部落差別についての授業を考える

来週、3年生の人権学習で部落差別を題材とした話をしなくちゃなりません。もともと30分くらいで終えるつもりだったけど、いろんなやりとり…というか、ご注文で、どうもそうもいかないみたいで、もう少し話をする必要が出てきました。まぁ、どうせやるならプレゼンつくってガッツリとやればいいかなと思ったので、作業をはじめたのですが…。
まぁ、自分がこれまで30年くらい、学び、考え、実践してきたことを詰め込むことになりそうです。ちなみに、詰め込む内容が少なかったら詰め込むのは簡単なんですが、詰め込む内容がそれなりにあるので、逆に「なにを詰めたらいい?」となっちゃいます。いや、なんぼでもあるのですが、なんぼでもある状態は、却って「ない」状態なんですね。なので、とりあえず最小限度のことを考えて、それに少しずつ付け足す形で、ようやく全体の流れができたかな。
そんな中でふと思ったこと。
やはり、部落差別って、とてもおもしろい、原始的な差別なんだろなということです。
部落史を勉強する中で「パシリの差別とシカトの差別」なんてことを聞きました。その後、金明秀さんの講演でも「見下し(序列化)と遠ざけ(排除)」という話をしておられました。これ、おそらくどんなテーマに着目しても、同時に両方をしてるんだろうとは思います。が、「ウェイト」が違うかなという気がします。部落差別は、やはり「排除」が強い。ちなみに、だからと言って、「日本特有の」なんていうことは言うつもりはなくて、たぶんどこの共同体でも同じ構造を持つ差別はあるんだと思います。つまり、だからこそ「原始的」ということになる。

「共同体」が拡張し、他の共同体と支配非支配の関係になると、おそらくは「見下し」が優位になるんじゃないかなと思うのです。日本を例にとると、例えば現在で言うなら、アジアの他の諸国であるとか、第三世界への眼差しはそうかなと思います。その少し前は琉球でありアイヌに対してそうだった。ちなみに、今もそれはあるから「土人発言」が出てくる。でも、AASAが意識化されなかった頃は、より「見下し」が強かったんじゃないかな。そして、今は「同化と排除」が同居する感じかなと。
でも、「共同体」が拡張する前、まだ他の共同体と接点を持たない時に、いかなる形態の差別があるのかな。言い換えると「他者なき差別」をどうつくるのかというと、共同体内部からなんらかの理由で誰かを「差別の対象」としなくちゃならなくなる。つまり「差異化」が必要となる。その最初の「理由」が、おそらくは「ケガレ/キヨメ」だったのかなと。「原始的」とはそういう意味です。
つまり
−部落差別:遠ざけ→そのまんま(見下しは遠ざけの理由?)
−他の差別:支配→見下し→見下し+(新たな「支配→見下し」ができることによる)遠ざけ→遠ざけ?
みたいな。いや、よくわかんないですけど。

で、なんでこんなことを考えているかというと、部落差別を日本特有な差別と考えずに、他の差別とどう結びつけながら説明するかということなんです。シームレスにつながるわけじゃないけど、「原始的なもの」として、他の差別に応用するという形でつながっていると考えたら、「わたしたちが共同体をつくる時の作法」として捉えることができる。となるとそれは普遍性を持つし、単に例えば「ヘイト」という現象レベルではない「わたしのこと」になる。そしてそれは、あらゆるところに応用できるものとなる。
まぁ、そんな授業をしたいなと思ってるんですよね。
さてさて、どうなるか…。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です