目的と手段

方向が一緒の同僚*1と帰りながら、いろいろ話をしました。
同僚は、大学新卒のあと、基本的には半年の契約だったんですけど、その後諸事情で3ヶ月延長のあと、さらに3ヶ月延長ということで、結局1年間働いておられます。で、来年の保障はないけど、もしかしたら仕事があるかもしれないという、極めて不安定な状況です。これがわかるのは、3月の終わりだとか。んな無茶なと思いますけどねぇ。こんなことでは「人材」は集まりませんね。てか、「人材」は他のところに行ってしまいます。まぁ、それでもいいと「えらい人」は思っているんでしょうけどね。
というのはおいといて…。
で、同僚が「はぁ、就職活動しようかなぁ」とつぶやきながら、「う〜んとしんどい仕事を経験することも大切かもしれない」さらに、「でもね、「純粋なところを忘れないでほしい」って、先輩に言われたんですよね」と続けました。
そのあたりから、「仕事」ってなんだろうという話になったんですよね。
まぁ、いろいろな話をしていたのですが、そんななかでふと気がついたこと。それは、わたしにとって教員という仕事は、自分がやりたいという目的と一致をしているということだったんです。
たいていの場合、仕事って「◯◯を実現するために、××な仕事をする」というもんじゃないかと思うのです。例えば「飯を食うために、しんどい仕事をする」とか、「野望を実現するために、法律すれすれの仕事をする(笑)」とか…。つまり、◯◯は目的で、××は手段なわけです。で、この◯◯と××がすごくかけ離れている人って、たくさんいるんだろうと思うのです。
わたしの場合、◯◯と××があまり離れていないんだと思うのです。てか、「◯◯と××がかけ離れてもかまわない」という「割り切り方」が、わたしにはできないんだろうと思うのです。だから、教員という仕事を選んだ。幸いにして、時代がよかったおかげ*2でまんまと教育委員会にもぐり込むことができました。おかげさまで、世間一般の「出世」なんかとは無縁で、バブルの時期にもテレビの中でドンペリのふたをポンと開けている人を横目に見ながら、ささやかなぜいたくとしてエビスのふたをシュポッとあけるという生活を続けてきました(笑)。
実は、「金はいらないけど、時間がほしい」というところからスタートした教員生活でした*3。でも、やっているうちに、だんだんとわたしにとっては「◯◯と××が近い」仕事でるということがわかってきました。そんななかで、「楽しいことが1あるかわりにしんどいことが10あるというのと、しんどいことは0だけど楽しいことも0というのと、どっちをとるか?」みたいな時に、「前者をとる」と迷わず言えるようになったんだろうなぁと思います。

まぁ、そんなことを考え、話しながら、帰る1時間でした。

*1:「白い人」です

*2:バブル直前の時期に理系の人間で教員なんて誰もやらなかった

*3:教科会議の第1声は「あの〜、休みにハスキーに行けますか?」でしたから(笑)。まわりの人たちは「なんちゅーやつが来たんや」と、あきれていました。でも、なんだか最近「金もないけど、時間もない」に変わってきています。それでも、ましかな…

起床

毎日の朝の行事は、次みたいな感じです。
とにかく、6時になったら枕的においた腕時計のアラームが「ピピピ」と鳴ります。それだけ。なのに、目が覚めます。で、しばし葛藤(笑)。でも、起きなきゃしかたがないので起きます。
バイクの事故のあと、いまだに右膝が痛くて、朝は曲がらないのですが、それでもハイベッドのはしごを下りて1階へ。あとは朝ご飯とお弁当づくりです。
まずはやかんに2杯お湯を沸かします。ひとつはお茶用、もう一つはコーヒー用です。豆をひいて、お茶っ葉の準備をして、お弁当の揚げ物を選んで、必要なときはもう一つ鍋にお湯を沸かします。で、ラジオのスイッチを入れます。朝は、NHK-FMです。
そんなこんなをやっていると、パートナーが降りてきます*1。パートナーは「起こしてね」と言うのですが、気持ちよさそうに寝ているというか、前の日の疲れのせいで爆睡しているというか、そういうのを起こすのは、やっぱりねぇ…。てか、体の疲れをとってほしいし。
で、一通りつくってしまったら、あとはパートナーにお弁当つめをまかせて、朝ご飯。と言っても、6枚切りのパンをオーブントースターで焼いて、それを半分にスライスして(つまり12枚切りね)野菜とソーセージかなにかを載せるだけです。あとは、コーヒー。そんなことをしていたら、ちょうど朝のクラシックの時間が終わって、天気予想。このあたりから、トイレ・着替え・歯磨き・コンタクト・薬(笑)あたりがはじまって、7時過ぎには出発。

で、3学期になってから、まだ致命的な寝坊はしていません。なぜかなぁ。
やっぱり、「起きなきゃしかたがない」ということなんでしょうねぇ。休むわけにはいかんもんなぁ…。でも、それって「外的要因」なんでしょうね。かなり強制力が働いています。そうじゃない状況で、はたして同じように起きられるかどうか…。ふぅむ…。

*1:降りてこないこともあります・笑

教員の仕事・まだまだ続く(笑)

ともくりさん、ども。mixiの方に「こっちでいろいろ書いています」と書くべきだと思ったまま、家に帰ると爆睡する毎日が続いているので、書けていません。すみません。あと、mixiは限定された人しか読めないので、こちらのほうで紹介するのは適していないと判断したので、こちらのほうでは出典をはっきりさせませんでした。

で、本来はコメントで書いていく必要があるかと思うのですが、まぁ、日記の主の特権*1で、本文にします。てか、ネタがないので助かっていたりして(笑)。

ともくりさんの書かれた文章の中には「すべての教員は〜」という書き方はありませんでした。ただ、その後のコメントの中で、教員ではないのですが、「すべての〜」に近いニュアンス(あくまでも「近い」です)がありました。そのあたりが直接の引き金になったかと思います。
あと、前にも書いたように、「自嘲」によって批判をかわす手法もあるのですが、それは少なくともともくりさんの場所やこの場ではやめようと思ったのです。

わたしがなぜあのような文章を書き、その後これほどしつこく書き続けているか、自分でも不思議なのですが(笑)、書きながら整理をしていきますね。

現在、システムをいじることによって教育の内容を「充実」させようという動きがあるように、わたしは思います。その動きの原動力になっているもののひとつは、巷で言うところの「教員の指導力不足」というものかと思います。そのあたりから、巷での教員への批判がどんどん正当化されていったような気がします。
一方、教員からの他の教員への批判も多々あります。曰く「◯◯をやらない教員がたくさんいて…」。「どうも◯◯な教員が多くて…」。たしかにそれに同意するところもたくさんあるのですが、なんとなく自分の中ですっきりと落ちきらないところがあるんです。

教員に限らずですが、だれしも、たくさんの切り口を持っていると思うのです。ある人は、そのなかのある特定の切り口では批判されるべき内容を持っているかもしれないけど、他の切り口ではとてもすぐれている、そんな方も、たくさんおられます。にもかかわらず、巷の教員への批判も教員からの教員への批判も、ある特定の切り口からなされることが多く、その言及が「教員の資質全体」あるいは「教員の資格」にまで発展することが多いように思うのです。もちろん、「決定的な切り口」はあるのでしょうけど、それもまたひとつではないように思います。「決定的と思っている切り口」同志が、時として正面から対決してしまうことすらあるかと思います。
なので、「特定の切り口からの批判」を聞くにつけ、なんとも言えない居心地の悪い違和感を、いつも感じてしまいます。

ところで、先に書いた「システムをいじること」によって、学校教育の方向がはたしてどっちの方に行くのかということについて、わたしは漠然として危機感を持っています。というか、すでに変更ははじまっていて、そのことによって、教員の雑務の増加や学校と社会の関係の変化、子どもをとりまく社会のありようの変化など、さまざまな弊害が出はじめているように思えてなりません。
こうした状況を前にしたとき、「従来の批判のありよう(これをわたしはステレオタイプな批判と考えています)」ではないやり方から立て直していかないと、やばいんじゃないかというふうにいま感じています。

あと、「すべての大人がかつて〜」というところですが、わたしも同意できるところはあります。ただ、それが「感情的な批判が巻き起こる」につながっていくところに大きな問題があるように思います。
わたしはかつて小学校の頃教員からひどい仕打ちにあったこともまた、わたしにとっての「経験」であり「財産」であると最近思います。その経験があったからこそ、わたしは違う大人でありたいし、違う教員でありたいと思っています。ただ、それがはたして「いい方向」に向かっているかどうかは、やっぱりわかりません。
ちなみに、団塊の世代が、自分たちの子ども時代への反発からつくってきた社会のありよう、あるいは子育ての方法があるみたいですね。でも、「結局それは失敗したんじゃないか」みたいな話もあります。ひとつの時代から、次の時代へのバトンタッチって簡単には評価できないし、時間がかかることだなぁと思います。

おそらく、根本的にわたしは「楽観主義者」であり「性善説」なんだろうなぁと思います。前にも書いたかもしれませんが、「人はいつでも学びうる」「人はいつでも変わりうる」と思っているのです。「レッテル貼り」はそうしたわたしの価値観とはまったく逆行するものと思います。だからこそ、わたしもしたくはないし、わたしへのレッテル貼りも拒否をしたい。
このあたりの問題意識が根底にあって、ともくりさんのところの日記とコメントが引き金になって、いつのまにか、このあたりの話にしてしまいました。まぁ、冷静になると、日記とかコメントって「愚痴」の部分があるので、「ネタにマジレス」な気もしますので、迷惑かけたなぁとは思うのですが…。

あと、研修のことを樹村さんが書いておられますね。
現在、新規採用の人については、1年間指導教員がつきます。ただ、これ、双方にとってかなり過重なんですよね。研修ノートという交換日記をされるみたいですが、それを書くために、新採の人も指導教員も、たとえば教材研究をする時間がなくなったり、生徒と話をする時間がなくなったり。あと、その指導教員の教育観(笑)に指導内容が多分に左右されてしまうので、はたして現在のあり方がいいかどうかについては、評価がわかれるかなぁと思います。
教育委員会も、別に管理することだけを目的としているわけじゃなくて、それなりに研究はしているんですよね*2。でも、おそらく、「これ」という絶対的にいい方法が見つかっていないんじゃないかと思うんですよね。

*1:m(__)m

*2:このあたりが、15年くらい前のわたしとの最大の違いだったりします(笑)

教員の仕事・補足

この間「教員の仕事」というのを書きましたけど、その後のコメントに触発されたので、補足をば…。
わたしがなぜあんな文章を書いたかというと、「辞めたい」という教員とちょこちょこ会うからです。「なぜ?」と聞き返すと「しんどい」とか「やってられない」とかいう答えが返ってきます。それも、「いい人やなぁ」「力があるなぁ」と思う人に限って、そういう答えを返してこられます。一方、新規採用の方々を見ていたら「体が持たんぜ」というくらいの研修漬け。まじめにやればやるほどその重圧は重くなってきます。
なのに、巷では「教員なんて」という批判がまかり通ります。
このギャップってどうしたらいいんだろうということなんです。
そこへのひとつの切り口が「教員をステレオタイプで見ない」ということかなぁと思ったわけです。「教員なんてみんなこれこれだ」「こんな教員しか見たことない」という言葉がよく出てきます。でも、違う教員もいます。大切なのは、「ほとんどの教員はこれこれだ」「わたしはこんな教員しか見たことがない」というふうに、断定をするときに「それ以外」の余地をどれだけ残しておくかということだと思います。
この間の文章の発端になった友だちの日記は、とても大切なことを示唆していました。それは、さまざまな子どもたちの姿や言葉に触れたとき、単に「子どもの感受性は豊か」という一言で終わらせてしまう教員がいるのではないかという指摘でした。たとえば、引っ込み思案な子どもがいるとき、「引っ込み思案だから」というレッテル貼りをするのではなく、「自分がその子どもに引っ込み思案にならざるを得ない場所しかつくれていないのではないか」ということを振り返らなくちゃならないという指摘でした。
ただ、そこからやりとりがエスカレートしていきます。そして、先にも書いた「教員批判」「指導者批判」へとつながっていきます。そこで書かれている内容を見たら、「レッテル貼りを否定しながら、でも、教員に対してレッテル貼りをしているんじゃない?」と感じたのです。
「教員」への世間の山のようなレッテル貼りの中、教員は心を閉ざしてしまうか、あるいは疲れを感じるか、あるいは「自分は違う」と心の中で叫ぶか。そして、「辞めたい」と言い、実際に辞めていく教員がいるわけです。
Oさんのコメントがありました。あのようなステレオタイプな返しは、実は、わたしはあまり好きではありません*1。でも、わたしも使うことがあります。どういうときか。それは「語りたくない相手」に対して、あるいは「いってもわからないであろう相手」に対して返すときです。ステレオタイプなもの言いや、ステレオタイプな返しは対話を切ってしまうんじゃないかと思います。そうではない対話をどう紡いでいくかということが、大切なんじゃないかと言うことを思うわけです。

*1:Oさん、ごめんね

やっぱりここからかな

たぶん、今日はいろんな新聞もあちこちのblogも「震災」の話で持ちきりなんだろうなぁ。なので、わたしも(笑)。
今日は1時間目、1年生の授業。「語ろう」と決めたわたしとしては、今日も語ります。

今日から11年前、君たちはたぶん5才?6才?あの日のことをあまり覚えていないと思うけど…*1
あのときわたしが住んでいた家は、すごく古い家で土間があったんやわ。で、明け方にパートナーが土間を誰かが飛び跳ねる音を聞いたそうな。で、「だれか来たのかな」と思った次の瞬間、ドドーンというものすごい縦揺れと、その次にものすごい横揺れが来た。当時私たちは本箱のある部屋で、上の子ども*2と3人で川の字で寝ていました。パートナーはとっさに子どもに覆い被さった。わたしはとっさにストーブがつきっぱなしだったのを見て、すぐに消しました。なにせ、上に洗濯物が干してあったからね。
すごく長い揺れのあと、だんだんと揺れが収まっていった。でも、とてもじゃないけど寝る気が起こらないので、テレビで地震情報を見ることにしました。アナウンサーは「街は平穏です」と言っていました。やがて、一度余震が来ました。かなりびびったけど、すぐに収まりました。やがてアナウンサーは「街に一筋の煙が見えます」と言いました。まぁ、地震には火事がつきものなので、「ふぅん」くらいにしか思っていませんでした。まさかその一筋の煙があの大惨事のはじまりだとは、その時は思いませんでした。
やがて出勤。行く道すがらのラジオで、だんだんと被害が広がり始めていることが伝えられました。そして、授業から職員室に帰ってくるたびに、死者の数がどんどん増えていきました。
17日の次の日曜日、わたしは某青少年育成団体*3からの誘いで西宮にボランティアに行くことにしました。西宮の街を歩くと、あちこちに電柱や隣の家にもたれかかった家がありました。中には、逆さまになっている家もあったし、火事の跡もありました。そんな中、平然と立っている高層マンションの姿は、なんとも言えない風景でした。わたしはその日、赤十字の毛布をかついであちこちの避難所に持っていきました。その団体では、三宮でもボランティアをしている人がいました。なんでも、京都に「線香を差し入れてほしい」という要請があったそうです。死者を弔うためだと思っていたのですが、違いました。遺体安置所にどんどん運ばれてくる遺体が火葬場に持って行ききれず腐敗をしはじめたので、その臭い消しだということでした。
西宮の町中を黒塗りで赤色回転灯をつけた車列がしずしずと動いています。頭上にはヘリコプターがひっきりなしに飛んでいます。ヘリコプターは、震災のあった場所に行くときは救援物資を罪、帰りには近隣の街に遺体を運んでいるとのことでした。それほどまでに、被害は大きかった。
やがて、震災の被害が特定の場所に固まっていることが明らかになりました。消防車が現場に着いたけど、消火栓までホースが届かず、目の前で燃えさかる炎をどうすることもできなかった話。近くまでいったけど、消防車が入れなかった話。その場所は、部落であり、在日朝鮮人の集住地域であり、在日外国人の集住地域であったことがわかりました。また、断層の上に立っていた家も、「しんどい人たち」のものであったことも伝えられてきました。
たしかに、天災は平等にやってきた。でも、災害は差別的だったということがわかりました。

もしかしたら、君たちはこれからも1月17日についてあちこちで話を聞くかもしれない。でも、災害は差別的だったということまで聞くかどうか…。でも、そのことをどうか覚えておいてほしいと思います。

じゃぁ、確認テストね。5分後に開始します。

*1:「オレ寝ててぜんぜん覚えてへんかったんや」という私語あり(笑)

*2:下の子どもは産まれていない

*3:キリスト教系ね(笑)

やれやれ…

「文句言い」と話したけど、完全にすれ違いです。ていうか、なぜ「正しいこと」を決めうちで話ができるんだろう。なぜ「自分の頭」で考えないんだろう。なぜ「自分の言葉」で話せないんだろう。
借りてきた言葉、借りてきた理論で話する人と話すと、ものすごく疲れます。てか、時間の無駄。
それに比べたら、「弱音をはく」人の方が、以下に話をして有意義なことか。そこから次に何をするかを考えておられるもんね。

子どもの質問

下の子どもは、熱がある時は「しんどい〜、う〜ん」とうなりっぱなしで、実にうるさいです(笑)。で、熱が下がるとそれはそれでうるさいです。とにかくテレビを見ていてもひっきりなしにしゃべり続けています。さらに、漫画を読んでいても、わからない言葉が出てきたら、すぐに質問をしてきます。そんななかで、今日、質問を受けてしまいました。
おとうさん、「権利」ってなに?*1
この質問、ドキッとしました。ふだんから「権利」については考えているはずなんですけど、小学校2年生の子どもに伝えられる言葉が、とっさに出てきませんでした。ついでに言うと、たぶん高校生に伝えられる言葉も出てこなかったような気がしますけど。で、しばし考えたあとでこんな話をしました。

君がね、「やりたいな〜」とか「やりたくないな〜」と思うことがある。そんなとき、君は「これは自分の権利なんだ」と言ってみる。でもね、「やっちゃいけないよ」とか「やらなくちゃならないよ」とか言う人がいることもある。そこでいろいろやりとりがでてくる。そんなところから、「権利」っていうのがでてくるんだ。

たぶん答になっていないですね。でも、権利っていうのは、天から与えられるものではなくて、人と人とのやりとりの中から*2つくりだしていくものなんだということを、伝えたいなぁと思ったんです。
まぁ、たぶん子どもとは長いつきあいがこれからもあるから、ゆっくりとふたりで言葉を練っていこうかな。

*1:え〜、え〜、わたしは家ではお父さんです(笑)。もっとも、下の子どもは「お父さんは中身は女で外は男」って言っています。気をつかってくれているんだろうなぁ。

*2:もちろん、時としてというか、そのやりとりの多くは「闘い」だったりします

教員の仕事

友だちのブログを見ていて、ふと思ったことがありました。
その友だちは、NHKの「課外授業 ようこそ先輩」を見ていていろいろと考えたそうです。いや、あれ、たまに見た時釘付けになります。てか、「ようこそ先輩」じゃないけど、インゲマル・ステンマルクが「スウェーデン版ようこそ先輩」をやった時も、「すんげぇ〜」と、ただただ感動するだけでした。
友だちが見たのは、劇団四季の矢崎滋の回のようです。テーマは「自己紹介」。どうやら、長所・短所を書き並べるところからスタートするみたいなんですけど、みんな短所しか思いつかないみたいなんですね。これはよくわかります。で、宿題は、「自分を見つめて前向きに苦しむ」。 そして、作文に書いてみる。ということらしいです。
まぁそこから、すごく触発されることがあったらしいんです。それはそうだろうと思うわけです。で、ブログですから、いろいろコメントが入ると。で、それらを読んでいて、だんだん「う〜ん」となってきたんです。というのは、だんだんと「教員批判」「指導者批判」になってきたからなんです。で、思わずコメントを書いてしまった。

ごめんやけど…。

「ようこそ先輩」にしろ朝日新聞の「プロ」が行く授業にしろ、そりゃ感動的です。それなりの「もの」を持っている人が教えるわけですから。
でもね、全国すべての教員がそれだけのものを持っていたら、誰も教員をやっていないと思う。つまり、教員はそういう「プロ」じゃないんです。
いや、わたしのようなものですら、日常の学校ではない場所では「ようこそ先輩」のまねごと程度だったらやるけど、自分の学校ではとてもじゃないけどできないです。つまり、一発芸でしかないということです。
で、巷の人々は教員に対してあまりにもたくさんのものを求めすぎだと思います。進路指導も出来て、生徒指導も出来て、人権教育も出来て、もちろん教科指導も出来て、クラブ指導も出来て、生徒の心の襞も理解して…。そして、地域に帰ると「先生だから」と子ども会をやり、子どもの学校に行くと「先生だから」とPTAもやる。あえて、家庭については言いませんけどね。「家族を顧みない」というのが時として美談になったりしますから。
そんな教員はどこにもいないし、そんな人ならば教員はしないと思います。つまり、あたりまえのことだけど、教員は万能な人間がやっているのではないということ。
でも、世の中の人々は、教員の至らない部分を指摘して「だから」と教員全体を非難する。これはしんどいっす。
「できたことをほめる」というのは、なにも子どもに対してばかりじゃなくて、大人に対しても必要だと思います。そういう社会に育てられた大人が、子どもに対して「できたことをほめる」ことをできるようになるんじゃないかと思うのです。
子どもたちへの安易なレッテル貼りを生み出す要因のひとつに、教員への安易なレッテル貼りもあるんじゃないかと思うのです。そこをどう変えていくかということが、子どもたちへの安易なレッテル貼りからの解放のひとつの方策ではないかと思うのですが…。

でも、教員に一番欠けているのは、こういう開き直りと、それ以前に「自分は至らない人間である」という自覚を持つことかなぁとは思います(笑)。

う〜ん、長々と書いてごめんなさい。でもこれ、今日のブログに書いておこう…。

まぁ、それだけのことなんですけどね…。

パートナーの転機

テレビを見ながらパートナーと話をしているうちに、なんとなく何が転機になったのかという話になりました。
パートナーが言うには、結局「頼っていたのがそうじゃなくなった」というのが転機だったようです。「わたしにはわたしがやらんとあかんことがある」ということを自覚した。それが子ども会だったようで、でも、そこに関してはさんざんわたしとの間でケンカをしてはいたけど共通の「部落解放」という明確な課題があって、そういうのが大切だったようです。いろいろとパートナーの元に相談事が来たりするようですが、答えるのはとてもしんどいようです。だって、あまりにも個々バラバラな状況の中で、うちの場合はたまたま「みんなが変わりえた」から、まだ共同体が続いているというわけで…。でも、「変わりうる可能性を自分が信じられる」ということって、大切だと思うなぁ。
いつの間にか、パートナーとはこれからの「子ども会」の話に夢がふくらみはじめたところで、そろそろ寝る時間。寝なくちゃ、明日がもたんぜ…。

つーか、単なるコピペかな

今日の日付の朝日新聞天声人語。なんとなくよかったので、コピペ。ごめんなさいm(_ _)m
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トリを焼く煙がもうもうとあがり、勢いよく通りに出てゆく。東京・吉祥寺の駅前で、井の頭公園に近い場所だ。この春に逝った歌手、高田渡さんの行きつけだった店の止まり木で、しばししのんだ。
「鉄砲や戦車や飛行機に/興味をもっている方は/いつでも自衛隊におこし下さい/手とり足とり教えます」。「自衛隊に入ろう」は1967年、高田さんが都立高の定時制に通う頃に作られた。このデビュー曲が放送禁止になった。
主義主張を正面からぶつける作風ではない。「あたりさわりのないことを歌いながら、皮肉や批判や揶揄(やゆ)などの香辛料をパラパラとふりかけるやり方が好きだった」と自著『バーボン・ストリート・ブルース』(山と渓谷社)に書いている。
何度聴いてもしんみりするのが「すかんぽ」だ。「土堤の上で すかんぽは/レールの間に 生きていた/急行ごとに気を付けをし/人の旅するのを眺めていた」。酒場や小劇場で自作詩の朗読を続けたドイツの詩人、ヨアヒム・リンゲルナッツの「哀れな草」に緩やかな曲を付けた。弱い草だが「目もあり 心もあり 耳もある」と、語るように歌う。
高田さんがドイツを訪ねるNHKのテレビ番組で、原詩に軽快な曲を付けて歌う現地の青年たちが出てきた。気を付けする草にはこっけい味があるから、明るく歌うのも分かるが、高田さんはその姿に、生きるものの愁いと根強さも見ていたのではないか。
1月1日生まれで、存命なら明日が57歳の誕生日だった。その歌は、人々の心の中に流れ続けてゆくだろう。
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金敬得さんが亡くなられたのかぁ。まだ若いのになぁ…。