をしてきます。「把握できる範囲で」って言われるけど、できる限り正確な情報は出したいです。だって、把握すればするほど人数は増える、逆に言うと「不正確さ」は、すなわち人数が少なくなることですからね。
あと、国籍別より、ある種大切なのは、「在留資格」です。例えば「配偶者等」とかだと、親が離婚したら在留資格がなくなります。ヘタしたらオーパーステイで入管行きだっだ、ないわけではない。あるいは「家族滞在」も不安定です。さらに就労制限がかかってるから、原則的には働けない。働く場合は入管の許可を得ないといけないし、28時間/週の制限があります。てことは、例えばそれを知らずに子どもがバイトしたらヤバイことが起こりかねないし、ましてやその子が就職希望だったら「そういう指導のしかた」をしなきゃなりません。ちなみに、「日本で義務教育を受けた」とみなされる場合(渡日が小学校4年くらい以前だとか)は、就職が決まったら「定住」に切り替えられるので働けるようになるんだけど、そういうことも知ってないといけない。これ、就職だけじゃなく進学にも影響します。日本学生支援機構の奨学金(ローン)は、家族滞在の場合は「申込資格」がありません。そんなことも知ってないといけない。
「知ってないといけない」は、制度を知ってることはもちろんですが「目の前の子どもがそうであるかどうか」も「知ってないといけない」。
で、それは誰に聞けばわかるかというと、本人や親です。
京都では多くの学校が、入学時に新入生から住民票を提出してもらってます。たいていの自治体では、住民票を見れば外国籍か日本籍かはわかります。でも、ほとんどの場合、「国籍」「在留資格」「在留期間」の欄が「省略」になってます。これ、申請者が「省略」にチェックしてる場合もありますが、役所の受付で「どこに提出されますか?」と聞かれて「高校です」って答えると「じゃここはいらないです」って、役所の職員の判断で省略されてしまうこともあります。さらに自治体によっては、そもそも欄そのものがないところもあるとか。
で、一番簡単な把握の方法は、『入学の手引』に「外国籍の方は国籍欄・在留資格欄・在留期間欄を省略せずに出してください」って書くことなんですよね。
ところが、会議でそんなことを言ったら
「そんなことはできない」
って言いはじめる教員が出てくるんですよね。
「子どもが知らされてない場合、どうするんだ」
って。いや、子ども知ってるし。そしたら
「なぜそうとわかる」
ときます。だって、現行の住民票だって「日本籍ではない」ことはわかります。てか、そもそも自分の国籍くらい知ってないでどうすんねんと。だって、主権者教育受けて、投票行く気満々で、18歳になってハガキが送られてこず「なんで?」って親に聞いたら「あんた外国籍やし」って話ですよね。どのみちわかるんだから、知るのは早ければ早いほどいい。
でも、教員はビビります。
「そんなことは聞けない。文科省には協力できないって返せばいい」
「じゃ、在留資格の問題はどうするんですか?もしも『入学の手引』に書かなかったら、ひとりひとり確認をしなきゃダメですよね」

そりゃ、聞くのは怖いですよ。でも、その怖さは、「わたしの問題」なんです。だから、「わたし」が克服すべき課題でしかない。そして、こちらが覚悟を持ってたずねれば、ほんの少しいろんなことがあるけど、教えてくれます。なにより「なんのために聞いてるか」ってことが自分の中で整理できてることが大切なんですよね。
それは部落のことも同じです。障害だって同じです。自分の置かれた立場を自覚するところからはじまります。
でも、どうやらそうは考えない教員もいるらしいです。子どもに必要なのは「隠すこと」ってことらしいです。
まぁそんなことを考えながら会議は終了。

夜は恒例の会議→総会→飲み会です。こちらはホンネでしゃべれるから楽ですね。
でも、家に帰るのは遅くなります。そのためにスペアのおべんと箱を買ったんですけどね。で、家に帰るとおべんと詰めてくれて、明日の朝の準備も終わってました。ありがたや。
その隣にあったメモ。

なるほど(笑)。

「おもしろかった」らしい

今日の授業はプリント学習。と思ったけど、あまりにも簡単なプリントなので、早い子は10分ほどで終わってしまうんですよね。そうなると、残りの40分がヒマになってしまいます。もちろん、課題は与えるけど、やるかどうかはその子次第です。てことで、はじめ15分だけ授業をして、プリントの時間は35分にしました。
さてさてどうなるか。
教室で教員と生徒の間にinteractiveな関係がある場合は、子どもたち同士の関係をどうつくるかってのが課題になります。でも、教員と生徒の間にinteractiveな関係がつくれない場合、子どもたち同士の関係があらかじめあって、教員を寄せつけない感じがあるんですよね。そういう場合にどうするか。とにかく、個々の生徒との関係をつくるしかないです。だから、どんな質問にも全力で答える。解決の糸口を提示して考えてもらう。こういう教員と生徒の関係づくりを通して、既存の子どもたち同士の関係を切る。interactiveな関係にある子どもを少しずつ増やす。そして、そういう子どもたち同士の関係を再構築する。
たぶん、そんなことが必要なのかなと思います。今はその最初の段階です。そして、プリント学習の時間が、それをやる時間なんですよね。だから、ここでの個々の子どもたちとの関係づくりは大切です。と同時に、「数学」でつながっている関係があれば、それを最大限尊重して、肯定する。そうすれば、「そういう関係は肯定される」ってことが明らかになります。
プリント学習のもうひとつの効果は「できる」気にさせること。そうすれば、諦めなくなります。なので、みんなのできぐあいを点検しながら、苦手な子が少しずつでもやっていたら「やってるね。OKOK」とつぶやく。
そんなことを繰り返しながら、35分間をめいっぱい動きまわりました。
職員室に帰ったらプリントチェック。楽しみなのは、プリントの最後にある「今週の授業を振り返っての一言」欄です。ここには子どもたちが気づいたことがいっぱい書いてあって、それを読むと自分が何に気をつけながら授業を進めなくちゃならないかがよくわかります。そんな中に、ひとこと「おもしろかった」と書いてる子がいました。
この子とは、ほんのちいさなひとことがきっかけで、すこしずつinteractiveな関係をつくりつつある感じなんですよね。こういう小さな関係を大切にしながら、クラスづくりをしなくちゃなと思いました。
さらに、放課後、気にしている生徒と会ったので廊下で立ち話。
「まさか、うしろの答え、写してへんやろな?」
「写してへんよ」
「そうか。あのプリントな、できぐあいはどうでもよくて、半分しかできていない子をチェックしてるねん。その子ができるようにするためにやってるねん。だから、写されるとチェックから漏れてしまって困るねん」
「今回、簡単やったし,自分でできたわ」
「そうかぁ。よかった」
少しずつ「芽」が出てきたかな。でも、まだまだこれからです。

何が違うのかな

今日から授業は「円の方程式」に入ります。まぁ点がとれるヤツです。覚えさえすればね。てか、「図形と方程式」の分野は「公式を覚えてあてはめる」だけで、それなりに点がとれます。なのに、なぜか点がとれないんだよなぁ。まぁ、公式を覚えてないのとあてはめられないんだろうな。なので、いかにそれらができるようにするかなんですけどね。
で、2つのクラスで同じ授業をしたんだけど、反応があまりにも違う。片方のクラスでは笑いが起きたけど、片方のクラスではほとんど反応がない。笑いが起きたクラスでは、隣で社会のノートを写してる子に「今日の授業、なんか知らんけど、おもろいで」と、暗に「聞いてみたら」って言ってくれたんですけどね。
たぶん、「笑い」って、緊張がカタルシスを迎えることで起きるものかなと思います。で、緊張は集中によって生まれます。集中してる人は、その場に参加してるんですよね。てことは、笑いが起きたクラスは、その場に参加してる子が多くて、すなわち集中してるってことになるのかな。
ちなみに、もうひとつのクラスでも笑いは起きたけど、それはある生徒を当てた時なんですよね。どちらかというと「いじり」の笑いです。まぁ、その子はいじめにあってるわけではないのがわかってるから、そこはスルーしたけど、まぁそんな感じです。「笑いの質」が低い。
いま、授業のやり方を「反応がないクラス」向けにカスタマイズしてます。とにかく、徹底的に苦手な子に点をとらせるための授業の工夫をしてます。で、そういう授業は、実は高得点層にも「利」があったりします。たぶん「笑い」のあったクラスは点が伸びるんじゃないかな。でも、もうひとつのクラスは自信がないです。いや、一部の子らの点は伸びるか。つまり、クラス内の格差が拡大するのかな。
2つのクラス、何が違うのかな。

そんなことを考えて職員室にもどってスマホを見ると、スパムメールが来てます。めんどくさい。おとついあたりから来るようになりました。
たぶん、来始めると、どんどん来るようになります。しかし、スパムメール出すヤツ、なにがおもしろいんだ?

で、夜はまんまるの会。
最近、参加者が変わりはじめました。いや、最近は違うか。常に変わり続けてるんだけど、今の変化が「変わった感」が強いのかな。ここ一年くらい、若いトランス男性が来るようになりました。
まんまるの会は受診者の会だから、当然みんな体をいじりたい。自己紹介タイムでもそんな話が出てきます。
「もっと自分の考える性にあわせた外見になりたい」
思わず
「充分そう見えるよ。実はね、トランスが一番「そう見える」と考えるハードルが高いんだよね」
もちろん、元ネタはこの本です。
と、他のベテラン参加者からも、そんな「はやる気持ち」に水を指す発言が。
「そうそう、少しハードルを下げると楽になるよ」
こんな感じがいいですね。
飲み会タイムでは、しょーもない話です。
ちなみに、まんまるの会に来るトランス女性は、不思議と「しょーもない話」をする人が少ない気がします。基本的にマジメかな。何が違うのかな。まぁ、まんまるの会のトランス女性には過酷な経験してる人が多いから、それはそれでしかたないかもしれません。
そんなことを考えながら、9時くらいから「やぱいかも」って思いはじめました。なにがヤバイかというと、明日のことです。朝起きられないかも。なので、9時半くらいにおいとま。トントン拍子て電車が来たので、さっと帰れたけど、それでも家に帰ったのが11時過ぎ。あかん、睡眠時間が足りない(;_;)。

そこじゃないんだよな

今日は午後から会議で出張です。つくづく出張が多いなと思います。でも、午前は何もないから、雑務をしたりおべんきょしたりしようかなと思っていたら、1時間目は会議でした。これ、いらん(;_;)。
しかも、雑務がけっこう大きいのが来て、半日ほとんどそれでつぶれました。でも、ひとつ大きな懸案事項が処理できて、それはそれでよかったなと。

で、午後からの会議は京都府南部の人権教育担当者の会議です。約半数が去年からの継続メンバーなので、話がそれなりにはずみます。さらに特別支援学校の方もおられるので、観点が豊かです。
そんな中、話題はこないだの加藤さんの話の感想へとなだれこみました。
それなりに好評だったのはうれしかったんだけど、なんか違和感が…。そうか。みんな「薬物依存」の「薬物」に焦点化した感想なんだ。そこじゃないんですよね。加藤さんの話は「依存」に重きをおいてるんです。つまり「依存」を「心の弱さ」みたいな定義不可能で個人的な問題とするのではなく、その人の置かれた状況と結びつけて考えるという、いわばreflamingすることによって、社会的な問題としてとらえるところに、真骨頂があるんですよね。だからこそ「 The Opposite Of Addiction Is Connection.」なんです。なので、そんなことをちょこっと話したうえで、「AIDS文化フォーラムin京都」のプレフォーラムの宣伝をしてみたり。

で、夜は久しぶりに家に帰って晩ごはん。なんか、残り物チックなわりに種類がたくさんあっておいしい。そして「少ないか?」と思ったら充分。やはりいいなぁ。
寝る前はいつものハーブティー。

ほっと一息つきながら報ステ。
と、「「老後資金2000万円不足」報告書は「受け取らない」麻生大臣」とのこと。アホかと。自分に都合の悪いことは認めないってことですね。政治家がやるのはそこじゃない。そういう現実と向きあい、その現実をなんとかするのが仕事やろ!
ほんまにアカンで、この内閣。

もぐら叩き→それでもここでは継承はなされてるよな

今日の授業の組み立てを考えて、さぁやろうと思ったら、ひとクラスは「府立高校模試」なるものでつぶれました。やれやれ。で、もうひとつのクラスがなかなかです。
今日は15分だけ授業をして、残りの時間はプリントなんですが、やらない。てか、できない。
もちろん黒板には解き方というか、公式の使い方を図式的に書いてあるんだけど、それを見てもわからないんでしょうね。もちろん、多数の子はやります。が、やらない子とできない子が目立ちます。やらない子は、まぁいいんです。でも、やらない子ができない子を引っ張ってやらさない。てことで、そこのつながりを切りながら、ひとりひとり教えていくんですけど、ほとんど5〜6人の子の家庭教師を同時にやってる感じです。これ、他のクラスなら「教えあい」に持ち込めるんだけど、教えられる子がいないから、それができない。なので、教えてる時はやるけど、他の子を教えに行ってる間はできない。もぐら叩きです。
こうなるのはわかってたんだけど、なぜそれがわからんかなぁ。まぁ、「日本の競技スポーツ」、特に「高校における競技スポーツ」はコーチの言うとおりにやって、自分たちで考えるってことを要求しないことが、まだまだ多数やからなぁ。でも、授業はクラブとは違うんですよね。モチベーションも強制力もまったく違う。
まぁでも、「落とさない」ためには年間トータルで点をとらせるしかないので、こんなことを続けて、少しずつ「やる子」を増やしていくしかないかな。

で、グッタリ疲れた次は府立高校模試の採点です。これがまためんどくさい。まぁ、採点が好きな教員なんていないと思いますけどね。これ、早めにやってさっさと終わってしまえばいいんだけど、あとの方になると自分のを終えて他の人のを助けたりするハメになったりするので、延々とやらなきゃならないです。
こんな採点、府教委が人を雇って処理すればいいはずなんだけど、教員にやらせるんですよね。まぁお金がないらしいけど、アカンやろと。「働き方改革」と反対の方向だし、人を雇えば雇用が増えて、もしかしたら収入や消費が増えると税収も増えるわけで、そうしたら府の予算がないのも好転するはずなんだけど、その前のところで財布の紐をしめるんだよな。

で、疲れきったところで定時で退勤。
京都駅で「阪急北千里線的な名前」のI田さんたちと合流。夏のお座敷の打ち合わせです。ちなみに、わたしとの打ち合わせの前は「堀家さん」としてたとか。他の講師を見たら「幸重さん」「李信恵さん」とあるので、ぎょえーな感じです。でも、I田さんはこういう人を知ってるわけですから、よほどあちこちで人とつながっておられるんだろな。それだけじゃなくて、男女共生部会のお三方も若いです。みなさんにわたしの問題意識を伝えると、「あぁ、それ!」と、打てば響くように返ってくる。
なんだかんだ言っても、大阪では京都よりは同和教育・人権教育の継承がなされてるよなぁと思いますね。もちろん、京都でもやってるのはやってるんだけど、打ち合わせを飲みながらやるという発想はたぶんないな。だって、わたしが飲んでる時間帯は、みなさんクラブで忙しいのが京都の現状です。それを変えないと、たぶん継承はムリやろな。もっとも「働き方改革」の真反対ですけどね(笑)。
そんな感じで、疲れた日の最後は「希望」で終わった気がしました。
で、お開きは9時。これはうれしい。二次会もなく、帰りましょう。家に帰ったら、ハーブティー飲んで寝ようかな。

足りないもの

今日は午後から京都府中部に出張です。ここが遠いんだ。京都府中部そのものが遠いんですけど、それはしかたないです。京都は南北に長いんです。問題は駅からが遠い。駅からいきなり峠道を歩き、その先は畑の中を突っ切って行かなきゃなりません。でもま、子どもたちはここを毎朝歩いてるんだろうからしかたないか。

で、夜はまたまたNH○の人と話です。前に会った時はイノダコーヒーでした。
「今回はどうしますか?」
とたずねると
「芸がないけどイノダコーヒーで」
と返ってきたので
「はじめから呑み屋でってのはいかが?」
と返すと
「望むところです」
とのお答え。ひでぇo(^^)o
てことで、安定のニューエビスノにしました。
お店に到着すると
バズフィード、読みました。「あ!ここだ!」って思いました」
とのこと。そのとおりです。
てことで、話。
その後、ふたりほど話を聞かれたとのこと。そんな中で、今の報道に足りないことを感じはじめておられるとのこと。
今までの報道は「辛かった過去」についての話に焦点があてられてたけど、実際に話を聞いてみると、過去の話はどんどん薄れていってると。それよりも切実なのは、「今」と「これから」なんだと。なるほどね。そりゃそうです。わたしもとある映画(笑)で「夢が現実になると辛くなる。なまじ夢を見てしまうから」って言いました。まぁそういうことです。
で、わたしに「足りないものは?」って聞かれたので
「歴史ですね」
って返事しました。
もちろんここで言う「歴史」は、いわゆる「性同一性障害の治療が公的に行われるようになった歴史」なんかじゃないです。性を変えて生きようとしたさまざまな人たち、それもスポットがあたらないところで行ってきた営みです。そのあたりは、やはり三橋さんですね。もうひとつの「歴史」は脱病理へ向けた世界的な流れです。ここはやはり、とまとさんか。
もうひとつ足りないのは、日常を生きている人々の姿かな。
「わたしカミングアウトしました!今日から女として生きます!」
みたいな話が、今でもニュースでとりあげられるけど、「女として生きるってどういうことですか?」なわけです。カミングアウトなんてしなくても、自認する性で生きる人はいるわけです。そういう人にスポットをあてるわけにはいかないんだけど、でも、そういう人の話を聞くことはとても大切だと思うのです。
そしてもうひとつ足りないのが、都市部以外で生きる人です。
これ、端的に言うと、今までの報道は、都市部でカミングアウトしてる人の話を聞いてきたわけですから、すんごくお手軽なところでやってきたってことですね。まぁ、しかたないっちゃしかたないんですけどね。
そんな話から、いつの間にやら話は放送部の話へと。気がつくと合宿に誘ってました(笑)。
ほんとに来てくれるかな。
てことで、3杯目の日本酒と、〆のチキンラーデンと、さらに〆のレモンチューハイを飲んで、おひらきです。
やれやれ。