タイプ

今日は文化祭1日目。とりあえず立ち上げだけチェックをして、あとは職員室待機です。なにせ、やはり夏のYデーのあとのさまざまなことの影響が残っているわけで…。いや、たぶん出血の影響はもうありませんが、その前後の影響はまだ残ってます。まぁ、まだ1ヶ月半なので、そんなものかな。5年前も、まだこんな感じだった気がします。
待機中、とある部員と「後輩の育て方」についてやりとりをしました。
その部員曰く、
「先輩たちは後輩たちに仕事を振らず、自分たちでやってしまう。仕事を振らなきゃ後輩は育たない。先輩たちは仕事ができない部員はいらないと思ってる」
耳が痛いな…。でも、その「先輩たち」は決してそんな気持ちではないんですよね。たぶん、仕事を進めなきゃならないってことと、後輩を育てなきゃならないってことの間で、焦りすらある。で、たぶん育てようとしてるけど、ついてこない感もあるかもしれない。
このすれ違いってなんなんだろう。
いろいろやりとりするなかで、なんとなく答えが見えてきました。
そうか!「職人タイプ」なんだ。
基本、淡々と仕事をする。で、背中を見せて育てる。うーん。それで育つ子は確かにいます。が、それでは育たないどころか、つぶれてしまう子もいます。マッチングの問題かな。
ちなみにやりとりをした部員は「教えて育てるタイプ」です。基本的にはこっちの方が汎用性は高いけど、「過剰な教え」は育ちを妨害してしまうこともあります。
ま、大切なのはタイプを理解することなのかなぁ。

はじめは個別の問題と思ってたけど、やりとりを展開する中で、実は普遍的な問題であることがわかりました。
やりとりしてよかったし、おもしろかった。

成功体験は人の成長をとめるのかも…

今日もいろいろあったけど…。ふと思ったこと。
今の若い教員、ほんとうに優秀です。みんな仕事を積極的にやるし、きちんとこなす。生徒に対してもきちんと話をして指導ができる。わたしの新採の頃とは大違いです。てか、今も指導できないか(笑)。
でも、ふと思いました。この人たち、失敗経験してないのかもしれない。
わたしはかつていっぱい失敗をしました。それは、例えば生徒とのつながりをつくりきれずに、生徒がいうことを聞かなくなって、結局やめてしまうみたいなことも含めてです。そういう生徒たちとの「わかれ」の上に、今の自分のやり方があるような気がします。それに対して、今の若い教員って、そういう失敗をしているだろうか。例えば、今って、生徒とのつながりをつくりきれずに、生徒がいうことを聞かなくなった時、「進路変更」というものをちらつかせてしまう。でもそうすると、例えばやめちゃったとしても、それは失敗にカウントされなくなってしまう。
これ、失敗にカウントしない時とカウントする時では、どう違いが出てくるのか。
例えば、わたしはいままで担任したクラスで、何人かやめていった子らがいます。「いうことを聞かなかった」からです。だから、「いう」のをやめて「聞く」ことにした。「傾聴」ってヤツです。それをしはじめてからは、生徒はやめなくなったし、おとなしくなった。「失敗」は、たしかに「その生徒」に対しては取り返しのつかないことではあります。でも、「その生徒」は、わたしを育ててくれた。そして、「次の生徒」を救ったのかもしれない。でも、あの時あれを失敗にカウントしてなかったら…。たぶん「いうことを聞かなかった」から、次はもっと「いうことを聞くようにする」としか考えなかっただろうな。もしかしたらそのことで「説諭」の力は上がったかもしれない。でも、「説諭」ではどうしようもない子どももいます。そうした子どもに対応できる力は、きっと育たなかった。
ひとつの力を強めていくのも成長かもしれない。でも、少なくとも教員をやっている限り「手数を増やす」ことが成長だと思うのですが…。

今日も第二のふるさと・豊かな半日

昨日、とある担任さんから「ちょいと気になる生徒がいる」と相談を受けたので、今日はちょいと家庭訪問をすることにしました。
朝、職場の最寄り駅を通り越して、第二のふるさとへ。一昨日も来たし、なんか、よく来るなぁ。
まずは地域のコミュニティセンターへ。ここの人たちは、まさに「地域情報」をご存知です。たぶん、子どもたちを地域と連携しながらサポートしていくという意味では、もっとも有効なモデルだったんだろうなと思います。が、いかんせん、地域にコミュニティセンターを設置するってのはお金がかかります。なので、一般的にはなかなか有効に機能しているとは言えない現状になっています。そんな中で、この地域はまだ有効に機能しているんじゃないかなぁ。
てことだ、しばし情報交換。
で、家庭訪問。
ピンポーン「あの、○○高校のいつきです」
「センセ、来やったでー!」
うわ。15年前と一緒やo(^^)o
しばし話をしたあと、ついでに、前に別のとある教員が「気になってる」って言ってたお母ちゃんに会いにもう一軒。
ピンポーン「あの、○○高校のいつきです」
「いつきー」ガチャ
このお母ちゃん、うちのガッコの卒業生じゃないけど教え子です。それからしばしシングルマザーの子育ての苦労話を聞かせてもらいました。
で、地域のコミュニティセンターに帰って報告したあと、今度はもうひとつの地域の組織の事務所へ。ここの専従をしておられるのは、これまた教え子のお母ちゃんというか教え子のおばあちゃんというか。ここで、表には出ない地域の情報をいろいろと教えてもらいました。なんというか、地域って、いま表面的にはとても静かです。ま、たまにバイクがブイブイいってますが、かつてと比べたら雲泥の差です。でも、しんどい層はとことんしんどい。そのしんどさは、たぶん世代を引き継ぐことでより濃厚になっているかもしれません。でも、それが圧倒的少数になったから表面化しない。あるいは全体の問題ではなく個の問題に還元されてしまっている。だから、誰も地域の問題として手出しができない。でも、実際にはたぶん違うんだろうな。
そんなことを考えさせられる時間でした。

にしても、おもしろい!
かつてはこんな半日はしょっちゅうありました。それがいろいろな変遷の中で、ほんとに久しぶりに過ごした半日でした。

にしても、なぜこういう時間を教員は過ごさなくなったのかなぁ…。
いや、わたしの学校におけるセクションというのは違います。逆にかつて担任をしていた時の蓄積があるからこそ、こういう半日を過ごせたんです。
確かに多忙化をしている現実はあります。でも、電車通勤&台風前の雨の中の徒歩でも、やろうと思えばできます。ましてや車であれば、たぶん半日が2時間くらいでカタがつく。その2時間で得られる中身は、ガッコの中でパソコンの画面とにらめっこする2時間とは比較にならない豊かさがあります。その豊かさをもらいながら、わたしたちは子どもたちと向きあう、そこに実践ってやつが生まれてくると思うんだけどなぁ…。

「へサヨ」か?

「へサヨ」という言葉、未だによくわからないけど、そしてそのラベリングがいいことが悪いことかわからないけど…。
わたしは「へサヨ」に分類されるのかなぁ。条件的には整ってます。

  1. 1980年代の左翼を少しだけかじってる
  2. 担任したクラスには3年に一回くらい本名を名のる在日の子や、立場を伝える部落の子が出てくる
  3. 3年の担任をするとクラスの半分くらいの子が卒業式のはじめに腰を抜かして座り込んでしまう
  4. 今も少しではあるけど差別というか人権というか、そんなのにかかわっている
  5. 在日文化大好き
  6. ムラのお好み焼き大好き

うーん。やはり整っている。
じゃ、わたしはへサヨなのかなぁ。仲間たちはへサヨ批判をしてるけど、それはわたしにも向けられてるのかなぁ。
もしもわたしがへサヨでないとしたら、それはどこに違いがあるのかなぁ。

情報が入ってこない

毎朝5時半に起きて、6時半ぐらいに家を出て。ブログの更新をしたりメールのやりとりをしたり、はたまた本を読んだりしながら出勤。
職場に着いたらさっくりとメールチェックをして授業へ。
授業が終わったら、夏休みの宿題チェックと採点の祭典が待ってます。そうこうするうちに午後の文化祭準備の時間帯に突入。あちこち歩きまわりながらチェックをしていって、なんだかんだとしていたら、机から離れて何時間だろう。机にもどっても、生徒も来るし、お客さんも来るし。気がつくとtwitterの未読件数は1000を越してます。facebookのTLは流れっぱなし。
帰りの電車でようやくtwitterfacebookをちょこっとチェックをして、でも読まなきゃならない本を読んで。家に帰ったらお風呂→晩ごはん→テレビ→寝落ち。

こんな生活をしていたら、まったく情報が入ってきません。
寝る間際にfacebookを見たら、うわー、今日、京都タワー前で街宣があったんだ。しまった。でも、時すでに遅し。12時には街宣してないわ。

違いはどこか→もったいない→反省会(笑)

今日は一日校内研修です。
午前は保健部研修会。hyper-QUの説明と、スクールカウンセラーさんの不登校にかかわる話です。
hyper-QU、あまり好きじゃないんですよね。いや、とても役に立つのはわかります。わかるんですけど、なんか、そのことで教員の「嗅覚」みたいなものが損なわれてしまう気がするんです。もちろん「嗅覚」をある程度持っている人が自分の嗅覚を確認するために使うという方法はあると思います。でも、はじめから使ってしまうと、それに頼ってしまうというか、嗅覚が育たないというか、そんな気がしてならないのです。
なので、「ふーん」とか思いながら聞いていたのですが…。
話の内容はわかりやすいです。とりわけ個と集団の関係をうまく説明されます。なので当然のことながら「クラスづくり」にも言及されます。ほとんどこの間やってきた「クラスづくり」を中心に据えた人権研修と変わりないです。じゃあ違いはどこにあるんだろう。
後半のスクールカウンセラーさんの話は、もちろん「個人の把握と対応」に焦点があたります。おそらくは、2つセットに意味があります。つまり、hyper-QUで集団と個を把握して、スクールカウンセラーさんの話からその対応を考える。おそらくはほとんどの教員は「それで事足れり」とするんじゃないか。となると、人権の出番はなくなってしまう。
じゃあ違いはどこにあるんだろう。
それは、おそらくはそうした集団やこの背景にある「社会」に目を向けるかどうかの違いなんじゃないかなと思います。さらにいうなら、その社会を変革すること。それこそが人権なんじゃないかな。
となると、これがまたやっかいなんですね。なぜなら、そんなことをしなくちゃならないと考える教員はそんなに多くないってことなんです。つまり、集団と個を把握し、「しんどい個」を支えればOKと、ほとんどの教員は思うのではないかと思うのです。で、確かに学校の役割はそんなもん、というよりも、それでも「よくやってる方」だと思うんじゃないかな。なので「社会」まで行くと「やりすぎ」「そこまでする必要はない」と考えてしまう。つまり、教員って、極めて「福祉的スタンス」なんじゃないかな。
と考えると、「そうか」と思うのです。校内補習は手伝ってくれる。なんなら隣保館学習会も手伝ってくれる。でも、「高友」にまでいくとガクンと減る。「そこまでする必要はない」。わたしなんかは、校内補習も隣保館学習会も、高友へのネタでしかないんですけどね。

てことで、午後は人権研修会。今日はリビングライブラリです。集まってくれたのは「シングルマザー」「アメラジアン」「在日コリアン」「部落出身者」「トランス女性」「ゲイ」と、まぁ、よくぞこんなにというか、みんな友達関係じゃんというか、友だちにはマイノリティしかいないのか状態です。でもま、たぶんマイノリティしかいない。それは、「公認の」マイノリティというわけではなく、例えば「人権をガチでやる」教員なんていうのも学校教育現場ではたいていマイノリティなわけで、たぶんそんな人ばっかりなんでしょうね。
今日は2セッションやることにしました。てことは、組み合わせは6C2通りあるので15通りかぁ。
わたしは「部落出身者」と「在日コリアン」の話を聞かせてもらいました。おふたりとも大学生(大学院生)なんだけど、すごくいい話をしてくれました。なんだろ。自分のアイデンティティを構築していく過程をていねいに話してくださった気がします。その背後には、どれくらい自分を見つめ、どれくらい家族を見つめ、どれくらい社会を見つめてきただろうと思うと、やはりすごいとしか言いようがありません。
にしても、全員聞きたかったなぁ…。

で、当然のことながら反省会です。
ちなみに、おとついは「無理か?」と目の前が真っ暗になった反省会ですが、どうやらできそうな感じなので決行です。
いやぁ、よく食べ、よく飲み、よくしゃべりました。楽しかったo(^^)o

決断

ずっとどうするか迷っていたのですが、とりあえず決めました。
まずは、玖伊屋は欠席します。「行くつもりだったのか」と言われそうですが、実はパートナーが送ってくれて20時〜22時のみ限定参加を考えていました。でも、往復の時間とそれに伴うロスタイムを考えると、19時〜23時が「安静にしていない時間」になります。そのことのリスクを考えると、やはり「行かない」がいいだろうと。
それに伴って、禁酒の期間も延ばすことにしました。実は、玖伊屋で軽く乾杯と考えていましたが、玖伊屋に行かないなら呑まなきゃならないわけではない*1ので、導尿バルーンが抜けるまでは呑むのをやめようと。
もうひとつは、今年の全国在日外国人生徒交流会も欠席します。この間、わたしの役割としては、なぜか卒業生たちとバタバタしていて、今年はじめてほんとうに体制を組んで現役生たちのサポートに入る準備をしていました。なので、交流会当日は本部でおとなしく寝ながらの参加をしようと思っていました。そこが会議室で布団がない時のためにこんなもんまで買ってしまいました。が、たぶん行ってしまうと動かなきゃならない。さらに、呑まなきゃならない(笑)。そして、寝られない。そのことのリスクを考えると、行くのをやめることにして、本番は卒業生たちにまかせることにしました。
実は、わたしの状態を知った卒業生のみんなから「会いたいけど来るな」という「暑苦しい優しさ」にあふれたメッセージが届いていました。Tーますに至っては、「「いつきちゃん、本部でねっぱなしやわー」とか思いながらゼンコーなんてできるか!」という、ほんとうに「暑苦しいメッセージ」をくれました。そんなみんなの言葉に従うことにしました。
おかげさまで、副産物として、「山に登る*2」の時間が2日確保もできたわけでo(^^)o。

*1:もちろん、玖伊屋に行ったからと言って呑まなきゃならないわけでもないのではありますが^^;;

*2:おべんきょ結果のリライト

facebookにおけるコミュニケーションのあり方についての一考察

それにしても、「今日」の半日はローだったなと。特に「明日」書いた「今日」の分の「考え」のエントリはローだったなと。なんで自分があんなにローだったのかなと「今日の夜」考えていたのですが…。
あ、そーかと思い当たる節がありました。
それは、「同じことを何度も書いた」ところにあったのかなと。
facebookっておもしろいというか変というか。
ある投稿をする。それに対してツッコミAが入る。で、いまは「そのツッコミA」に対する「ツッコミA’」がはいるようになっています。あれ、よくないよなと。つまり、あるツッコミAに対するツッコミはAにぶらさがっていく。すると、親投稿に対してツッコミBを入れる人は、ツッコミAへのツッコミA’の存在を知らずに(読まずに)書くことがある。すると、ツッコミAに対してツッコんだ内容をツッコミBにも書かなきゃならなくなることがある。
つまり、ある話題(親投稿)についての論議を、個々の人間とやるには適しているけど、論議をシェアしてみんなで話題にするには適していない仕様な気がするのです。これ、わたしにとってはどういう感覚かというと、「公開された場所で個人間の会話を何人もの人とする」という感じになるんですね。
で、同じシチュエーションがどこにあるかというと、教室にある(笑)。

とあるホームルームのシーン。
い「あしたの持ち物は○と△と□。わかったか!あ、A、聞いてへんやろ。いま、わたしが何を持ってこいと言ったかゆーてみぃ」
A「わからへん」
い「ええか、もう一回言うで。明日の持ち物は○と△と□。わかったか!」
B「え?なんやて?もっかい言うて」
い「同じこと、何回言わすねん!ええか、明日の持ち物は○と△と□!わかったか!C!」
C「なに?聞いてへんかった」

こうなってしまう最大の要因は、公開の場であるにもかかわらず個人間で会話していることなんですね。だから、それを避けるためにはこういうふうにしなきゃならない。

とある授業のシーン。
い「○は△で□になるねん。わかった?」
A「え…」
い「Aさん、どうしたん?」
A「なんで△になるの?」
い「いまAさんがとてもいい質問をしてくれた。たぶん、そこでひっかかった人、他にもいるやろ。じゃ、そこのところをもう少していねいに説明するね。Aさん、○が☆になる。これはOK?」
A「うん」
い「☆が□になる。これはOK?」
A「なんで?」
い「あー、ここか。これはね、☆が×になるねん。ええか、ここ、みんなキモやで。しっかり聞いときや。これOK?」
A「うん」
い「で、×が△になる。OK?」
A「うん」
い「だから△が□になる」
A「なるほど」
い「みんなわかった?Aさん、いい質問してくれてありがとう」

というふうに、「個人間の会話を公開する」というふうにすればいいわけです。で、実際わたしはそういうふうに授業をしています。ちなみに、このAさんとのやりとりをしていく中で、Aさんのペースについて行けない生徒もいます。そういう生徒は隣の子に聞きながらわからないところをフォローアップしていく。それでいいんです。

で、こういうふうにやることがある程度自分の中で確立して、それに慣れているところに、「さっきのホームルーム状態」が来たのが堪えたのかな。しかも、ダメダメ先輩曰く「やっぱり血は大量に出たし、輸血したし、麻酔もしたし、傷口さわったし、肉体に何度もメスを入れてる。それだけで、体力も気力も、通常の半分以下」というところに本人が気づいていない(笑)。で、テンションだけで乗り切ろうとしてガックリ来たのかな。
ま、いずれにしろ、原因がわかれば対処法もわかる。なので、たぶんもう大丈夫です。

にしても、最初にも書いたけど、今回のfacebookの仕様変更(たぶん)は、もしかしたら個人間のコミュニケーションのためにはいいかもしれないけど、それを全体へと還元しようとするとダメな仕様変更な気がします。
なので、極力「返信への返信」は使わないようにしたいな。ま、もとの「親投稿」をした人の気持ちが最優先ではあるだろうけど。

情報発信の方法

今日、facebook上でいろいろやりとりがあって、それを通して考えたことの一端ですが…。
おそらく、わたしが一番コアな情報発信をしている場所は「ここ」です*1。で、それは、muchan時代から10年以上続く流れの延長線上にあるわけです。
それに比べると、twitterfacebookは、わたしにとってはそんなにコアな情報発信の場所ではありません。基本的にはfacebooktwitterと連携しているだけのことで、facebook独にの情報としては、つっくみを入れるだけだし、twitterは、まさに「ふと思ったこと」をつぶやくだけで、それほどまとまった時間内容を考えているわけでもない。
なので、facebooktwitterは、わたしの情報発信源としては、ほんとうにごく一部でしかない。
ところで、わたしへのアクセスの方法は、いまやほとんどがfacebookみたいです。それは例えば「友だち申請」であったり「つっこみ」であったり。たぶん、そういうのをうまく使って情報発信をしている人がいるから*2、たぶんそうした人たちと同じような感じなんでしょうね。でも、たぶん、わたしはそういう人間じゃない。
ここにも書きましたが、たぶん、わたしの情報そのものへのアクセスの方法が

twitterfacebookって、情報を発信したり、流れてくる情報をもらうには適してるけど、そこにない情報を探しに行くには適してないな。
ブログや日記(笑)しかない時代は散々情報を探した。情報発信するにははタグ打つしかなかった。〈blockquote〉とか懐かしいなぁ(笑)。

なんですよね。そういうわたしは、「時流」からはおいていかれているのかもしれないですね。もちろん、ブログやっている人もおられます。中にはブログの更新をtwitterで報告している人もいます。実は、今回の「騒動(笑)」を機に、わたしも少し「誘導」を試みてみました。そのせいか、ここのview数は、この数日100を越しています。多い時で200行きました。でも、たぶんこれも一時のこと。そのうちいつもの50くらいに落ち着くんでしょう。
なぜわたしが「報告」しないかというと、不定期ではあっても毎日分更新をしているから、「更新しました」の報告が意味をなさないからなんです。それと、なんか照れくさいというか、そういう積極さがやっぱりイヤなんでしょうね。

まぁ、そういうやり方って、例えば「トランスジェンダー生徒交流会」と近いのかもしれません。サイトをつくるわけでもなく、宣伝をするわけでもない。そのせいで、完全に「時流」というか「メインストリーム」からは,その存在は知られてはいません。でも、来る人は来る。それと同じことです。

てことで、これからも自分の一番コアなところはここで発信をし続けます。そして、きっとそれはtwitterfacebookには書かない。
まぁ、今回の騒動で、たまたまここを見に来られた方で「おもしろそうだな」と思っていただけたら、引き続きご愛顧のほどを(笑)。
てことで、このブログの宣伝はおしまいです。

*1:いや、だから「ここ」って言ったじゃないですか(笑)。

*2:MめたさんとかKね子さんとか、他にもいっぱい

適正人数とか

今日は今学期最後のp4cです。さてさてどうなるか。
今日もFぁよんさんが来てくれて、さっくりと打ち合わせ。「原点にもどりましょう」。確かにそれが大切なのかも。
で、開始。みんなで大きな輪になってコミュニティボールをまわします。
「この授業で何がしたい?」
「この授業でしてほしくないことは?」
子どもたちの答えを聞くと、やはりしんどくなってきますね。基本は、なにかをしたいと考えてないし、何も期待していない。いや、みんなじゃないです。でも、そういう子が多い。でもま、当たり前です。だって、もしも自分が高校生で同じ質問をされたら、やはり同じような答えになったかもしれません。
まぁ、今日はそれが確認できたことが収穫です。
最後にふたつのグループにわけて「雑談」をすることにしました。
ところが…。
わたしのグループが少し人数が少なかったところ、案外話が弾む。あれ?
テーマは「好きなお寿司」です。でも、ちゃんと「なぜ?」とか「でも」とか「例えば?」とかやってます。これ、p4cじゃん。
あ!
適正人数とか、適正メンバーってあるのかもしれません。
2学期への希望を残して終了。