波瀾万丈なぁ…

今日は、人権学習の日。
2・3年生は、担任が話をして、1年生は具志アンデルソン雄馬さんの講演というパターン。
はたしてわたしがつくった教材は使えるんだろうか。まぁ、そうとう気にはなっていましたが、そこはそれ、やっぱり担任さんなわけで、それぞれに持ち味を出してやっておられたようです。
で、1年生の講演ですが…。相も変わらず具志さんの浪花節のような講演はいいですね。子どもたちがほんとうに引き込まれて聞いています。
ただ、ふと気になることがある。
具志さんに限らずなんですが、当事者の講演って「その人にしか語れないすごさ」というのをしみじみと感じさせられることが、よくあるんですよね。それはそれでいいんだけど、聴く側はそういうのにだんだん慣れてくるなじゃないかという気がするんですよね。特に、子どもたち。
当事者の迫力に比較すると、わたしたち教員の話のなんと迫力のないことか(笑)。すると、当事者の「迫力」に慣れてしまった子どもたちは、わたしたちの話にどれほどの重きをおいてくれるのかなぁと思ったりもするのです。
でもねぇ。
波瀾万丈な人生を送る人なんて、そうそういるわけじゃないと思うんですよね。あるいは、波瀾万丈な人生を送ったからといって、そういう人がみんな、「語れる」わけじゃないと思うんですよね。大切なのは、波瀾万丈であろうがそうでなかろうが、どこかに自分の変わり目みたいなものを感じ、その変わり目から自分の人生をていねいに見つめ直し、そこからなにかを学び、そしてそれを言葉化して伝えることができるかどうかなんじゃないかという気がするんです。
まぁ「波瀾万丈」は、そういう意味では単なるカンフル剤でしかないんじゃないかとも思うんですよね。
とはいえ、「波瀾万丈」に勝つのはなかなかむずかしいわ(笑)。

だれがそうさせた?

神奈川県の高校が服装を理由に不合格にしていた件です。
まぁ、「叩く」人たちの気持ちもわからないわけじゃないけど、こういうことをやった学校の気持ちもよくわかります。
この高校、けっこうしんどい学校なわけですよ。で、昨今の情勢っていうのは、しんどい学校にはしんどい子が地域ごと、あるいは県によっては全県レベルで集まってくる。すると、その学校の風評は悪くなって、さらにしんどい子が集まってくるという、スパイラルになっています。
その時問題になるのは「風評」なんですよね。「あそこの学校は」と、世間から叩かれるわけです。地域や保護者*1の支援も得られない状況の中で、その学校は孤立無援の状況で闘わなくちゃならない。
さらに、教育委員会も「おたくの学校は成果があがっていない」と予算や人間などのリソースを引きあげてしまう可能性があるわけで。
きっとその学校の教職員は一生懸命「なんとかしよう」とがんばっている。でも、がんばってもがんばっても、入学してくる子は「しんどい子」なんですよね。すると、「成果をあげる」ことはすごくしんどくなってきます。ここに、スパイラルを加速する要因が出てきます。
まぁ、すごく雑感的なんですけどね。
で、こうやって、学校の「順位」は、そこにいる教員の頑張りとは関係なく、固定化されていきます。では、その固定化に抗おうとした時、どうすればいいか。非常に簡単でして、「いい子を入れる」あるいは「普通の子を入れる」方向へ走っていくわけです。で、それはとりもなおさずそこからはみ出る子を「入れない」ことにつながっていきます。だって、それぞれの学校には定員があり、入学予定者総数というパイには限りがあるからです。で、成功すれば「しんどい学校」から脱出できるかもしれないけど、新たな「しんどい学校」をつくっていくことになるわけです。で、失敗すると、「何をやってもダメな学校」というレッテルを、いろんなところからはられてしまい、これまたスパイラルを加速する要因になったりするわけで…。

なんだかなぁ…。

*1:「しんどい子」の保護者はたいてい忙しいので、なかなか教育に自分のリソースをまわすヒマがないっす。

なにを語り、なにを伝えるか

いままで人権にかかわるいろんな講演を聞いてきました。「おもしろい!」と思ったものもあれば、「ん〜…」と思ったものもあります。
もちろん、わたしは基本的には楽観主義者ですから*1、「どんな話の中にも学ぶところがある」という前提で聞くことにしています。で、実際そうだったりします。一番もったいないのは「どうせ」というバイアスをかけて聞くことだと思っています。まぁそれはどうでもいいのですが。
人権にかかわる講演の場合、大きく「当事者の話」と「非当事者の話」のふたつにわけられる気がします。で、それぞれに「おもしろいもの」と「おもしろくないもの」がある。つまり、合計4パターンがあるということにしておきます。
それぞれについてのコメント。

  • 非当事者の話でおもしろくないもの

まぁ、一番ありがちと思われるものですね。でも、これってさいわいにしてわたしが今まで聞いた中にはほとんどないんです。おそらくは、それはわたしに聞く機会をつくってくれている人(たち)が、そういうものをあらかじめ除外してくれているからなんだと思います。ほんとうにラッキーです。
で、このパターンの特徴は、具体性に欠けることかな。「べき」で片づけられると、「いや、ええし…」となってしまいます。それでも、どこかに学ぶべきことは探しますけどね(笑)。それすらもなかったのは、1回か2回くらいかなぁ。

  • 非当事者の話でおもしろいもの

これ、意外と多いです。例えば、「知識」なんかに関しては、往々にして当事者の非研究者よりも非当事者の研究者の方がはるかに豊かです。しかも、「人権」なんかに足をつっこんでいる人は、なんらかの「現場」を持っている/持っていた人がほとんどです。そういうところに立脚した話は、そうとうに刺激的です。
と同時に、非当事者の聴く側からすると、「同じ地平」に立っている人ですから、変な垣根を感じずにすみます。いわゆる「資格の絶対性」みたいなものがないので、例えば「あぁわたしにもできるんだ」という安心感・親近感を感じさせるものもありますね。

  • 当事者の話でおもしろくないもの

実は、これも意外と多いんですよね。いや、感動はしますよ。でも、それだけです。「たいへんなんだなぁ」「差別の実態ってすごいなぁ」とは思うけど、「じゃぁ、わたしはなにをすればいいの?」となります。でも、具体的に「これこれをしてください」とは講師の方は言わないし、もしも言われたとしても「でも、わたしのまわりにはいないし」みたいな感じになってしまいます。
と同時に、非当事者の聴く側からすると、ともすれば「資格の絶対性」みたいなものを感じさせてしまいがちです。そうなると、完全に「タニンゴト」。
このパターンの人がなぜこうなるのか考えてみると、「伝えたいこと」があふれているんじゃないかなぁと思うのです。でも、「伝えたいこと」と「聞きたいこと」の間には、往々にしてギャップがあります。そのギャップを話す側が感じた時、その責任を話す側に持ってくるのか聴く側に持っていくのか。もちろん、後者は論外なんですが、前者にもいろいろとあると思います。「伝えたいこと」があふれている人は、もしかしたら「あぁ、自分はまだまだ話術が足りないなぁ」というところにいくのかもしれない。でも、これってどうかなぁと思うのですが。

  • 当事者の話でおもしろいもの

基本的には、当事者が語ろうが非当事者が語ろうが、そんなものは、実は関係ないんですよね。聴く側としては「おもしろい」か「おもしろくないか」。ただそれだけなんだと思います。
ということは、「当事者」であることによりかからず、聴く側が「聞きたい」と思っていることや、「あ、そんなことがあるんや!もっと聞かせて」って思ってもらえるようなことを、こういう人は話しているんじゃないかなぁと思うのです。もしも「おもしろい」と感じてもらえない時は、「この人たちが聞きたいと思える話をできなかった」という評価を自分にくだすわけです。
例えば、牧口一二さんの話はそうでした。例えば、K口くん*2の話もそうでした。
みなさん、当事者であることに寄りかからず*3、実践者の立場で、あたかも「非当事者であるか」のように語ります。そこにたくさんの「気づき」を与えられるんですね。
自ら気づいたことは、自分自身の手中にあります。だからそこに、「なにをすればいいの?」という問いはありません。気づいた時点で、その答えは同時に手にしているからです。

まぁこんなことをつらつら考えながら、さて、わたしはどこにいるのかなと振り返ります。願わくば、「単純におもしろいもの」を語れる人間でありたいなと思う今日この頃ですよ。

*1:なんか最近つくづくそう思います

*2:いきなり仮名(笑)

*3:もちろん、当事者だからできていることはたくさんなるんですけど、そこに「資格の絶対性」を感じさせません

航路変更の方法

大学の頃、キャンプ場でボランティアをしていました。そこのキャンプ場、8人漕ぎとか12人漕ぎのカッターがあるんです。これのスキッパーをしなくちゃならないんです。
はじめてスキッパーをする前に、先輩からいくつかのことを教えてもらいました。

  • 舵を切るのは、子どもたちがオールをもどすために水上にあげている時にすること。

そうしないと、舵が抵抗になって、そうでなくても非力な子どもたちがすごくしんどい思いをするんですね。

  • 舵は急激に切らないこと。

船は急には曲がらない。なので、行きたい方向を考えながら、そこまでに十分な余裕を持って、ゆっくりとめざしていく必要があるんですね。

  • 水の流れを読むこと。

沖から岸に向かって流れていると、しんどいけど安全なんです。逆に、岸から沖だと、楽だけど帰れなくなる。もちろん、それ以外にも右からか左からか。これから行きたい方向とあわせて、行きか帰りかどちらが楽でどちらがしんどいのか、そのあたりを読んでペース配分しないといけないんですよね。

  • 早く漕がせるよりも、息をそろえて大きく漕がせること。

オールは長いストロークで、みんなで息をそろえて漕ぐと、すごく効率よく動くみたいです。

  • 接岸する時は、どこで「漕ぎ方やめ!」を言うかを考えること。

接岸する時は舳先からなんですが、勢いよくつっこむと当然傷みます。なので、惰性で動かしながら、できるだけショックがないようにぴたりと岸につけるのがベストなんですよね。つまり、どこで漕ぐのをやめるのかを、これまた流れを読みながら考える必要があるんです。

他にもいろいろありました。
これ、うまくいくとおもしろいんですけど、なかなか会得するのは難しかったですね。
にしても、こういうのって、人生と似ているよなぁ(笑)。

「なんだかなぁ…」の中身

ちょっとハミルトンはアグレッシブすぎな気がします。やっぱ曲がりきれなくて第1コーナーをイン側からまっすぐいったらいかんと思う。
かたや、マッサとブルデーに関しては、やっぱマッサに非があるように思ったけどなぁ。わたしはフェラーリが好きだけど、全体的にフェラーリに甘すぎな気きがする。
いずれにしろ、F1って、あまりにも複雑すぎるんじゃないかなぁ。もっとシンプルにしたほうがおもしろいと思うんだけどなぁ。
やっぱ、バイクのレースはおもしろい。

微分と積分

まえに、id:annojoさんのところで、微分積分の話がちょろっと出ていました。
性同一性障害の苦痛は変化に対してである」という3日間(翌日分がこれで、最終回がこれ)の連載がそれです。
あの時は、すごくおもしろいなぁと思ったのですが…。

変化が急激であっても、その変化を受容できるキャパシティがあれば、それはそれなりになんとかなるんじゃないかなぁと、あの時思っていたんですよね。もちろん、そのキャパシティは個人差があるし、時代や社会のありようによっても差があるんですけど。
で、そのキャパシティって、よく「コップ」に例えられるんじゃないかな。で、「コップの水がこぼれた時云々」という言説が出てきて、それが「積分」的なとらえられ方と結びついていく。
でも、キャパシティって、もしかしたら「風船」のようなものかもしれないと思うのです。あるいは、「シャボン玉」とか「ゴム」かな。
中に入っているものが少ない量だったら、それなりに急激な変化であっても持ちこたえられる。ゆっくりとした変化には耐えられるし、その状態だったらそこそこの量まで持ちこたえられる。でも、キャパシティすれすれになった時、それがゆっくりの変化だったらそれでもまだまだ持ちこたえられるのかもしれないけど、少量であっても急激な変化(負荷)が加わった時、キャパシティを越えてしまう。
つまり、前提として、それなりの「受容量(積分)」があり、その先に「変化(微分)」があるのかな、と。

前を向くということ

そんなたいしたことじゃないんですけどね。
いや、「ノーベル賞受賞」のニュースを発信している人たちと、受賞した人たちのあまりのギャップに笑っているだけのことです。
とにかくインタビューアーは「うれしい」というひとことを引き出したいんだけど、受賞した人たちは「うれしかったのは実験で確認された時」とか「過去のこと」と淡々としていました。さらに「すげぇ!」と思ったのは、「あれは、まぁ発表した時点で、ほぼ正しいとわかっていましたから、もう決着のついたことなんですよ。それからまた新たなことにとりくもうと思っていますから」みたいなことを聞いた時です。
インタビューアーは「どんなことにとりくもうと思っておられるんですか?」と、これまたピントはずれな質問。そんなん、やってる最中に決まってますやん。

なんちゅうか。「やったなぁ」と思った瞬間、それを過去のことにするという生き方。はたして自分にできているだろうか。できてないよなぁ。

延命の道を見つけたか?

昨日、ニュースを見ていたら、「
補正予算あげたら、解散よりは景気対策に、もっと関心を持つべきだというのが世論だと思う
」という発言があったそうな。まぁ、世論を自分が誘導できるみたいな自信には吐き気が出てくるけど、それはおいといて…。
記事には「解散のタイミングをはかる」って書いてあったけど、もしかしたら「うまくいかないのは民主党のせい」とか言いながら、解散せずにずるずるいく道もあるのかなぁ、と。
なにせ、強行採決を繰り返しながら、「参議院強行採決するのは云々」とか言う党の話だからなぁ。

思えば遠くに来たもんだ

新聞を見たらすでに8時をまわっていたので見ませんでしたが…。
そうか、NHKもLGBT特集をするんだ。
そういえば、昔、ひとり「トランスジェンダー」と言い続けた人がいたけど、そんな人がいたことを覚えているのもその人だけだろうな(笑)。

にしてもさぁ…。
「特設サイト」の「相談窓口」にあるの、基本的には全部東京のグループやんか。

美しい日本の習慣・再び(笑)

で、ホテルでニュースを見てびっくり。
それにしても、政府の人間が、ひとつの労働組合に対して「つぶす」って言っていいの?
もちろん、日教組は、いわゆる労基法に定められている労働団体とは違います。でもね、だからといって、「つぶす」って言って、ほんとうにいいの?その組合・団体の主張が自分の考えと違うからといって、一閣僚個人の思想によって、権力を持って「つぶす」というなら、それは、ファシズムだとわたしは思うけど。それがまかり通る政府って、わたしは許せない。