主役は誰?

下の子どものバレエの発表会とやらで、某教育研究団体の会議を午後ブッチして滋賀県へ行ってきました。
演目は「コッペリア」です。
まぁ物語の詳細はwikiに譲るとして…。

なんか、見ていて切なくなりましたね。
「若者」とりわけ「少女」の残酷さをひしひしと感じました。わたしはどうしてもコッペリウスを中心に見てしまったのですがねぇ…。

「場所」はどこにある?

http://www.yomiuri.co.jp/sports/news/20090911-OYT1T00603.htm

女子800優勝の南ア選手は両性具有…豪紙

シドニー=岡崎哲】8月にベルリンで行われた陸上の世界選手権女子800メートルで優勝した南アフリカキャスター・セメンヤ選手(18)について国際陸連が性別を調査している問題で、オーストラリア紙シドニー・モーニング・ヘラルド(電子版)は11日、セメンヤ選手が医学検査の結果、男女両方の生殖器を持つ両性具有だと判明したと伝えた。

同紙によると、血液や染色体、婦人科の検査を行った結果判明したもので、セメンヤ選手には卵巣がなく、男性ホルモンのテストステロンを大量分泌する精巣が体内にあることが分かったという。セメンヤ選手は出生証明書では女性ながら、幼少時から男性的な身体能力があると指摘されてきた。

国際陸連は医学検査結果をもとに対応を検討するが、同紙は、セメンヤ選手の金メダルは剥奪(はくだつ)せず、2位だったケニアのジェネス・ジェプコスゲイ選手にも金メダルを与える可能性を指摘している。
(2009年9月11日13時39分 読売新聞)

疑問が一つ。「男女両方の生殖器を持つ両性具有」ですか。ほんまに?
というのはおいといて…。
う〜ん。2位の選手にも金メダルを与える可能性?じゃぁ、セメンヤ選手の金メダルの意味はいったいなに?

http://www.afpbb.com/article/sports/sports-others/athletics/2640101/4565236

過去に事例のある両性具有の4選手に対しては「キャリアを終えるよう要請した」と発表している。

スポーツ、あるいはもっと言うならば「競技スポーツ」っていったいなんなんだろうと思います。スポーツにおいて大切なことは、もっと他にあるんじゃないかなぁ…。

あれから8年か

あの日、ニュースを驚きとともに見ました。あの映像とともに、その瞬間「キター」と思ったことは忘れられないし、忘れてはならないと思います。そして、あの時を境に「世界」は確かに変容しました。

君たちが自分のまわりの細かなことのみに気をとられている間にも、君たちはまるでベルトコンベアーに乗せられたかのように、流され続けている。
将来、「こんなはずじゃなかった」と思わないために、自分のまわりだけじゃなく、世界を見つづけることが必要なんだ。

これが今日の授業の最初の言葉でした。
たとえ数が少なくても、それでも聞いてくれる子に伝えよう。くじけそうになるけど、あきらめないと、あの日に決めたんですよ。

興味深いやりとり

最近、ポツリポツリとやってくる/送り出すやりとりをこの人とやっています。
発端は、突然来たメール(笑)。

「反貧困」と野宿問題との間には、「男と女と間」にある「深くて暗い川 誰も渡れぬ川」があるんですね。
その川は、野宿者が「残飯に手をつっこむときの人間としての尊厳」を渡るときの川なのかと思います。

なるほどなぁ。
でも、その「川」っていったいなんなんだろう。
いや、もう少し言うならば、「残飯に手をつっこむときの人間としての尊厳を渡る川」っていったいなんなんだろう。
「川」の前ではものすごい躊躇があるんだろうな。でも、もしかしたら渡ってしまうと「あっけない」ものかもしれない*1。そもそも「人間としての尊厳」っていったいなんなんだろう。そして、その躊躇をつくるものって、いったいなんなんだろう。
いろんなことを考えさせられながら、わたしもポツリポツリと返します。
さて、これからどう展開するんだろう。

*1:ふと『失踪日記』を思い出したりして…

台風の報道に違和感を覚える

別にどーでもいいことなんですが…。
台風の報道のテロップに「夏休み最後の日」と書いてあったのですが…。
たしかに昔は9月1日が始業式という学校が多かったですよね。もちろん「秋休み」とか「寒中休み」とかがあって、始業式が9月1日じゃない県もあります(した?)けどね。

にしても、長野とか北海道とか、まぁ寒冷地じゃない都道府県においても、8月いっぱいまで夏休みがある学校って、今、どのくらいあるんだろう…。たぶん半分もないんじゃないかなぁ。

てなことを、「◯道ステーション」でテロップをつくった人は知っているだろうか(笑)。

ひとりだけかな?

で、負け戦の人も、勝ち戦の人も、いろんなコメントを返していました。
みんな一様に主語としていたのが「国民」でした。そのことに、強い違和感を持つことすらしんどくなるほど、あたりまえに使われていました。
その中で、一人だけその主語を(たぶん)使わなかった人がいました。その人って、「田中康夫」だったんですよね。なんとなく「なるほど」と思ってしまったりして…。

こわい…

いや、わたしは基本的には「反自民」ですから、自民が負けたことそのものはとてもうれしいのですよ。でも、あまりにも民主が勝ちすぎな気がします。
4年前「郵政」の風が吹いて自民・公明が大勝をした。で、今回その反対の風が吹いて民主が大勝をした。

わたしは議会制民主主義というのは、拮抗するふたつ、ないし、いくつかの考え方が、互いに考えをぶつけながら合意を形成し、あるいは妥協をし、「まだマシな方向」へと進んでいくようなものではないかと思っています。
こういうのがいいかどうかはわからないけど、こういうしくみそのものが「まだマシなしくみ」なんだと思います。そういう意味では、前回の総選挙も今回の総選挙も、ひとつ、ないし2つの政党に決定的な力を与えたと言うところでは同じ意味あいを持っているように思います。
それは、「めんどくさいからパシッとやって!」という感じ?もっと簡単に言うならば、独裁者を求めている感じ?議会制民主主義のめんどくささを受けとめられない感じ?
じゃぁ、革命を起こすのかというとそうではない。選挙を通して「誰か」に委ねる。

4年後、民主への逆風が吹いた時、またその風が推すその政党がどんな政党になるのかがこわい。

風にとらわれず、自分の場所から選択をしていく必要があると思うんだけどなぁ…。

大阪は誇りに思っていいと思う

3年連続で最下位?それは誇りに思うべきことだと思います。それほどまでにしんどい家庭や子どもたちを引き受けてきた、その結果だからです。んなもの、3年間でどうにかなるものじゃないです。
ついでにいうと、小学校で成績が上昇していることと中学校で成績が変わらないことも、「当然やなぁ」と思います。しんどい地域であればあるほど、小学校段階での「できる子」は、たいていの場合中学では私学へ行きます。小学校段階で力をつければつけるほど、その傾向は強くなり、成績上位層が大量に私学へ流れていきます。
小学校段階で学力的にクラスを引っぱっていた層がずっぽりと抜けた中学校は、ほんとうにしんどいです。
教室の崩壊を食いとめるかどうかは、実はこの層がどの程度のパーセンテージいるかにもよるように思います。経験的には、「授業なんてどうでもいい」と思っている人数が、教室の3割を超すと、いきなり教室は崩壊する。そんな気がしています。
きちんと調べていないのでよくわかりませんが、秋田と大阪の私立中学校への流出者のパーセンテージを比較するとおもしろい結果が出るんじゃないかなぁと思います。さらには、私立中学校の全国学力テストへの参加率とかね。
でもまぁ、そんなことを考えるまでもなく、わたしの知っている「しんどい学校」と言われる中学校の教員を見る限り、大阪の教員の指導力は全国でもピカイチだと思いますがねぇ。そんな人たちだから、とてもしんどい状況であっても、なんとかなっている。
大阪は最下位であることを誇りに思っていいと、わたしは思います。

テストの意味

わたしはテストには2種類の意味があると思っています。
すごく簡単に言うならば「入り口のテスト」と「出口のテスト」ということになるでしょうか。
「入り口のテスト」は、それを評価の対象にするのではなく、今後の指導の資料とするものです。「出口のテスト」は、まぁいってみれば「到達度」を測るもので、それを評価の対象にする*1ものです。
ところで、全国学力テストって、どっちなんだろう?
本来的には「入り口のテスト」なんじゃないかと思うのですが、実際には、地域・教育委員会・学校・教員の「評価」として使われている気がします。
これ、意味をはき違えている気がするのですが…。

*1:この場合の評価は、必ずしも生徒だけじゃなくて、実は教員自身の(自己)評価にもつながると思いますが

それって対処法か?

朝のニュースで全国学力テストの話がありました。
で、まぁいろいろいろいろあったわけですが、「結果に対する対応」について聞いている時に「へ?」と思ったことがひとつ。
なんでも「研修を充実させる」とのこと。
この手の「対処法」を聞くたびに、「ハイハイ、現場の教員が悪いんですね」と思ってしまいます。
何かおこったら、すぐ「研修」です。
別に自分自身のスキルアップをしたくないわけじゃないです。というか、わたしは研修を受けることについて、拒否をしようとは思っていません。それどころか、「どんな(つまらないと思われる)研修からも学ぶことがある」と、どちらかというと肯定的にとらえている人間です。
でも、それと「対処法が研修」ということとは別です。
「研修」という名のもとに、現場の教員がどれほど子どもたちに投入する時間を奪われていることか。研修だけじゃないですね。さまざまな書類を書くことを要求されて、これまた子どもたちに投入する時間が奪われている。
仮に「よい研修」を「たくさん」受けた教職経験ゼロの人がいるとするならば、その人に一年授業を持たせればわかります。その人が教科指導力があるかというと、必ずしもそうはならないだろうと思います。
きっと、研修「だけ」ではなにも解決しない。にもかかわらず、真っ先に「研修」が出てくる。
なんと安あがりな対処法だろうと思います。