再び『分解者たち』

朝、職場に着くと、こないだの部落問題学習の感想が返ってきてました。その中に「あぁいうシーンは不愉快だから流さないでほしい」という感想がありました。
そこで思い出したのが『分解者たち』です。

かつては「人→糞尿→肥料→作物→人→」という円環が成立してた。でも、「糞尿→肥料」のところが途切れた。「糞尿」は、わたしたちの知らないところで処理されるようになった。「肥料」は化学肥料になった。ボットン便所の頃は「糞尿」はわたしたちの下にリアルにあった。でも今は水を流したらどこかへと消えていく。でも、その行き先を知らない。その「行き先」に押しつけてる。そこは都市の外部にある辺境か、あるいは都市内部の辺境。
同様のことが、屠場にも言える。どこかで処理をされた牛を食べている。その「どこか」は誰も知らない。誰かがその処理をしてるけど、その「誰か」は誰も知らない。辺境で処理をされている。その辺境が顕在化した瞬間、「不愉快」という感情が沸き起こる。「隠蔽せよ」という言葉が発せられる。
マグロの解体ショーは成立するけど、牛の解体ショーは成立しない。いや、マグロもショーとしての解体しか成立せず、日常生活での解体は存在しない。魚を三枚におろす必要もなくなってる。今はまだ「魚屋さん」というリアルなところにあるけど、コンビニで魚が売られる時代になったら、もしかしたらそのリアルさがなくなるかもしれない。魚の頭を落とし、内蔵を掻き出し、皮をひくという屠場と同じ作業が、もしかしたら隠蔽される時代が来るかもしれない。
皮を剥がれた頭の中にタンがある。それを取り出し、皮を剥いで薄くスライスしたものを「タン塩おいしい」って食べてる。でも、そのもとには、あの皮を剥がれた頭がある。
革だってそうです。
みんな革製品を買う。でも、その革製品をつくるためには、誰かが「皮をはぐ」という作業をしている。そして、その皮を誰かが鞣してる。あのすごい臭いの中で作業をしている。でも、そんなことを知らずに、それは隠蔽されたままで、わたしたちは革製品をほしがる。
そんなことを思いました。だからこそ、わたしはあえて顕在化させようと思ったし、顕在化させたし、これからも流し続けます。

てことで、わたしの話を聞いてくれた子らの「6人講座」でそんな話をしました。
みんな真剣に聞き、反応してくれました。ええ子らです。
ついでに「おべんきょ成果」の話もしたりして。
なんでも、この間の「関西インクルーシブ教育研究会」の帰りに「社会学で博士をとるか、『Sゃ会学Hょう論』に「おべんきょ成果」が載ったら「社会学者として認められる」って言われる」って言っておられる方がおられました。てことは、あそこに載ったらこんなことになるんですね。
「へー、社会学ですか。どんなことをやってるんですか?ジェンダー。へー、どこの大学にお勤めですか?え、高校。何を教えておられるんですか?数学?」
みたいな。「数学を教えられる社会学者(笑)」です。
その延長で、バトラーの話やセジウィックの話をしたら「こっちのほうがおもしろい!」って言われた「数学B」の時間でした。

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