あとひとつやらなきゃならないのは、人権学習の教材づくり。
前にも書きましたが、教材なんていうのは、基本的には「自分の伝えたい内容を、自分のやりたい手法で」やるための補助になるものだと思うんです。なので、他の人のつくった教材を使うことは至難の業だし、他の人が使いやすいようにつくるのもまた、至難の業です。
でも、やらなきゃならんので、しゃーないです。
で、どんな分野かというと、これが「結婚差別」なんですよね(笑)。
かつての自分だったら、「差別を乗り越えた結婚マンセー」みたいなテイストになっただろうと思うわけです。でも、今はぜんぜん違う切り口にしないといけないと思っています。やっぱり、まずは結婚制度そのものを問うことと、多様なパートナーシップのありようについて考えるところからスタートしなきゃならないと思っています。ましてや、導入で「あなたが結婚するとしたら〜」みたいな問いを発するなんていうのは、ぜったいやりたくありません。
ところが、ここで問題なのは、そういうわたし自身の考えとか思いを、担任さんと共有できるかどうかなんですよね。なによりも、ヘテロマッチョな考え方の人も担任さんの中にはいる可能性があるわけで、そういう人がわたしのつくった教材で「上辺だけ」なでてもあかんやろうと思うわけです。でも、そういう人にも使ってもらえる教材をつくらなくちゃならない。まぁジレンマですね。繰り返して言うけど、自分のためにつくるなら、なんぼでもできるんだけどなぁ…。
来週にはあげないといけないんだけど、どうしたもんかなぁ…。
カテゴリー: 考え
そんなことより…
大阪市が決めたそうな。
これ、人員削減のための体のいい理由づけのような気がします。てか、ずっと「切り捨てる」ための理由を待っていたというほうが正しいのかも。
前にも書いたけど、なんで「あの人達だけ手厚いのはおかしい。だからやめろ」になるのかわからない。逆に「あの人達だけ手厚いのはおかしい。だから、うちらにも同じような施策をしろ」にならないのかなぁ。その結果、たとえば、加配とかの人員がムラから減って、他の「しんどい」ところにまわっても、それはしかたがないと思います。逆に、ムラでやってきたさまざまなノウハウが、他の「しんどい」ところにフィードバックされるなら、それはそれでええことやと思います。
でも、人員をカットして、予算が助かってとなると、最終的に「しんどいところ」の教育の質が下がるというのは、もう、火を見るより明らか。
でも、まぁ、いいんだろうね。大阪市を切り盛りしている人達も、バッシングをしている人達も、さらには政府にいる人達も、確信犯はそんな話は自分の生活には関係ないものね。そんな人達は、「バウチャー制」が導入されたら、たぶん自分にとっては有利に働くんじゃないかな。
もっとも、踊らされている人達は、「最後には自分にツケがまわってくるかもしれない」っていうことに気がついているんだろうか…。
ちょっとイライラ
連休の中日だというのに、朝からなんとなくイライラしていました。
なんというか…。「頼む人」って「これやっておいて」の一言なんですよね。ところが、それをこなす人は、それを実行するためにそうとうな時間を費やしなくちゃならない。しかも、わたし一人ですまないので、わたしから他の人へと仕事を振る場合は、他の人への依頼の重荷を背負うのはわたしだったりします。で、他の人に何かを頼んだら、当然その人からものを頼まれた時にはそれにこたえなくちゃならない。
ところがですね、最初に「頼んだ人」はそんなことがおこっているかどうかは気がつかない人がほとんどなんですよね。で、結果だけをもらって「ありがとう」の一言でおしまい。
そんなことが、ずいぶん長い間につもり積もっていて、たまに「もう、ええかげんにして!」と爆発することがあります。
ところが、「頼んだ人」は「なんでこんなことぐらいで…」と思うらしい。仕事というのは、微分的(瞬間の増加量)・積分的(たまりたまった量)の両方なんですよ。特に後者については、「頼んだ人」にはわからない。でも、「頼まれた人」にはものすごい重荷だったりします。
はぁ…。
喫煙車両
うちの車、そろそろ車検です。なので、今日、行きつけの板金屋さんに持っていきました。ここ、卒業生のところなんで、いろいろ面倒を見てくれています。今日だって、「いきなりやけど、今日持っていってもいい?」と電話したら「代車いるの?」「うん」「ちょっと待って、あ、あるわ。いいよ」でOKでした。
で、夕方仕事が終わってから持っていきました。
すでに17万キロ走っているので、さすがにあちこちガタが来はじめています。「そろそろ新しいの買いぃな」と言われますが「まだまだ(笑)」です。
で、代車ですが、ライトバンでした。ま、別になんでもいいんです。動きさえすれば。というか、最近の通勤はバイクやし。
で、走りはじめたのですが、どうも調子が悪い。いや、車じゃないです。身体です。目がちかちかします。やたらくしゃみがでてきます。そういえば、大嫌いな臭いが…。そうか、タバコか…。
なんとか臭いを押さえ込もうとした努力のあとはあるのですが、あかんもんはあきません。「これから1時間以上この車か」と思うと、かなりきついものがあります。それでもしかたがないです。結局帰った頃には、体中から変な臭いがしていました。
まぁいいか。もう一回乗るだけやし。
それにしても、喫煙車両の偉力は強烈だわ。
京都の作風
夕方から、在日外国人の生徒関係のミーティング。ちょっと連絡がうまくつかなかったこともあって、合流に時間がかかったけど、とても有意義な話でした。
京都って、それぞれの場所でそれぞれが一生懸命活動をしているんです。ところが、それが有機的につながらない。
これ、京都のいいところなんでもあるんです。というのは、京都には全体を束ねる「組織」がないんです。ですから、「トップダン」という感覚がゼロなんです。でも、それが逆に作用すると、すべての活動が「点」で終わってしまう。
じゃぁ、どうすればいいかというと、おそらく誰かが「汗をかく」必要があるんです。で、「誰がすんねん…」となるとorz。
ま、いいか(笑)。
それが原因だったのか
今日は、授業がとても少ない日。なので、いろいろとある仕事の合間に、ぜったいに原稿を仕上げようと心に決めています。
実は、かなり前からプランはできてはいるのです。まぁこれはいつものことですけどね(笑)。で、そのラインに沿って書きはじめたわけですが、そこで続かなくなったというか、頓挫したというか、デッドロックに乗りあげてしまったわけです。
では、そのプランとはなんだったか。
最近すごく気になることが「本当のわたし」とか「ありのままのわたし」とかいうフレーズの氾濫なんです。いや、もちろんわたしも人前で話をする時は「ありのままのわたしを生きる」なんていう臭いタイトルをつけるわけです。なんでかというと、まぁブッチャケていうならば「ウケやすい」ということなんですけどね。
でも、なんとなく「本当のわたし」なんていう裏側には「みんなの前にいるわたしは実は見せかけで、本当はこんな人なのよぉぉぉ!」みたいな思いがありそうじゃないですか。というか、もっというならば「いまあるわたし」を否定して「ありたいわたし」を追い求めているような…。
あと、「ありのまま」っていう言葉もうさんくさいです。そもそも、そんな生き方をするのはかなり無理があります。それと、最近はやりのの「カムアウトしたい症候群(笑)」とか「打ち明け話聞いて君」みたいな感じがします。
さらに、「自分を好きになる」という言葉。巷では、ノウハウ本とかセミナーとかもあるそうな。なんかちゃうやろ…。
まぁ、こんなあたりについて書きたかったんですが…。自分の能力を越えていました(爆)。
だって、このあたりを一般化して書こうと思うと、もうちょっと厳密に考えていく必要があるだろうし、「自分を好きになる」あたりになると「セルフエスティーム」とのかかわりも書かなくちゃなりません。となると、圧倒的に字数と時間が足りないです。
てことで、一般化するのはやめました。すると、書けました。ほんとうに、あっというまにほぼ7900字になりました。
結局、わたしができるのは「わたしのことを書く」ということにとどまるようです。一般的に「論」を展開するのはダメみたいです。そういえば、大学時代からそうでした。あの頃から今に至るまで、このあたりはどうも変わっていないみたいですね。
てことで、身の程を知って原稿を書くことが、成功の秘訣のようですわ。
そうそう、編集の方には「ごめんなさい」です。
躊躇すること
道をふさぐように車が信号待ちしている道に、バイクで右折しながら入っていきました。ミラーにぶつけないように、そろそろと入っていったのですが、車の中でなにやらどなっています。そこの道、たしかに一方通行なんです。わたしは逆走です。なので、「なんでおまえ入ってくるんや!ミラーぶつけたら、ただではおかんぞ!」とか言っているんでしょうね。でもね、一方通行の表示の下に「2輪を除く」って書いてあるんですよ。
通学途中の子どもたちがいる細い道を車でそろそろと進みながら、少し大きな道を横断しようと思いました。すると、大きな道の方から右折しようとした車が、わたしが出るのを待ってくれていることに気づきました。さらに後ろには車が続いています。左側の車もわたしを通そうと待ってくれています。じゃぁ、と思って、ゆるゆる横断しはじめたら、バイクに乗ったおじさんが信号を指さして、なにやらどなっています。「こらぁ!赤信号やないか!」とか言っているんでしょうね。でもね、その信号、歩行者用信号なんですよ。
皆さん、自分が正しいと信じ、間違ったわたしに対してどなっているんでしょうね。でも、自分に「間違いがあるかもしれない」と考えながら「躊躇すること」って、とっても大切なんだと思うのです。
そうそう、テレビの中にも自らの正しさを信じて怒鳴っているお猿さんがいたなぁ…。
9・11かぁ…
報道ってなんだろう…
よく考えてみると、どの局にあわせても同じニュースを流しているって、どういうことなんだろう…。いや、「生まれた」報道だけじゃなくてなんですけどね。
報道するっていうことは、「これをみんなに伝えたい」と思ってやるものなのか、「きっとこれをみんな知りたいだろう」と思って伝えるものなのか。あるいは「こういうふうに伝えたい」と思ってやるものなのか「こういうふうに伝えてほしいと思っているだろう」と思ってやるものなのか。
きっと、最前線の人たちは「これをみんなに伝えたい」「こういうふうに伝えたい」と思ってやっているんだと思います。それがなぜ受け手の側にはそうは伝わってこないのかなぁ。甘いと思われるかもしれないけど、すくなくとも、個人的には、「報道なんて」というバイアスでは報道を受けとめたくはありません。
きっとどこかでなにかがすり変わっているんだろうな…。