うちの車、そろそろ車検です。なので、今日、行きつけの板金屋さんに持っていきました。ここ、卒業生のところなんで、いろいろ面倒を見てくれています。今日だって、「いきなりやけど、今日持っていってもいい?」と電話したら「代車いるの?」「うん」「ちょっと待って、あ、あるわ。いいよ」でOKでした。
で、夕方仕事が終わってから持っていきました。
すでに17万キロ走っているので、さすがにあちこちガタが来はじめています。「そろそろ新しいの買いぃな」と言われますが「まだまだ(笑)」です。
で、代車ですが、ライトバンでした。ま、別になんでもいいんです。動きさえすれば。というか、最近の通勤はバイクやし。
で、走りはじめたのですが、どうも調子が悪い。いや、車じゃないです。身体です。目がちかちかします。やたらくしゃみがでてきます。そういえば、大嫌いな臭いが…。そうか、タバコか…。
なんとか臭いを押さえ込もうとした努力のあとはあるのですが、あかんもんはあきません。「これから1時間以上この車か」と思うと、かなりきついものがあります。それでもしかたがないです。結局帰った頃には、体中から変な臭いがしていました。
まぁいいか。もう一回乗るだけやし。
それにしても、喫煙車両の偉力は強烈だわ。
カテゴリー: 考え
京都の作風
夕方から、在日外国人の生徒関係のミーティング。ちょっと連絡がうまくつかなかったこともあって、合流に時間がかかったけど、とても有意義な話でした。
京都って、それぞれの場所でそれぞれが一生懸命活動をしているんです。ところが、それが有機的につながらない。
これ、京都のいいところなんでもあるんです。というのは、京都には全体を束ねる「組織」がないんです。ですから、「トップダン」という感覚がゼロなんです。でも、それが逆に作用すると、すべての活動が「点」で終わってしまう。
じゃぁ、どうすればいいかというと、おそらく誰かが「汗をかく」必要があるんです。で、「誰がすんねん…」となるとorz。
ま、いいか(笑)。
それが原因だったのか
今日は、授業がとても少ない日。なので、いろいろとある仕事の合間に、ぜったいに原稿を仕上げようと心に決めています。
実は、かなり前からプランはできてはいるのです。まぁこれはいつものことですけどね(笑)。で、そのラインに沿って書きはじめたわけですが、そこで続かなくなったというか、頓挫したというか、デッドロックに乗りあげてしまったわけです。
では、そのプランとはなんだったか。
最近すごく気になることが「本当のわたし」とか「ありのままのわたし」とかいうフレーズの氾濫なんです。いや、もちろんわたしも人前で話をする時は「ありのままのわたしを生きる」なんていう臭いタイトルをつけるわけです。なんでかというと、まぁブッチャケていうならば「ウケやすい」ということなんですけどね。
でも、なんとなく「本当のわたし」なんていう裏側には「みんなの前にいるわたしは実は見せかけで、本当はこんな人なのよぉぉぉ!」みたいな思いがありそうじゃないですか。というか、もっというならば「いまあるわたし」を否定して「ありたいわたし」を追い求めているような…。
あと、「ありのまま」っていう言葉もうさんくさいです。そもそも、そんな生き方をするのはかなり無理があります。それと、最近はやりのの「カムアウトしたい症候群(笑)」とか「打ち明け話聞いて君」みたいな感じがします。
さらに、「自分を好きになる」という言葉。巷では、ノウハウ本とかセミナーとかもあるそうな。なんかちゃうやろ…。
まぁ、こんなあたりについて書きたかったんですが…。自分の能力を越えていました(爆)。
だって、このあたりを一般化して書こうと思うと、もうちょっと厳密に考えていく必要があるだろうし、「自分を好きになる」あたりになると「セルフエスティーム」とのかかわりも書かなくちゃなりません。となると、圧倒的に字数と時間が足りないです。
てことで、一般化するのはやめました。すると、書けました。ほんとうに、あっというまにほぼ7900字になりました。
結局、わたしができるのは「わたしのことを書く」ということにとどまるようです。一般的に「論」を展開するのはダメみたいです。そういえば、大学時代からそうでした。あの頃から今に至るまで、このあたりはどうも変わっていないみたいですね。
てことで、身の程を知って原稿を書くことが、成功の秘訣のようですわ。
そうそう、編集の方には「ごめんなさい」です。
躊躇すること
道をふさぐように車が信号待ちしている道に、バイクで右折しながら入っていきました。ミラーにぶつけないように、そろそろと入っていったのですが、車の中でなにやらどなっています。そこの道、たしかに一方通行なんです。わたしは逆走です。なので、「なんでおまえ入ってくるんや!ミラーぶつけたら、ただではおかんぞ!」とか言っているんでしょうね。でもね、一方通行の表示の下に「2輪を除く」って書いてあるんですよ。
通学途中の子どもたちがいる細い道を車でそろそろと進みながら、少し大きな道を横断しようと思いました。すると、大きな道の方から右折しようとした車が、わたしが出るのを待ってくれていることに気づきました。さらに後ろには車が続いています。左側の車もわたしを通そうと待ってくれています。じゃぁ、と思って、ゆるゆる横断しはじめたら、バイクに乗ったおじさんが信号を指さして、なにやらどなっています。「こらぁ!赤信号やないか!」とか言っているんでしょうね。でもね、その信号、歩行者用信号なんですよ。
皆さん、自分が正しいと信じ、間違ったわたしに対してどなっているんでしょうね。でも、自分に「間違いがあるかもしれない」と考えながら「躊躇すること」って、とっても大切なんだと思うのです。
そうそう、テレビの中にも自らの正しさを信じて怒鳴っているお猿さんがいたなぁ…。
9・11かぁ…
報道ってなんだろう…
よく考えてみると、どの局にあわせても同じニュースを流しているって、どういうことなんだろう…。いや、「生まれた」報道だけじゃなくてなんですけどね。
報道するっていうことは、「これをみんなに伝えたい」と思ってやるものなのか、「きっとこれをみんな知りたいだろう」と思って伝えるものなのか。あるいは「こういうふうに伝えたい」と思ってやるものなのか「こういうふうに伝えてほしいと思っているだろう」と思ってやるものなのか。
きっと、最前線の人たちは「これをみんなに伝えたい」「こういうふうに伝えたい」と思ってやっているんだと思います。それがなぜ受け手の側にはそうは伝わってこないのかなぁ。甘いと思われるかもしれないけど、すくなくとも、個人的には、「報道なんて」というバイアスでは報道を受けとめたくはありません。
きっとどこかでなにかがすり変わっているんだろうな…。
生まれたらしい
家族の決断
まぁ、そういうのが必要な時っていうのがあるわけで、そういうのをしたというだけのことです。そのことを、ここにメモっておこうかな、と。
忘れてた
Help!・その2
帰りの車の中のニュースで…。
安倍氏が総裁選出馬表明とか。「美しい国、日本」その内実として「自由と規律を知る凜とした国」「他国から尊敬される国」。なんかいろいろ言ったらしいです。
こわい…。
「美しい」の中身は誰が決めるの?「規律」の中身はだれが決めるの?「尊敬」って誰がするの?
あまりにも形容する言葉が多すぎます。形容詞の中身は、人さまざまだし、その自由度が認められるものだと思うのです。でも、それを一般化してしまう動き。こわすぎます。
「規律」ひとつとっても、先日の校内研修ですら論議がありました。わたしなんて、全員がきちんと前を向いて静かにしている教室*1よりも、みんなが数学について教えあいながらワヤワヤやっている教室*2の方が、はるかに規律があると思っている。でも、ウチの学校でも大半の教職員は前者が「規律」と思っている。たぶん、「規律を知る」となると、わたしなんてつぶされるんだろうなぁ。そういう教育改革を「上から」やるわけでしょ?しかもそこに「自由を知る」なんてある。完全な矛盾だと思いますけど…。
「尊敬」。誰かから尊敬されるのって、「尊敬されよう」と思ってできることじゃないと思うんですけど。自分がしなくちゃならないと思うことを淡々とやった結果として、もしかしたら尊敬されるかもしれないです。でも、そんなことは自分が望むこととは別に、副次的にくっついてくるかもしれない結果でしかありません。
再度掲載です。
庭上一寒梅 (テイジャウノイチカンバイ)
笑侵風雪開 (ワラフテフウセツヲオカシテヒラク)
不争又不力 (アラソハズマタツトメズ)
自占百花魁 (オノヅカラシムヒャッカノサキガケ)