眠いのはメンタル落ちてるからか?

5月はかなりひどい月でした。
連休初日にカウンターやってる先輩が亡くなりました。この方が亡くなられたのはものすごく悲しいし残念なんだけど、ながくガンと闘いながら、それでもさまざまな発信をされてきたし、それなりに「しかたない」と思うこともできました。
その後、友だちが自殺未遂をし、さらに別の友だちが自殺未遂をしたらしいという情報が流れてきました。でも、このふたりは、無事こちらの世界に帰ってこられた。が、こないだとうとう帰ってこられなかった「後輩」がいたという連絡が入ってきました。
実は、わたしのまわりには自死する人はほとんどいませんでした。もちろん「するんじゃないか」とおもう人はいないわけじゃないけど、「するんじゃないか」と「する」はまったく違います。なぜかはわかりません。もしかしたら、自死する人はわたしに近寄らないだけかもしれません。あるいはその逆かもしれません。でも、いずれにしても、いろんな人と話をしていても、「いないなぁ」と、ずっと思ってきました。でも、いざ目の前で「いる」とわかったとき、いろいろ考えます。

トランスなんていうものは、QOLをあげるためにやってるんだと思います。いつも思いますが「Gender Nonconforming」であることそのものはいいんだけど、「Gender Dysphoria」に気づいた時点で「行くも地獄、とどまるも地獄」だと思ってます。で、トランスという行為は「行くも地獄」を選択するということなんだと思ってます。なぜなら、「とどまる」ことのQOLと「行く」ことのQOLを天秤にかけた選択の結果だと思っているからです。
にもかかわらず、「死を選ぶ」のはなぜなのか。なんのために「トランス」を選んだのか。
もちろん、「高まったQOLであっても、なお死を選ぶほど低いところにとどめられていた」=「トランスしてなかったらもっと早くに死を選んでいた」ということはあるかもしれません。それならそれで、「あとに残された者」としては、少し救われます。でも、トランスしたがゆえに、「Gender Dyspholia」とは異なる要因がQOLを引き下げたとしたら、やはり「なんのためのトランス」って思います。

朝からこんなことをぐるぐる考えていると、どんどんメンタルが落ちていきました。メンタルが落ちると、いろんなことがどうでもよくなって、眠くなります。なので、一日眠い。
かろうじて、質問受付授業では覚醒状態を保てたけど、おべんとを食べると再び眠くなりました。あたりまえか。
てことで、定時にさっさと家に帰って、さっさとおふろに入って、さっさとビールを飲んで寝ることにしましょう。

日常に埋没する

他の人は知りませんが、仕事に没頭すると、ニュースが入ってこなくなります。すると、ほんとうに身のまわり1mのところでものを考えるようになってしまいます。そして、その1mの中にも一喜一憂があるわけで、そこで満足してしまう。そんなことをしているうちに、1mの外側ではいろんなことが動いていく。そのことをわかっていても、1mしかわからない。
なんか、そんな月曜日。

脱病理の手前

なんか、NHK発達障害についての特集をするとか。なんとなくチャンネルをザッピングしてたらちょうどタイミングがあったので見ちゃいました。
なんか、見ながら
「歴史は繰り返すんだなぁ」
というか
「まわるー、まーわるーよ、時代ーはまわるー」
というか、そんな気持ちになりました。
冒頭「15人にひとり」とのこと。おぉ、「LGBTは13人にひとり」説に並ぶ数字です。ちなみに、ASDADHD・LDひっくるめてるのも似てます。ちょっと意味合いは違うんでしょうけどね。
発達障害の原因探しが脳科学レベルで行われているとのこと。うわあ、同性愛や性別違和の話と似てるわ。そういや、最近はそういう話はあまり聞かなくなりましたね(笑)。
栗原類さん曰く「わたしも障害を持っている」。確かにそうです。が、どこかで聞いたフレーズだなと。
いや、内容は興味深かったし、わかりやすかったし、研究の成果が理解につながる感もよかったし、いろいろいいんだけど…。ビミョーです。
ちなみに、パートナーはケラケラ笑いながら「わかるー」って言ってました(笑)。

ぜったいぜったいぜったい押し返すからな!

淡々と仕事をしている昼前に、突然衆議院法務委員会で「共謀罪強行採決のニュースが飛び込んできました。
もう、何度目になるんだろ。強行採決
教育基本法改悪、特定秘密保護法、戦争法、そして共謀罪
とにかく、夕方のデモには行かねばなりますまい。ということで、同僚に「デモ行ってきます」と宣伝して退勤。そのまま市役所へ。すでに人が集まっています。わたしはわたしがいられそうな人の集まりを探して(笑)、まずは集会参加。そしてデモ。京都のデモはけっこう年齢層が高いので、4beatのリズムはムリポです。シュプレヒコールの練習のときは「オールドタイミーな長いのでいきます」とのコールが入りました。あかん、長いの、覚えられへん(;_;)。
で、デモ。
別にデモをしたくてしてるんじゃないです。他にやりたいことややらなきゃならないことはあるんです。でも、それを押しのけてでも主張しなきゃならないと思うのです。まさに「平穏な日常」を壊す強行採決に、ほんとうに憤りを感じます。
ぜったいにあきらめないからな!
ぜったいに押し返すからな!

日常会話

昨日はほんとに疲れました。夕方髪の毛をカットして、出来具合の確認と、いつ切ったかがわかるようにするために写真を撮ったのですが、顔が歪んでました。ちなみに、わたしの顔は疲れてるときは歪んでます。動いているとわからないのですが、写真を撮るとてきめんにわかります。
で、今朝も疲れがとれてません。どんだけ疲れたんやねんと。でもま、どうせ授業をしているうちに体調はもどるんだろな。必要なのは、適度な発声と適度な運動です(笑)。
ちなみに、3年生は図書室学習。机の間をぶらつきながら、遊んでる子に注意をしたり、遊びにつきあったり。そんなことをしながら、昨日の人権学習の感想を聞いていました。

S「せんせい、ウトロも部落か?」
い「いや、あそこは朝鮮人がたくさん住んではるところ。戦争中にな、京都南飛行場というのをつくろうとしててな、ちょうど久御山高校のあたりが滑走路でな、そこの盛り土をする仕事をしてはってん。つまり、昨日言ったみたいに、日本の植民地政策がつくった街やな」

S「部落ってこわいってお母さん言ってる」
い「そやなぁ。昨日のビデオ思い出してほしいんやけど、迷路みたいな街やろ。そしたら、その奥になにがあるかわからんやん。しかも、貧乏な感じの人がいっぱいいてな。そしたら、なんか怖い感じがするやん。たぶん、お母さんの親の時代はそんなんやろ。で、お母さんの頃はそういうのがなくなってて、でも、そういうふうに思った親が「こわい」って言ったら、そういう迷路みたいな街が目の前になくて知らないから、「あー、こわいんや」ってなるんとちゃうかな。実際に知り合いになったら、こわい人もいるけど、優しい人もいるで。まぁ、人間関係やな」

S「部落の人って、結束力が強くて、よそ者が来たら「お前何者や」って感じでみはるって聞いたで」
い「そやなぁ。そら、差別されてたら、ガードか固くなるやん。「差別しに来たんか?」ってな。例えば、女性専用車両に男の人が入ってきたら、知らん女の人同士でも「あの人、なに」ってなるやろ?」
S「なるなる!」
い「それと同じやちゃうかな。もしも痴漢の危険がなかったらそんなふうにはならへんやろ?それと同じで、差別がなかったらそんなふうにはならへんのとちゃうかなぁ。」

子どもたちは部落を知ってるんですよね。それも親から聞いて。でも、それはアンケートからは出てこない。なぜなら、PCな回答にならないから。でも、ちゃんとマイナスの情報は持っていて、今まで習ったPCな知識との間でconflictを抱えてる。だから、その「マイナスな知識」をまずは受けとめて、それを肯定しながら、なぜそういう「マイナスな知識」が出てくるのかをひとつひとつ説明することが大切なんじゃないかな。
つまり、「人権学習」という、ある種のPCな時間のあとに出てくる「でもほんまはこうちゃうん?」という問いかけへのカウンターこそが、ほんとの人権学習かもしれません。

昼休みに、またまた知ってる子にちょっかいかけました。
い「昨日の作文のやりとり、すごかったやろ?あれ、全部、人権学習の作文やで。みんな、自分の話を書きやんねん」
S「へー、今とレベルが違いますね」
い「いや、そうやないねん。わたし、毎週学級通信出しててな、そこに作文載せるねん。そしたら、「あの作文に対して自分はこう思った」ってのが出てくるねん」
S「へー」
い「そやからな。わたしが担任してたら、毎日のショートホームルームが全部人権学習やねん」
S「へー、いいなぁ」

「毎日のショートホームルームが全部人権学習」に対して「いいなぁ」という答えが返ってきたことに驚いたけど、たぶんそうなんですよね。人権学習って、「○○について学ぶ」ことをきっかけにして、ひとりひとりの生徒が自分が聞いてほしいことを語り、聞いてほしいことを聞く、そのことを通してつながっていく営みなのかなと思いました。
もちろん、それを望まない子がいることもわかった上で、でも、きっと大人の世界ではありえないそんなことを教室でやる「試み」なのかもしれません。
いま、自分がクラスを持ったらどうなるかな。まぁ、そんなことを考えるのはやめましょう^^;;。

そんなふうに1日過ごしたら、なんとなく疲れが回復してきたり(笑)。

部落差別についての授業を考える

来週、3年生の人権学習で部落差別を題材とした話をしなくちゃなりません。もともと30分くらいで終えるつもりだったけど、いろんなやりとり…というか、ご注文で、どうもそうもいかないみたいで、もう少し話をする必要が出てきました。まぁ、どうせやるならプレゼンつくってガッツリとやればいいかなと思ったので、作業をはじめたのですが…。
まぁ、自分がこれまで30年くらい、学び、考え、実践してきたことを詰め込むことになりそうです。ちなみに、詰め込む内容が少なかったら詰め込むのは簡単なんですが、詰め込む内容がそれなりにあるので、逆に「なにを詰めたらいい?」となっちゃいます。いや、なんぼでもあるのですが、なんぼでもある状態は、却って「ない」状態なんですね。なので、とりあえず最小限度のことを考えて、それに少しずつ付け足す形で、ようやく全体の流れができたかな。
そんな中でふと思ったこと。
やはり、部落差別って、とてもおもしろい、原始的な差別なんだろなということです。
部落史を勉強する中で「パシリの差別とシカトの差別」なんてことを聞きました。その後、金明秀さんの講演でも「見下し(序列化)と遠ざけ(排除)」という話をしておられました。これ、おそらくどんなテーマに着目しても、同時に両方をしてるんだろうとは思います。が、「ウェイト」が違うかなという気がします。部落差別は、やはり「排除」が強い。ちなみに、だからと言って、「日本特有の」なんていうことは言うつもりはなくて、たぶんどこの共同体でも同じ構造を持つ差別はあるんだと思います。つまり、だからこそ「原始的」ということになる。

「共同体」が拡張し、他の共同体と支配非支配の関係になると、おそらくは「見下し」が優位になるんじゃないかなと思うのです。日本を例にとると、例えば現在で言うなら、アジアの他の諸国であるとか、第三世界への眼差しはそうかなと思います。その少し前は琉球でありアイヌに対してそうだった。ちなみに、今もそれはあるから「土人発言」が出てくる。でも、AASAが意識化されなかった頃は、より「見下し」が強かったんじゃないかな。そして、今は「同化と排除」が同居する感じかなと。
でも、「共同体」が拡張する前、まだ他の共同体と接点を持たない時に、いかなる形態の差別があるのかな。言い換えると「他者なき差別」をどうつくるのかというと、共同体内部からなんらかの理由で誰かを「差別の対象」としなくちゃならなくなる。つまり「差異化」が必要となる。その最初の「理由」が、おそらくは「ケガレ/キヨメ」だったのかなと。「原始的」とはそういう意味です。
つまり
−部落差別:遠ざけ→そのまんま(見下しは遠ざけの理由?)
−他の差別:支配→見下し→見下し+(新たな「支配→見下し」ができることによる)遠ざけ→遠ざけ?
みたいな。いや、よくわかんないですけど。

で、なんでこんなことを考えているかというと、部落差別を日本特有な差別と考えずに、他の差別とどう結びつけながら説明するかということなんです。シームレスにつながるわけじゃないけど、「原始的なもの」として、他の差別に応用するという形でつながっていると考えたら、「わたしたちが共同体をつくる時の作法」として捉えることができる。となるとそれは普遍性を持つし、単に例えば「ヘイト」という現象レベルではない「わたしのこと」になる。そしてそれは、あらゆるところに応用できるものとなる。
まぁ、そんな授業をしたいなと思ってるんですよね。
さてさて、どうなるか…。

Be the 当事者、Do the 当事者

今日は午前と午後に会議が一本ずつあります。
午前の会議は「第二の故郷」の人権教育連絡会。今日は今年度はじめての会議なので、それぞれの参加者が今年度の方向性について話をしてみたり。そんな中、ムラの子が自分がムラの子かどうか知ってるのか知らないのかみたいな話が出てきました。
これ、新しくて古い話ですね。
自分が当事者かどうかわからない当事者って、かなり珍しいんじゃないかなぁ。まぁ、日本国籍を取得した外国人の子どもとかは同じ問題があるかもしれませんが、他にはあまり思いつきません。もちろん「自分の持たされている課題が当事者性を持つことを知らない」から「気づいてない」みたいなことはあり得ることではありますが、それとは違う気がします。なぜなら「親が隠す」ことが原因だからです。
でもこれ、差別があるからそういうことがあるんですよね。つまり、差別があるから親が伝えない。そして、伝えるかどうかの決定権を親が持ってるとまわりは思うから、まわりも伝えない。そうやって伝えられない≒隠さなきゃならないから暴く人がいる。なぜ暴くかというと、差別があるからです。
このサイクルをどうすればいいのかな。かつて「解放奨学金」があるときは、それをテコに伝えてきました。でも、今はそういう形としてわかる「徴」はない。でも、「徴」はある。

そんなふうにモヤモヤしながら、午後の会議。
こちらは半分強は去年からの継続メンバーですから、まぁ気は楽です。今回はsscの方が来てくださって、新たな観点をもらえました。

で、帰りに前のおべんきょ場所に行って、センセのところに遊びに行きました。
大学生になると、向こうから「自分はムラの出身で」って言いに来てくれるケースが出てきます。これ、別にもともと知ってるわけじゃないです。でも、気づくんです。
それは「徴」があるからです。例えば、「自分の町の特産品・産業は○○なんだぁ」と思っていて、やがていろんな知識を獲得する中で「あー、その特産品・産業って、ムラのものなんだ」って気づくとか。つまり「徴」と「ムラ」をつなげるヒントがあるからつながる。そして、当事者性をみずから獲得する。そうやって獲得した当事者って、かなり肯定的な感じです。そういう肯定的な感覚を身につけるとりくみって、かつては小学校くらいからやってたけど、今だとやはり大学生くらいにならないとムリなのかな。

戦後の解放運動のいい面でもあり悪い面でもあったのは「個人的なことにしない」ことだったのかもしれません。もちろん「The personal is politics」ですから、それはそれでいいのですが、でも結果的にそれが「隠す」ことにつながり「人が不在」のとりあげられかた/あつかいにつながっていったのかな。だって、人権啓発なんかの重点課題を見ると、他はすべて「人」だけど、部落だけは「同和問題」ってなってる。もちろん一方で、いや、だからこそpoliticsとpersonalをつなぐものとして「部落民宣言」というとても大切な営みがあるわけです。
「BeからDoへ」。今こそこのことが問われてる気がします。

なんじゃそりゃ!

朝起きると、やはり体調は絶不調です。頭痛はするし首は痛いし。でも、どうせ夕方には体調なおるんだろな(笑)。
てことで、授業まみれの1日を過ごしたら、やはり体調は治ってました。たぶん、適度な発声と運動が身体をほぐすんでしょうね。で、頭は使わないから身体も凝らない(笑)。
てことで、さっさと家に帰るわけですが…。

もうね。
ネットの向こうの現実の世界はやりきれないことが山のようにありますね。

  • 『beyond』表紙改ざんをめぐる話

大切なお友だちの宇佐美翔子さんが掲げたプラカード「故郷を帰れる街にしたい」が勝手に消されたことです。
これ、前に岡田美穂さんから聞いてたけど、やはり、あらためて怒りがこみあげてきます。翔子さんが、そのプラカードにいかほどの思いを込めてつくったか。それを「消す」「なかったことにする」ことの意味。なんでも、デザイン上の問題だとか。優先すべきことを取り違えています。
5月5日、どうするべ…。

  • 京都のあちこちに貼られているらしい「日の丸掲揚」ポスターをめぐる話

なんでも「日本人に生まれてよかった」とか書いてあるらしい。それはポスターにするべき問題じゃないし、そういうポスターをつくらなきゃならないような国に生まれてよくなかったよ。
テレビでもそうだけど、こういう内向けの話がドンドン増えているのは、メッチャあぶないです。

  • 「夜ノラーメン太陽」をめぐる話

内向けの話と同時に起こる排外主義がここにあります。店に入ろうとした韓国人俳優を追い返したとか。これ、ポスターの話とセットです。
「同化と排外」です。
動画には「耐えた、耐えたよ、殴らなかった、耐えたよ」という声が入ってたとか。やりきれない怒りがわいてきます。

  • 「地毛証明」をめぐる話

東京都の高校の「地毛証明」があちこちから批判されているのを見て、やりきれなくて、わたしの勤務校にも「地毛登録」があるのを書いたら、はやり批判を受けました。さもありなん。
やりたくなくて、でもやらざるを得なくて、そこで引き裂かれるような思いでやっている教員もいるんですけどね。
なぜそんなことをしなくちゃならなくなっているかという根本的なところを問わずに現象だけを批判することに、やはり違和感を感じます。

最後に、かつてブブさんがリツイートしてくれた文章を転載しましょう。

土肥いつきさんのFBより:「『悪者』をつくらない。『原因』を見つけたら疑う。背景にある『構造』に目を向ける。『構造』をつくり支えることに『自分』は加担しているのではないかと考える。常に『自分』に返す。そして、動く。」 (link: http://www.theater-seven.com/2014/movie_coming-out-story-2014.html)
https://mobile.twitter.com/bubu_de_la_ma/status/433939888547713026

「これでええんか?」2連発

今日は健康診断の日です。なので、午前も午後もバタバタ。そんな中、昨日出揃った新入生の人権についてのアンケートの集計をしました。とは言え、マークリーダーで読み込んで、あらかじめつくった集計用のシートに貼り込んで、そこからプリントアウト用のシートに貼り付けるだけのことなんですけどね。
でも、その結果を見て、いろいろ考えるところがありました。
いや、いいことももちろんあります。が、「これでええんか?」と思うところも多々ありました。なにより、部落差別や在日朝鮮人差別について「よく知っている」「だいたい知っている」と答えている生徒が激減しているのはショックでした。わたしが重視してるのは「今年の結果」じゃなくて「経年変化」です。なので、グラフはつくりません。その代わり、びっしり数値が並んだ表をつくります。それも、現在在席している3学年の経年変化だけではなく、おそらくは知識や意識のターニングポイントとなるであろう「法切れ前」「法切れ後」「学区改変前」が載っています。これらと比較すると、ほんとうに激減です。当然のことながら「どこで知ったか」も「学校」と答えている子どもは20%にも満たない数値です。そして、在日朝鮮人差別については「映画やテレビ」がトップです。これ、来年度は「ネット」を入らなきゃならんかな。
ちなみに、その他のさまざまな人権課題のうち、一番「知っている系」の数値が高かったのは「障害者」でした。まぁ、さもあり南京玉すだれです。理由は2つで、もともとこれは数値が高いということと、さらに障害者差別解消法とのからみでしょうね。でも、そこで教えている内容はどんなものかなぁとは思います。果たして「社会モデル」をきちんと教えているのかなぁ。それとも「社会に入れてあげる「ため」にさまざまな「配慮」が必要なんだ」という感じなのかなぁ。総体としては限りなく不安です。そしてもうひとつ不安なのが、「障害者差別解消法」のあと数値が上がったとするならば、当然のことながら「ヘイトスピーチ規制法」「部落差別解消促進法」成立のあと「部落差別」「在日朝鮮人差別」についても、来年は数値が上がるはずなのですが、果たしてこれらの数値が上がるかどうか。このあたりに注目したいですね。
と同時に、うちの人権教育・人権学習が問われるところでもあるわけです。

そんなことを考えながら、家に帰って、ビールを飲んで、報道ステーションを見ると…。
グルメンピックの話をやってます。曰く「シュレッダーにかけた」「携帯が水没した」「グループからはずれたので過去ログにはアクセスできない」。
これ「ハードディスクにドリルで穴をあけた」とか「携帯水没」とか、この間国会でやってきた証拠隠滅をさっそくやってます。
これからどんどん証拠隠滅が流行るでしょうね。だって、国会で「やってもかまわない」って堂々とやってるんだから。
自分たちがやっていることが、この社会の質をいかに落としているかということ、そして、それを放置するマスコミやわたしたちが、その質を落とすことに加担しているかということを、ほんとうに意識し、変えていかないと、マジでヤバイと思うのですが…。

てことで、明日の授業のマクラは決まりですな。

ようやくやった

今日は4時間目の1年生の人権学習で話をすることになってます。
ここ3年、1学期はビックイベントをしかけてきたけど、今年からできなくなったので、またまた全体的に大きく組み替える必要が出てきました。そんな中で、1年生の1学期は2回にわけて「人権」と「多様性」について考えることにしました。今日はその1回目。「世界人権宣言」の授業です。
基本的には「人権の物語」と「UNITED」というぁゃιぃ映像を使うのですが、それを「どう使うか」が大切です。そこにオリジナリティというか、「使う」か「使われる」かというか、そんなのが潜り込みます。
てことで、ここ半月くらい、ずっとプレゼン資料をつくってました。ちなみに、impressが動画を読み込めなくなったので、やむを得ずpower pointを使わざるを得なくなったなんて悲劇もあるのですが…。
流れとしては、だいたいこんな感じです。

1、人権ってなんだろう
2、人権のリストとしての世界人権宣言
3、ストリートチルドレンを事例として、人権のリストのなにが保障されてないかを考える
4、ホームレスを事例として、人権のリストのなにが保障されてないかを考える
5、「人権の物語」視聴
6、「人権」を具体化させるために人々が声をあげて、さまざまな条約ができた。事例として「婦人参政権・奴隷・人種差別・アパルトヘイト・子ども・障害者・先住民・ハンセン病回復者」をあげる
7、国内においてもヘイトスピーチ/デモに対するカウンターにより「ヘイトスピーチ規制法」がてきた
8、「世界人権宣言」に出てこない人権の事例として「性の権利宣言」
9、それが保障されてない事例としてのLGBT
10、具体化させるものとしての「ジョクジャカルタ原則」
11、「潘基文のスピーチ」視聴
12、人類は「新たな人権」を発見し続ける。それは「みんなが幸せになる」ため
13、どうすれば実現できるか?
14、「UNITRD」視聴

これでだいたい35分です。とりあえず、10分の感想文の時間をつくって終了です。
疲れた…。
終わって担任がたまってるところに行ったら「ありがとうございました」とか「お疲れさまでした」とかは言ってくれるけど、中身についてなにも言ってくれません。メッチャ不安です。

ちなみに、後半はわたしのオリジナルだけど、前半はパクリです。
まずは「人権のリスト」って話は阿久澤さんのパクリ。「保障されてないリストを考える」のは朴君愛さんのパクリ。さらに、ストリートチルドレンからホームレスの流れは肥下ちゃんのパクリです。でも、パクるためには、その人たちの話を聞いて、それについて話し合ってという過程がないといけないから、それをしてない人にはできない。そう考えると、それはそれです。
後半部分は…。たぶん、おべんきょの成果でしょうね。積み木細工のように、隙間なくいろんなものをつなげていく手法はここに教えてもらいました。まぁ、今日の話は隙間だらけですけどね。でも、ペーパーじゃないので、逆に「それが出てくるの?」っていう意外性は大切にしたいなと思います。

ある担任が、感想文を見せてくれました。「人権の大切さがわかった」「自分は人権が守られてるけど、守られてない人がいるのがわかった」みたいな感想の中に「ひとりでも声をあげれば社会は変わる」と書いてくれた子がいて、メッチャうれしかったです。カウンターの写真の中に青ひょんの写真を使うと決めたのは、まさにそれが伝えたかったからです。
やはり、教員をエンパワーするのは生徒ですね。