東九条マダンにかける思い

今日は、1時間目の授業が終わったら、府立高校の人権教育研究会の研修会です。
午前は東九条の朴実さんの案内によるフィールドワーク。午後は、朴実さんの講演です。
前にも思ったんですが、やはり、そこで生まれ育った人の案内ってすごいです。実はわたしもたまぁに散歩に同行させてもらったりすることがあるんですが、もう、ぜんぜん深さが違います。たぶん、あらかじめ「何をしゃべろうか」と考えなくても、その場所に行ったらそこにまつわるさまざまな話が、自分の内側からわき出してくるんでしょうね。こればかりは、勉強してどうなるものでもないなあと思います。とにかく、何回案内してもらっても、いつも新たな発見があるし、すごくおもしろいです。
で、午後の講演を聞いて、朴実さんの話は、「単なる経験」に裏づけられたものじゃなくて、やはりさまざまな活動の中から生み出されたものであることがよくわかりました。
民族名をとりもどす話、「帰化」時にとられた指紋を取り返す話、その他、どの話もすごくよかったのですが、なかでも、東九条マダンにかける思いを聞かせてもらった時、思わず涙が出てきました。
朴実さんが、東九条マダンをしようと思った原点、そして東九条マダンにかける思いは、子どもたちなんですね。自分に続く世代がどう生きていくのか。自分と同じ思いをしながら生きていくのか、新たな価値観をつくりだしていくのか。そのひとつの答が東九条マダンの中にあるんですね。そして、確かにいま、マダンを担っている人たちの中に、朴実さんの思いはきっちりと根付いているなぁと思います。
わたしも、その東九条マダンという「場」を借りながら、自分たちの「マダン」をつくらせてもらっています。ものすごい恩義を感じるとともに、やはり、東九条マダンにつながるひとりとして、責任を感じさせられました。

事前合宿2日目

朝、ちょっと早めに起きて朝ご飯のおにぎりづくり。やがて起床の時間です。女性の部屋のドアを開けて「あと、15分でパーテーションをはずすよ!かまわないね?」と声をかけました。なかなかややこしい…。
で、朝ご飯。そして話しあい。
昨日ディープな自己紹介をしているので、それなりに話は進みそうなものですが、やはり膠着状態になったり脱線したりします。そのあたりをさばくのがわたしの仕事。適当に休憩をとったり、適当に相談の時間をとったりしながら、なんとか4時間の話しあいの時間を終了して、ひとつの成果を出すことができました。
途中、地元の人たちのホットケーキの差し入れがあったりして、ほんとうにお世話になりました。
で、バスで最寄りの駅まで移動→解散です。みんな名残惜しそうに、それでも、「夏にまた会える」という安心感のある解散でした。

事前合宿1日目

今日は午後からの会議は失礼して、全国在日外国人生徒交流会の事前合宿に参加です。ところがまぁすごい雨。京都からの参加者はわたしの車で行ったのですが、合流地点がすごかったです。いや、雨もすごいんですが、迎えの車も多いんです。ま、しゃーないといえばしゃーないのですが、2列に並ぶのはやめようよ…。
事前合宿の会場は滋賀県東部のある町です。ここの全面的な支援をもらいながら、今回の事前合宿〜夏の全国交流会をすることになっています。
集まってきた子どもたちを見ると、さすがは各地からの代表という感じです。「交流するぞ!」という気迫がみなぎっています*1
まずは、簡単に自己紹介。すでに何回も参加して互いに知りあいになっている子もいるし、今回が初めてでちょっと緊張気味の子もいます。でも、それぞれがそれなりに自分のことを話したり、各地の活動状況を話したり。それにしても、数年前までは各地の「交流会」なんてほとんどなかったのに、今ではずいぶんとそういう活動も広がってきています。ほんとうに分厚くなってきたなぁと思いました。
次に、みんなで晩ご飯づくり。今回は、参加者のエスニシティにあわせてフォー(ベトナム)、バンシット(フィリピン)、Arroz con pollo(ペルー)、水ぎょうざ(中国)、チャプチェ(朝鮮)の5品です。ちなみに、今回のテーマは「パスタ」。ぎょうざがパスタというのはちょっと苦しい気もしますが、まぁ広い意味ではパスタ料理なんじゃないかと。で、それだけではなんなので、Arroz con pollo(ペルー風チキン炊き込みごはん)でボリュームをつけるという感じです。
つくっている風景を見ると、すごくおもしろいです。特に、中国にルーツを持つ子どもたちがおもしろいです。ジェンダーに関係なく、それぞれがこだわりを持っています。なので、時として互いのこだわりがぶつかることもあります。中国語で互いに主張しあっている姿を見るのって、それはそれでなかなか興味深い感じがします。
そんなこんなでできあがった料理のおいしいこと!かなりたくさん食べてしまいました。
で、夜は再び話しあい。今度は「ディープな自己紹介」というテーマだったのですが、これがまたすごいです。ほんとうにディープな話を、みんな笑顔で話します。でも、内容だけを聞いたら、とてもじゃないけど笑顔で話す内容じゃないんです。そんなこんなで、12時頃まで話しあい。その後、就寝です。
あ、わたし、ふつうに女性の部屋*2。でした。もちろん、みんなわたしのことを知っていて、でも特に何かあるわけでもなく、トランスのわたしをトランスのまま受けいれてくれている感じがします。こういうのも、たぶんこの交流会だからなんだろうなぁ。

*1:大人の「交流するぞ」は「=呑むぞ!」ですが、子どもたちは「交流するぞ」=「しゃべるぞ!」なんです。えらい違いやわ(笑)。

*2:というか、大きな部屋を移動式の壁で区切っただけですが

会議

昨日が昨日だけに少々疲れ気味ですが、今日は午前中、某在日外国人教育関係の事務局会議です。といっても、参加して何をしゃべればいいのやら…。どちらかというと、会議の場所で事務作業があったので、そちらに重点を置いていたりした午前中でした。

散歩

質問が終わって学生さんが返ったあと、1時間ほど時間があったので、大学の近くを散歩することにしました。
大学は大和川のすぐ北側にあります。この川、知る人ぞ知る銀座通り*1のような川なんですよね。で、大学の近くにもA香というムラがありますここ、まちづくりでも有名ですし、なんと言っても、やっている活動がおもしろいんです。なので、そこを散歩したいなぁと思ったわけです。いっしょに行きたいという学生さんがいたので、ふたりでいろんな話をしながらぶらぶらと歩きました。
実は数年前に散歩したことがあるんですが、今回歩いてみて、前には建っていなかった新しい住宅が建っていたりして、やっぱり変化していました。なにせ、昔からの家なんて、ここいはほとんど残っていませんから。というか、もともとのムラは大和川に張り出すように建っていて、1軒の家に1階がふたつあったとか*2。で、川で金魚を飼っていてそれが生業だったという話を聞いたことがあります。なので、昔からの家はすべて撤去されているわけです。でも、なんかなぁ…。そんな中、前に来た時にも建っていた家が一軒だけ残っていました。3年ほど前まで住んでいた家とちょっと似た感じなんで、「なつかしいなぁ」と。
ムラの端っこにはムラ墓があります。そこに入ってみると、旧日本軍で戦死した人たちのお墓がいっぱい建っていました。みんなすごく立派なお墓です。このお墓、どんな思いで建てたのかなぁなどと思いながら*3、あちこち見てまわりました。
このムラでは、長い間まわりの社会と隔絶されてきた*4歴史を変えていくために自分たちの設計した広い公園や立派な温泉*5があります。温泉は、ともすれば分断されがちなコミュニティをつなぎなおすものですし、公園もまた、そういうものです。その隣には、障害者施設や老人福祉センターがあります。まさに、「福祉の街」という感じです。ただ、なんとなく「それでいいのかな?」という気がしないでもないです。というのは、こういう街づくりが、新たな「隔離」を生み出してしまいはしないかということなんです。もちろん、買い物や仕事や学校の関係でムラの中に閉じこもりきりということはないとは思います。でも、その気になれば、一生をムラの中で過ごすことも可能なのではないか。ある意味わからないわけでもないけど、少なくとも子どもたちにとってそれがいいかどうかは、かなり論議の余地があるんじゃないかと思います。
なんていうことを学生さんと話しながら約1時間の散歩も終了。

*1:ってあるのか?

*2:河川敷側と堤防側ね。しかも、それぞれ住んでいる人が別の家もあったとか。

*3:いや、「どんな思いだったか」は、ほんとうにわからないんです…。

*4:地下鉄の操車場や川や大学なんかで、ほんとうに地理的に隔絶されていたんです。

*5:共同浴場

今日はゆっくりしたい…

今日はパートナーは用事で実家へ。わたしは、あちこちにおいてきた鍋とかの回収です。これで午前中終了。
パートナーが帰ってくるのは1時頃。てことは、昼ご飯はわたしだな。きのう家族に食べさせてあげられなかったチヂミでもつくろうか。てことで、チヂミのタネづくり。
どうやら、チヂミのタネって、焼く前にしばらく時間をあけた方がふっくらするみたいです。なので、ちょっと早めにつくっておきました。まぁ、好評だったかな。
昼のビールを飲んでこたつにもぐるとそのまま爆睡。ふと気づくと4時でした。
パートナーは2階で子ども部屋の片づけをしているもよう。てことは、晩ご飯もわたしだな。まぁ、きのうちょっと家用におかずをへつってあったし、すじ肉を少しミソで炊いて、あとはドリア風のものでもつくればOKです。ちょこちょこっとつくって、とりあえずお風呂へ。
あがってきて思い出しました。下の子どもが「カレンダーをつくりたい」って言ってたんだ。てことで、ソフトをダウンロードしてきて作成開始。といっても、子どもはpaintでお絵かきをして*1、それを貼りつけるだけです。でも、なかなか様になったかな。
てきとうなところで、晩ご飯を食べて、あとは子ども達といっしょにテレビを見てさんざん笑って、そしてふとんの中へ。
あしたは仕事かorz

*1:お茶犬カレンダーだそうで、一生懸命お茶犬を書いていました

後半はひたすら飲み

チヂミを焼いてしまったら、あとは片づけまでは、やることもありません。なので、ダラダラと飲み。もう、体力は限界に近いし、食べ物をつまむのもめんどくさいです。かといって、ビールを飲むのは飽きたので、あとは焼酎か…。
しばらく飲んでいたら、すぐに交流会は終了。その後片づけをして、2次会の場所に移動。京都市西部にある主催者の家です。ここで、交流会の残りのものを再び飲み食べしているうちに、完全にダウン。パートナーに電話をしたら「行ってあげるよ」というありがたいお言葉。
家に着いたらお腹がぺこぺこなのに気づいて、卵ご飯をかきこんで、そのままダウン。

中盤はひたすら焼き

さて、会場のお寺に料理を持っていってセッティング。ここでようやく一息です。お寺の庭を見ながら寝っ転がっていると、少し離れたところからライブの音が聞こえてきます。すごくまたーりとしていい時間が過ごせました。やがて、ライブの終了の予感。そろそろ作業再開です。
ここからはひたすらチヂミを焼きます。もう、体中ごま油だらけ。でも、友だちの名言「イタリア人のオリーブオイル、韓国人のごま油、ソウルフードです」を心に、ひたすら焼きます。1時間半ほどで、小麦粉1kg分のチヂミを焼き切りました。

前半はひたすら労働

きのうの晩、家に帰ったのが9時。そこから晩ご飯を食べて、労働開始。
実は、今日の午後、京都市東部の某所にて、朴保のライブがあります。で、わたしはそのライブの後の交流会の「女将」役です。なので、お総菜を山のようにつくらなくちゃなりません。
きのうの晩は、「ひじき」「切り干し大根」「スジのこごり」「小芋のたいたん」あたりまではつくっておきました。
で、テーマとしては「日本食と韓国料理のコラボレーション」ですから*1、今日はもっぱら朝鮮料理をつくろう、と。
で、まずはチャプチェづくり。続いて、ナムルづくり。そして、チヂミのタネづくり。あとは日本食の残りである「糸こんにゃくの炒めたん」と「うまい菜の炒め煮」です。
考えてみると、肉はほとんど使っていません。なので、コストはすごく安いです。でも、手間はものすごくかかります。朝6時半頃からつくりはじめたのですが、さすがに2時ぐらいには完全にやる気がなくなっていました。でも、その頃には終わっていましたけどね。

*1:会場はお寺

勉強(その2)・部落史連続講座

夜は、部落史の連続講座です。
今日はその第1回目。村上紀夫さん(大阪人権博物館)による「中世の被差別民と芸能」でした。
近年(でもないか…)、「部落史の見直し」の中で、歴史の中で生きてきた「被差別民衆」の姿がいきいきと描かれるようになってきました。でも、その多くは、いわゆる「カワタ」の人たちであることが多かったのではないかと思います。「被差別民衆」の中には、「カワタ」以外にさまざまな生業や役目を担う人々がいたことも明らかになってきています。しかし、そうした人々の姿にかかわる研究もすすんでいるのでしょうが、わたしの知るところでは、まだまだ「わたしたちの知る範囲」までは来ていないような気がします。そんな中で、今回の連続講座は「芸能」にスポットをあてていこうという試みのようです。
今回のテーマは「万歳(まんざい)」。
中世の「非人」と言われる人たちの中で、「散所」といわれる場所に住む人たちが、やがてその住んでいる場所の名前である「散所」という被差別民として扱われるようになります。この人たちの中で門付け芸をする人たちが出現し、そのうちの一つとして「万歳」があります[1] … Continue reading)。
ちなみに、「散所」と言われる人たちとその周囲の人たちの関係って、とっても微妙です。というのは、日常のさまざまな集まりに関してはわけへだてなく行われます。ところが、結婚の祝いについては別です。呼ばれない。呼ばれないということは、おそらくは通婚もなかったのではないかと類推されます。また、争議の調停の文書などを見ると「散所は餌取みたいなもの」みたいな記述があり、このあたりに差別意識の本質みたいなものが隠されているのかなぁと思いました。ちなみに、村上さんは、「日常は「ぜんぜん差別なんてしてないよ」と言っているし、本人たちもそう信じ切っている。ところが、いざという時になると、蛇の鎌首のようにもたげてくる意識がある」と表現しておられました。なるほどなぁ…。
ところで…。
この「万歳」の人たちは、正月から数ヶ月かけて、あちこちを訪れながら「お祝い」を述べながら旅を続けます((といっても、けっして「放浪」をしているのではなく、ひとつのルールに従って、あちこちを訪れていたとのことです。なので、迎える人たちも「あぁ、もうすぐ万歳が来るなぁ」とわかるんだったとか。こういうの、けっこうありますよね。

*2:現在資料として残っているのは、京都の万歳のようですが、もしかしたら、あちこちに「万歳」と言われる人たちがいた可能性もあります。

*3:「だいどこ万歳」というそうな。つまり、座敷ではなく玄関から入った土間(台所の前)で万歳をすることからきているとのことです。

*4:暦をつくるとか、占いをするとかという特殊な技能を持っていますので。

*5:実際には、「尾張」のみのピュアなものではなく、さまざまな系統が交じりあってできているだろうけど、方向としてはということです。

footnotes

footnotes
1 といっても、けっして「放浪」をしているのではなく、ひとつのルールに従って、あちこちを訪れていたとのことです。なので、迎える人たちも「あぁ、もうすぐ万歳が来るなぁ」とわかるんだったとか。こういうの、けっこうありますよね。">*1
やがて、秀吉の頃、京都の万歳は*2尾張強制移住させられ、京都における「万歳」の歴史は終わりを告げます。
一方、「万歳」そのものはこのころにはあちこちにいたことが資料としてあきらかになっています。その中でも有名なのが「三河万歳」と「尾張万歳」です。特に、「三河万歳」はその後徳川の出身地ということもあって、一つのブランドとして発展をしていきます。
通常、被差別民は虐げられ貧しかったと思われがちですが、三河万歳が万歳をするのは、座敷の上、しかも「上座」です。また、2本差しの万歳もいたとか。このあたりはすごく興味深いものがあります。
ところで、万歳という芸能も、かならずしも「万歳」とよばれる人が独占できていたわけではなく、かたや「うちのシマに入ってくるのか」と地元の人間に脅かされたり、かたや、バチモンの万歳*3が出てきたりと、けっして安泰ではありませんでした。その中で、公家と結託して自分たちの権威づけをしたりするというようなこともあったそうです。
江戸時代が終わりしばらくすると、宗教は国家神道のもと、一元管理されるようになります。すると、万歳のようなぁゃιぃもの*4は弾圧をされていきます。でも、万歳の人たちも延命をはかります。
三河万歳」は、「神道の伝道をしている」という立ち位置をとりながら延命をはかります。一方、「尾張万歳」は、雑種芸能としての方向を模索しながら延命をはかります。そして、この「尾張万歳」のひとつの道筋に、純粋にしゃべりに特化した「しゃべくり漫才」がある*5ということです。
実は、ここ数日寝不足が重なっていて、きちんと聞き切れていなかったり間違って聞いていた気もするのですが、概略こんな感じだったと思います。

で、感想ね。ひとこと「おもしろかった!」です。あと2回の講座も大期待をしています。

*1:実は、自信がない(;_;