境界線上の存在?

今日は某在日外国人教育関係の会議。
午前が事務局・役員会ということで、まぁ午後からの打ち合わせをするわけです。で、集まったのはわずか3人。こういう日もあります。さくっと打ち合わせをしてお昼ご飯。軽くビールを呑んで午後の会議に備えます(笑)。
午後からはそれなりに人も集まったので、けっこう充実した会議ができました。
それにしても、さすがは全国から集まってくる「運営委員会」です。単なる飲んだくれとか牢名主みたいな人とか、まぁひとくせもふたくせもある人がそろっているのですが、その情報量の多さや考えの深さ、そしてなによりもフットワークの軽さは、なかなかすごいものがあります。こんな人たちと日常的におつきあいができるというのは、ある意味幸せなんだろうなぁと思います。もしかしたら、実は不幸なのかもしれませんが(笑)。
でも、そういう尖ったところがまた、ケンカの種にもなるわけで、なんだか知らないけど、あちこちでケンカになっているみたい。
ところが、不思議なほどにわたしはそのケンカから除外をされています。
これ、なんなんだろう…。まぁ、わたしは尖るところまで深くこの活動にかかわり切れていないというのもひとつの要因かもしれません。考えてみると、「なんでわたしが全国の事務局員やねん」というのは昔からの謎でした。ふさわしい人は他にもいっぱいいるのですが、いろんな人間関係の綾とか、その他タイミングの問題なんかで、たまたまわたしのところにまわってきて、そのまま10年みたいな感じなんですよね。
でも、最近思うのは、もしかしたらそういう存在も必要なのかもしれないなとも思うのです。ひとつのことを深くやることによってわかることと、そうすることによって逆にわからなくなることがある。だから、深くやる人と浅くやる人が混在することで、全体としてのバランスがとれるのかなぁと。
こういう役回り、ええ加減なわたしにピッタリかもしれない(笑)。

表現の難しさ

あらかじめ断っておきますが、特定の人を非難するために書くんじゃないです。

文章表現ってほんとうに難しいですね。
なぜなら、ある「内容」を文章に表現しようとする時、どうしてもそれを「言葉」に置き換えざるを得ない。ところが、自分が知っている範囲の言葉にはやっぱり限りがあります。その「範囲」って、おそらくはその人の興味や関心、あるいは生活範囲にかなり影響をされていると思います。
例えばわたしだと、セクシュアリティ系の言葉についてはまぁボチボチ知っているつもりですが、ガンダム系についてはさっぱりです。なので、「ガンダムの紹介文を書け」と言われたら、とんでもないことを書く可能性がある。
まぁそういうことです。
で、あるチラシの草案にあったわたしの活動の紹介文。

セクシャルマイノリティの人たちのための集いや、ノーマルの人たちへの講演会など、精力的に活動されています。

わたしの話を聞きたいと思う人って、それだけでたいがいアブノーマルだと思うけど(笑)。
というのはおいといて…。
たぶん、「セクシュアルマイノリティ」という言葉の対語としての「セクシュアルマジョリティ」ってあるのかどうかずいぶんと悩んだ末、とりあえずこう書かれたんでしょうね。決して、「セクシュアルマイノリティ」=「アブノーマル」という意図があったんじゃないと思っていますです^^;;。

にしても、「ある少数者」を表現する言葉はあるんだけど、「その対としての多数者」を表現する言葉って、つくりだしていかないと、なかなかないんですよね。そこに「マジョリティ」が無自覚に「させられていく」構造があるんだろうなぁ。
あ、そういえば、去年のGID学会でひっぴぃがそういうことを言っていたなぁ…。

アンペイドワーク・考

今朝、あることがあって(;_;)、「アンペイドワークってなんだ?」ということを真剣に考えはじめました。
柏市の参画eyeキーワードから転載です。

無償労働と訳され、賃金や報酬が支払われない働き方や活動を指します。その代表的なものは家事や育児、介護、ボランティア活動などですが、自給自足的な生産活動や途上国での水汲みや食料調達などの生存維持労働も含みます。これらの大部分は女性のアンペイドワークによって担われてきました。そして対価をもたらさない労働は労働とみなされず、労働統計にも計上されず、「見えない労働」として不当な評価をうけてきました。

ふむふむ。これくらいのことはさすがのわたしも知っています。
続いて…

1975年の国際女性年をきっかけに、生活のあらゆる領域での女性の労働の価値を再評価し、男女の不均衡な役割分担を見直そうという動きがでてきました。1980年以降、 女性のアンペイドワークの貢献度を目に見えるものにすることが不可欠であるという認識から、国連の機関を中心に、その貢献度の測定と評価のためのデータ収集が進められました。
日本でも1997年から経済企画庁が「無償労働の貨幣評価」を発表しています。無償労働の範囲は、炊事・洗濯などの家事、介護・看護、育児、買い物、ボランティアなど社会的活動の5項目にしぼられています。それによると、1996年の無償労働の評価額は国内総生産GDP)の23.2%を占め、その84.5%は女性が担っており、男女の役割不均衡を如実に表す結果となっています。

問題は項目なんだな。その中でも「ボランティアなどの社会的活動」。こいつの範囲はどこからどこまでなんだろう。
PTA活動は、たいていアンペイドワークに含まれているみたい。地域活動も同様です。じゃぁその「地域」ってどうなるのかな?居住地近辺はたぶん含まれる。じゃぁ、釜ヶ崎の炊き出しは入るのかな?まぁボランティアっぽいです。でも、主催団体によって違うかもしれない(笑)。某基督教団体あたりが「慈善事業」と銘打ってやると「ボランティア」という臭いがしますが、釜日労の越冬闘争の支援だと「ボランティア」という感じがしない。
わたしも参加している、某在日外国人教育研究協議会関係の活動はどうなるんだろう。
例えば、某キリスト教青年団体が「国際交流」とか銘打って大学生を集めて子ども達の交流会をしたら「ボランティア」臭がプンプンするけど、「京都・在日外国人生徒交流会*1」とか、「ボランティア」という感じがぜんぜんない。どちらかというと、個人的には「趣味」だし、外から見たらもしかしたら「宴会」かもしれない。昔ある人からは「特定の党派の活動」とか言われたことあるし。
トランスジェンダー生徒交流会」は子どもを対象にしているから、それでも「ボランティア」っぽいかもしれない。でも、大人を相手にしている「玖伊屋」は、まったくボランティアじゃない。まぁ、内実はどちらも「宴会」だからまったくボランティアじゃないですけどね。
てことで、wiki

ボランティアは、古典的な定義においては自発性、無償性、利他性に基づく活動とされてきた。しかし近年ではこうした定義への再検討が加えられている。まず無償性に関しては、有償ボランティアという存在が出現し受け入れられていることで、ボランティアの定義から外れつつある。

一方、先駆性、補完性、自己実現性といった新たな概念がボランティア活動の特徴として指摘されるようになっている。先駆性とは、ボランティア活動が既存の社会システム中に存在しない役割を担うことが多いということから指摘されるもので、こうした先駆性を持つ存在をチェンジエージェントと呼ぶ。ボランティア分野のチェンジエージェントとしてティーチ・フォー・アメリカなどが挙げられる。補完性とは、既存の行政システムでは対応しきれないニーズを満たす性質のことである。自己実現性とは、ボランティア活動がそれに参加する個人の自己実現の場の役割を果たす性質に注目した概念である。

ふむ。
てことは、これを「玖伊屋」にあてはめてみます。
「自発性→△*2」「無償性→◯」「利他性→△*3」「先駆性→◯」「補完性→◯」「自己実現性→△*4
てことで、少なくとも×はひとつもないので、「だいたいボランティア」だな(笑)。
てことは、わたしのアンペイドワークの時間は長大なようです。

男女平等社会とは、男女が有償労働と無償労働をバランス良く担える社会であるということが、いまや世界の共通認識となってきています。国レベルでの支援策のもとに、住み良い社会を目指して私たち一人ひとりの意識改革が必要だと思われます。

なんか、結論と違う気がする^^;;
まぁ、パートナーとわたしの関係においては「男女」じゃないのでかまわないのか(笑)?

*1:3月14日4時〜15日午前・東九条でやります。暇な人はのぞいてください。冷やかし大歓迎です

*2:スタッフという強制力がある程度働いている。そのスタッフも自由意志かというと、あなかちそうとも言い切れない。あぁややこしい

*3:自己実現性という部分を含む以上、完全な利他性とは言えない

*4:利他性という部分を含む以上、完全な自己実現性とは言えない

エネルギー保存の法則に反するもの

そういえば「肩こり保存の法則」というのもありますね。
肩が凝っている人の肩を他の人が揉む。すると、揉んだ人の肩が凝る。で、損失分を考えると、世界全体の肩こり量は増加していく。みたいな…。

でも、「エンパワー保存の法則」ってあるんだろうか。
誰かの話を聞いて「エンパワーされた!」と感じます。そのことをスピーカーに伝えたら、スピーカーもまたエンパワーされます。もちろん「搾取された」という思いの時もあるだろうけど、そればかりじゃない。
互いに互いをエンパワーしていくという作業は、もしかしたら、世界全体のエンパワー度の増加につながっていくのかもしれない…。

そういえば記念日

そういえば、1922年の今日、岡崎公会堂で全国水平社創立大会があったんだ…。
はたしてあれからこの国はちょっとはマシになったんだろうか…。
少なくとも「差別はいけない」ということは浸透したな。ふむ…。

国民という呼称の氾濫

なんか、小沢の秘書がタイーホとか…。
まぁそれはそれとして、政治家もマスコミも、ひたすら「国民への説明責任」と連呼しています。
「国民」なぁ…。
てことは、在日外国人への説明責任はないということかなぁ。
「国民」という言葉は、自動的に「国民でない人=外国人」を除外する言葉なんですよね。
最近、総選挙をにらんでか、やたら「国民」「国民」と連呼しています。それを聞くたびに、知りあいの在日外国人の人たちの顔が浮かびます。前はこういう言い方、少なくともマスコミはあまりしなかった気がするけどなぁ。
そういえば、マスコミはかつては「北朝鮮朝鮮民主主義人民共和国」と言っていたのに、今では平気で「北朝鮮」だからなぁ。
どこかで歯止めをきかせないといけないし、そのためには、ひとつひとつの言葉の意味をていねいに考えながら使っていかないといけないような気がします。

そこで聞くか?

今日は、職場をちょっと早めに離れて、某公立高校通信制に願書をもらいに行くことにしました。2月としては暖かい陽射しの中を、バイクでブゥーっと走ると、すごい気持ちがいいです。
で、願書の受けとり。事務の方から
「ここに必要事項を書いて下さい」
と言われて、その紙を見てびっくりです。
出身校・名前・学年は、まぁ必要事項だからいいです*1。その横には「性別」とあります。
入学後ならまだわかる。いや、出願書類に書くのも、まだわからないわけではない*2。願書をもらうのになぜ性別がいるのか?
予想外の出来事に、思わずうろたえながら書いてしまった自分が情けないんですけど、これはあしたうちの管理職に言わなくちゃな…。

*1:学年もいるのか?とは思うけど、まぁ転学用の願書だからしかたがないのかもしれない

*2:必要ないと思うけど

お局日記に寄せて(笑)

呑みながら「女性のコミュニティ」と「男性のコミュニティ」の話をちょろっとしていたのですが、おもしろい話になりました。
ある方に「女性のコミュニティはだいたいフラット」と言うと
「いや、女性の方がヒエラルキーがきつい気がする」
と言われるんですね。
「それは、例えばバレエとか、そういうところでは、すごくきびしい競争があって、そこに厳然たるヒエラルキーがある」
と言われるんですね。なるほど。そういえばそうですね。言われてみると、女性のヒエラルキーって、すごく厳しい気がします。反対に、男性社会のヒエラルキーって、実は少し緩やかです。「上と下の関係」も、もしかしたら女性社会のそれに比べて緩やかかもしれません。
そう考えた時、「男性社会のヒエラルキーって、成熟しているのかなぁ」とふと思ってしまったのです。
極端な話、男性社会のヒエラルキーにおいて、自分の位置の決め方ってすごく簡単でして、お互いに「いくつ?」とか「(大卒の場合)大学何年に入ったの?」とかいう情報をやりとりすれば、簡単に「位置」が決まります。あとはその秩序に従って適切な位置関係を保てばいい。
かつ、それをあえてひっくり返すことも「あり」だったりします。というのは、厳然たる「位置」が決まっているから安定しているんです。上の人間からしてみたら、「かかってこいや!」みたいな感じでちょこっと角の突っつきあいをして、「こいつおもろいやん」とか思ったら「おもろいで」ということで「位置」をつくる。「上」の人間には「位置をつくる/つくらない」という権限もあるわけです。で、それを「下」の人間もわかって受けいれている。
さらに言うと、「下」の人間も、いずれは「上」になることが約束されている*1
に対して、女性のヒエラルキーは、まずは総あたり戦を繰り広げないといけないのかな?しかも、「ヒエラルキーを維持しよう」とする力と「フラットであろう」とする力が常に拮抗している。いや、おそらくは「フラットであろう」とする力の方が強い。拮抗があるのは少数である「上」の持つ権力によるんじゃないかなぁ。だからこそ、「上」の人間はヒエラルキーを維持するために、より強固に自分が「上」であることを守りにはいる。そこに「男性社会のヒエラルキー」にある「余裕」はない。
そう考えた時に、男性のヒエラルキー社会における革命の方法と、女性のヒエラルキー社会における革命の方法は、どうやら違うらしいというふうに思いはじめるのです。
てことで、より広範な「フラットな関係」を求める人たちを広げるための営みとしての宴会、ぜひとも成功させて下さいね。できることがあったら連絡くださいな。>Y◯ちゃん

*1:まぁ、今となっては崩壊しているようにも思いますが

「場」をつくってもらうこと

最後の宴会の時に、北海道のT村さんとしゃべっていたことですが…。
男性のコミュニティへの入り方って、ヒエラルキーの中のどこに位置づけられるかを、適当に突っついて探って、「ここだ」と思ったらサクッと入れる。まぁ言ってみれば、トップとかボトムとかと突っつきあいはしなくてもいいんですよね。
で、女性のコミュニティに入ろうと思うと、そうはいかない。
女性のコミュニティのありようって、多少の上下はあるにしろ、基本はフラット。例えがいいかどうかわからないけど、多少うねりのある平面にボールがひしめきあっている感じかな。
そこに入れてもらおうと思うと、一人一人とていねいな対話*1を続け、もしかしたら、わたしとの対話の中でわたしを受け入れてくれた人がさらに他の人と対話をしてくださって*2、そうしてみなさんが少しずつ自分の場所を譲りながら、みんなでわたしの「場所」をつくってくださる。そうやってわたしの「場所」ができる。
そうやってようやく入れるのが例えば「女子トイレ」。いや、単なる「おしゃべりの場所」もそうか。
で、そういうことを繰り返しながら、「女性とは何か」ということを、少しずつ学ばせてもらっていくんだろうなぁ。

*1:対話は「しゃべりあう」わけじゃなくて「聞きあう」のかもしれない

*2:「いつきさんを入れてあげようよ」みたいな

伝えることの難しさ

ここでちょっと訂正しましたが、ずっと心の中に小骨のようにひっかかっていたことがあります。それは、昨日の学習会の最後の「〆の言葉」にかかわることです。
わたしはあくまでも「当事者には権力がある」ということだけを伝えたかったんです。
ところが、「〆の言葉」では、それを特定の当事者団体について援用されてしまいました。
わたしが言いたかったのは、「当事者も支援者も、そのことを心に刻む必要がある」ことだったのです。にもかかわらず、「〆の言葉」では、それを特定の当事者団体への批判として使われてしまいました。そのことが、ずっとずっと心にひっかかっています。
どうしてわたしはあの時「ひっかかっている」と言わなかったのだろう。いや、それよりもなによりも、そういう伝え方しかできなかったのだろう。
せめてそのことについて、ここで再度書くことにしなければ、なんか心の中のもやもやが晴れない気がします。いや、書いたとしても、「あの時・あの場で」言わなかったもやもやは決して晴れることはないだろうけど。

わたしがあそこで話したのは、なによりも、「当事者と支援者の共依存」の話でした。そして、その時のわたしのターゲットは、「支援者」に向かっていたのです。なぜなら、あそこにいた人たちは、「支援者」としてあの場にいるだろうと考えていたからです。もちろん、わたしも含めてです。
「権力」って、それを持っている人単独で存在するのでしょうか?おそらくは「違う」と思います。その権力を認める関係の中に存在をしているのではないかと、わたしは思います。つまり、権力「関係」ということでしょうか。
当事者が持つ権力性は、誰よりも支援者がよくわかっています。そして、支援者はその権力性を「当事者−支援者」という関係の外部に向かって、往々にして発信をします。まさに、「当事者の持つ権力」を、支援者は「利用」するわけです。しかし、その「権力」は、当事者の存在によって担保されています。そして、その「権力」を外部に対して保持し続けるためには、「当事者」は当事者であり続けなければなりません。となると、「支援者」こそが「当事者」を必要としていることになります。
ここに共依存の関係があらわれてくるのではないかと思うのです。
「当事者」としてのわたしは、「支援者」に「当事者の権力」を行使していないか?
「支援者」としてのわたしは、「当事者−支援者」の外部に対して「当事者の権力」を利用していないか?
そのことを、「自戒の念」を持って意識し続けなければならないのではないかということを、あの場で提起をしたかったのです。

わたしたちが過去の運動から学ぶとすると、それは特定の運動団体に対する批判としてあらわれるのでは決してないのだと思います。そうではなくて、ある「当事者」とされる人と、そこにつながる支援する人たちの「関係性」の中から学ばなくてはならないんだと思います。
例えば、部落問題について考えるならば、解放同盟のみが悪者になっている昨今の風潮には、わたしは強い違和感を感じます。部落問題を通じて、部落の当事者と支援者の間にどのような関係があったのかということを考える必要があると思うのです。その支援者とは、例えば解放同盟を支持する人たちであり、例えば全解連を支持する人たちであり、例えば同和会を支持する人たちであり*1、例えば同和行政に携わる人たちであり、その他、わたしの思いつかないところにいるであろうさまざまな人たちなわけです。
そうした「支援者たち」こそが、実は「当事者(団体)」との間に共依存の関係をつくり、「当事者の持つ権力」を利用してきたのではないだろうかという提起なんです。

トランスジェンダーの子どもたちにかかわる支援者として、あるいは部落の子どもたちにかかわる支援者として、あるいは在日外国人の子どもたちにかかわる支援者としてのわたしは、そのことを心に刻みながら「支援者」としてのわたしの立ち位置を考えていきたい。
そういうことを、あの場で言いたかったんですよね。
と書いても、すでに時遅しかなぁ…。

*1:例えば、選考採用と言われるものは、いずれの団体にもありました